第27話 気持ち
「――わたし、心臓の病気なんだ」
ミンミンと蝉のうるさい鳴き声が、真夏の公園に降り注ぐように響き渡る。アスファルトの照り返しが目に眩しいが、幸いにも日陰になっているベンチには、涼しい風がわずかに吹き抜けていた。
そこに、少年と少女が二人、向かい合って座っていた。
「それってどういうこと?」
少年は、どこか間の抜けたような声で尋ねた。
「心臓が悪いってこと。今は大丈夫になったけど、そのせいであんまり運動ができないの」
少女は麦わら帽子を目深に被り、ワンピースの裾を揺らしながら答える。彼女の膝の上には、いつも持ち歩いているペンとノートが置かれている。自作の小説を書き綴るための、大切なアイテムだ。
「ふーん」
その言葉の意味が、まだ少年にはあまり理解できないようだった。彼にとって「運動ができない」というのは、単にするかしないかという選択肢の一つに過ぎなかったから。
「だから、素直が普通にスポーツしてるのは羨ましい」
少女のその一言に、少年ははっと顔を上げた。その瞬間、彼の頭の中で、何かがつながったような感覚がした。
「あ……」
少年は少女との会話を通して、初めて自分が「普通」にしていることが、どれだけ恵まれたことなのかを理解した。自分が当たり前のように享受している「普通」が、目の前の少女にとっては、決して当たり前ではないのだと。それが、どれほど特別なことなのかを、彼ははじめて知った。
「大丈夫って言ってたけど、もう病気にならないの?」
少し真剣な表情で少年は問いかける。彼の瞳には少女への心配が宿っていた。
「再発はするけど……しばらくはなってないから大丈夫。でも、ダメになったら、心臓マッサージとかしなくちゃいけないの」
「心臓マッサージ?」
少年の頭には、疑問符が浮かんでいる。少女は、そんな彼の様子を見てにこりと微笑んだ。
「うん。こっちに寝てみて」
少女に促され、少年は言われるがままにベンチに仰向けになった。
少女はベンチの前に立つと、両手を重ねてみせた。
「こうやってやるんだよ」
「わ……」
すると少女は、少年の胸あたりに両手を置き、軽く押した。その動作は、まるで人形を相手にしているかのようにぎこちなかった。それを何度か繰り返して、実際にやってみせた。
「これが心臓マッサージ……」
「うん。両手を重ねて、胸の真ん中を強く押して……それでもダメなら…………」
今度は少女が少年の顎にそっと触れ、顔を上に向けて人工呼吸の体勢を作り、どうやるかを指導した。
「やってみて?」
「わかった! これでもしクラウが倒れても救えるんだね!」
「そうっ!」
少年の瞳には、使命感が宿っていた。彼は自分が少女を救える存在になるかもしれないということに、興奮を隠せない様子だった。今度は、少女がベンチに仰向けになり、少年が今やったことを実践することになった。
「えっと、確か両手を重ねて……ここに手を置くんだよね」
少年が置いた場所は、少女の胸の間、ちょうど胸の膨らみが始まるあたりだった。
「あっ、そ、そこは……」
「ん? どうかした?」
「な、なんでもないっ」
実践してみせて、と言ったものの、少女は自分の胸に手を置かれることを考えていなかった。まさか、こんなに直接的に触れられるとは思っていなかったのだ。そうして実際に手を置かれると、途端に顔が熱くなり、恥ずかしさで俯いてしまう。
「それで何度か押し込んでいくんだよね」
「うん。お母さんによれば、強めに押すみたい」
「へえ……それで、今度は、顎を上に向けて……」
「んっ……」
(な、なんかこれ……いけないことしてるみたい……素直は何も感じていないの?)
人工呼吸の体勢を整えると、少年の顔が少女の顔に近づく。彼の呼吸が、少女の頬にかかる。その距離は、次第に縮まっていった。
「え……えっ!?」
「どうかした? こうして、口をくっつけるんだよね?」
「えっ、まっ……ちかっ……だめぇっ!!」
「いだぁっ!?」
止まることのない接近。少年のその無邪気な様子に、少女は恥ずかしさと、そしてこれ以上近づかれたらどうなってしまうのかという危険を感じて、思わず彼の顔をぶっ叩いてしまった。
パン、という乾いた音が公園に響き渡る。
「あ……ごめん」
反射的に手が出てしまったことに、少女はすぐに反省した。
「もー、なんだよー。痛いじゃんかー」
「だ、だって……素直が……きききき……きっ」
「え?」
「気持ち悪いんだものっ!」
「なんでぇ!?」
驚きの顔をした少年。その表情は、まるで狐につままれたかのようだった。
少女はそれを見て、せきを切ったように大きく笑った。夏の暑さも、蝉の鳴き声も、全てが遠く感じられるほどに、その場には二人の笑い声が響いていた。
これはひと夏の思い出。懐かしい緑の匂いがする公園での二人のお話――。
◇ ◇ ◇
「ん……ぁ……ぅ…………」
意識が浮上する感覚。重たい瞼をゆっくりと持ち上げると、まず目に飛び込んできたのは、病院特有の蛍光灯の強い光だった。前が見えないほどの眩しさに、思わず顔をしかめる。
瞼を一度閉じてから、もう一度ゆっくりと開けると、やっと瞳が視界を受け入れ始めた。白い天井、点滴スタンド、そして――。
「――おはよう、クラウちゃん」
優しい声が、耳に届く。その声の主は、私の横に立つお母さんだった。
「おかあ、さん……」
掠れた声でそう呼んだ。
すると、その背後から、さらに強い声が聞こえてきた。
「クラウディア! クラウディアっ!!」
「おねえちゃあん……良がっだ……良がっだよぉ……っ」
目の前には、愛する家族の顔があった。お母さんとお父さん、そして、私の手を握りしめて涙を溜めている妹のノーラ。お父さんとノーラは、その目にいっぱいの涙を溜めていたが、お母さんだけは、穏やかな笑みをこちらに向けていた。彼らの顔には、安堵と、そして深い疲労の色が滲んでいる。
私の体は、たくさんのチューブに繋がれていて、満足に動かせなかった。
腕には点滴の針が刺さり、指先にはクリップが挟まっている。
「あなた、心臓の病気が再発しちゃって倒れたのよ。でも安心して、手術は成功して、なんとか今は大丈夫だから」
母の声は、私を安心させるように、ゆっくりと語りかけた。
「そう……心配、かけちゃった……」
頭の整理ができない。なぜ私は倒れたんだろう。
それに――夢。
意識が戻る直前に見ていた夢は、幼い頃の記憶だった。小さい素直の声が聞こえて、私にキスしようとしてきたから、思わずぶん殴ってしまった、あの懐かしい、楽しかった頃の夢を見ていた。蝉の声が響く、あの公園での出来事だ。
「クラウちゃん。ゆっくり聞くのよ。あなたが今生きているのはね、越智素直くんのお陰なの」
「ぇ…………」
素直……? なんで……。どうして彼の名前が、ここで出てくるのだろう。
「あなたが倒れた時、心臓は動いていなかったそうよ。でも、彼が素早く適切な処置をしてくれて――それで心臓がまた動きだしたらしいの。心臓が止まった時、タイムリミットがあるのはあなたもよく知っているわよね」
そうだ。私は小さい頃から心臓の病気で、母から心臓が止まったらどうなるのかをよく聞かされていた。それは、私の幼い頃の記憶に深く刻み込まれている。
確か、一度心臓が止まると、十秒で意識を失って、四分以上が経過すると、麻痺が残ったり……十分が過ぎると脳の機能も回復しないって――。私の脳裏に、母の言葉が蘇る。
「ちゃんと喋れて、私たちのことを覚えているあたり、障害はなさそうね。今お医者さん呼んだから、体のチェックするわよ」
「えっと…………うん?」
多分、体は大丈夫だ。動かないと思ったけれど、腕に力を入れるとちゃんと力も入る。指先を動かし、足先を動かしてみる。確かに、思い通りに動く。
でも……素直が私を助けてくれたの?
倒れた時のことが、あまり思い出せない……。だが、彼が私を救ってくれたという事実だけが、鮮明に残る。しかし、一つだけ聞きたいことがあった。
「お母さん……適切な処置って…………何をしたの?」
お母さんは、そのことを伝えるのにかなり悩んでいた。それは、デリケートな問題だったからだ。彼女の表情は、一瞬にして複雑なものに変わる。
でも、お母さんは私の気持ちを昔から知っている。だから隠さずに教えてくれた。
「――心臓マッサージと…………人工呼吸よ」
「っ…………」
それを聞いた時、お父さんはかなり微妙な表情をしていた。それもそうだ。私は彼の大切な娘だもん。お父さんは、素直と映画デートする時も色々と口出ししてきていたし、ましてやこんな状況では、心中穏やかではいられないだろう。
「クラウちゃん。顔、赤いわよ」
「い、いやっ……これはっ……な、ぁ……うぅ………」
だって、人工呼吸って……キス、だよね……。私の意識がなかったとはいえ、キスには変わりない……よね。ああ、恥ずかしさでまた心臓が止まりそうだ。熱いものが、顔全体に広がるのを感じる。
でも、素直が私を助けてくれたんだ。
すごい……やっぱり素直はすごいんだ……彼がいなければ、もう私はこの世に――。
そう考えると、感謝と安堵の気持ちが込み上げ、自然と涙が溢れてきた。
「よかった……よかったよぉ……わたし、死ななくて……よかったよぉ……っ」
「おねえぢぁんっ!!」
ノーラがガバっと飛び込んできた。とはいえ、チューブだらけの私に抱きつくことなどできず、手と布団をぎゅっと掴むだけだった。彼女の手は、私の命綱を掴むかのように必死だった。
その後は、お医者さんにチェックしてもらい、ひとまずは安心できる状態と診断された。ただ、手術した心臓が突然また止まるかもしれない。そのこともあって、しばらくは入院し、安静にしなくてはならないそうだ。
病院の白い天井を見上げながら、私は改めて、自分が生きていることを実感した。
それから約一時間後。
時間は午前十一時を過ぎる頃だった。
今日はお父さんとノーラが一旦帰り、お母さんが泊まってくれるそうだ。
すると病室から一旦出ていったお母さんは十数分後にまた戻ってきた――素直を連れて。
「す、なお…………っ」
「香澄、さん……」
私は自然と彼の名前を呼んでしまっていた。いつもは越智くん、と呼ぶはずが、堪えられない感情が溢れ出し、そう言ってしまったのだ。彼の姿を見た瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。
「ありが、とう……本当に、ありがとう……っ」
涙が溢れ、言葉がスラスラと出ない。拭えない涙はそのまま顎を滴り、病院着の上に落ちていった。感謝の気持ちをどう伝えればいいのか分からず、ただひたすら涙が溢れる。
「ごめん……ごめんなさい……本当に、ごめん、なさい……っ」
なぜか素直は謝っていた。彼の表情は暗く、苦しそうだった。いったいどうしたんだろう。もしかして私にキスしてしまったことを謝っているのだろうか。彼の謝罪の言葉に戸惑いを隠せない。
「大丈夫、だよ……えっと、ほら……うん。わたし、意識がない……時だったから。はは……恥ずかしい、な……っ」
また顔が熱くなりはじめた。彼の視線を受け止めることができず、素直の顔をまともに見ることができない。
「ちが……違うんだ……俺、言ってはいけないことを……香澄さんに、酷いことを言ったから……だから俺はそれを謝りたくて……っ」
「ぇ……」
なんのこと? 何を謝っているの?
なんでそんなに辛い表情をしているの?
私は生きているよ。あなたのお陰で私は生きているんだよ?
――瞬間、倒れる直前の記憶がフラッシュバックした。
「ぁぅっ…………」
「香澄、さん……?」
そうだ、そうだったんだ。
私は文芸部の部室で、皆にハイルヴィヒの正体を教えたら、素直がなぜか怒って、私に怒りを向けてきて――。ああ、それで部室から逃げた私はそのまま倒れたんだ。 全てが、繋がった。
なぜだろう。あの時は悲しくて悲しくて、辛い感情でいっぱいだった気がする。彼の言葉に、心が引き裂かれるようだったのに。でも、今はそんな感情は微塵もない。
ただ、彼が目の前にいて、そして私が生きているという事実だけが嬉しかった。
「素直。私は大丈夫だよ。大丈夫だから。もう怒ってないし、今あるのは素直への感謝だけだよ」
私は、彼の顔を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと語りかけた。私の声は、驚くほど落ち着いていた。
「でも……でも、俺は……っ。あんなこと言ったから、香澄さんが走って、それで心臓に負担をかけて……」
ああ、あれが原因だと思ったのか。確かに走ることやストレスが心臓に負荷を与えることはある。だけど、それが全てではないだろう。私自身の病気が、根源にあるのだから。
多分、素直は罰を受けたいのだろう。そんな顔をしている。罪悪感に苛まれ、自分を責めているのが手に取るようにわかる。
「お母さん――少しだけ、いい?」
「わかったわ」
ずっと傍で私たちの様子を見守っていたお母さんにお願いをした。それは病室から出てもらい、二人きりにしてもらうことだった。母は私の意図を察したように、静かに頷き、病室を出て行った。
「素直……私の手、握って……?」
「ぁ……うん……」
素直は右手を差し出し、私の左手に触れた。血が通っていない私とは違い、素直の手は温かかった。その温かさが、私の心を落ち着かせる。
「素直はどうしてほしい? 私に怒ってほしい?」
「わか、らない……だって、俺は……香澄さんが死ぬかもしれない、ことを……こんなの、許されるようなことじゃ……っ」
「うん。素直の中ではそうなのかもしれないね」
「そうだっ、だから俺は、もう、香澄さんに顔向けが……でも、ちゃんと謝らなきゃって、ここに、きて……っ」
しどろもどろになりながら、素直はちゃんと会話をしてくれた。それに、いつの間にか私は普通に話せていた。いつもなら、緊張してこんなにスラスラと話せないはずなのに。彼の正直な言葉が、私の心を動かした。
「素直は、なにか罰を受けないと納得はできないんだと思う」
「うん……多分、そう……心を傷つけるくらい、酷い仕打ちを――」
「それなら、私もちゃんと納得したい」
「ぁ、ぇ――」
「素直が、なぜあんなにも怒ったのか。私がプロ作家なことで、何が素直を刺激したのか……教えてほしい」
おそらく素直は、それを話すためにもここにきたのだろう。正直、今の私は既に怒っていないし、全て許している。だから素直が何を話そうとも受け入れる気持ちだ。
「わかった…………」
私の話を承諾すると、素直はゆっくりとなぜ怒ったかの理由を話しはじめた。
それは、小学二年生のあの夏の時のような明るい素直とは全く違う話だった。彼の声は、苦しそうに、そして震えながら、紡がれていった。
私が引っ越した後、そんなことがあったなんて――。




