第22話 鉢合わせ
胸がざわついたまま、素直の部屋があるという二階へと庵野さんと一緒に上がり、私たちはその扉の前までやってきた。
「越智くーん? 香澄さんと一緒にお見舞いにきたよー!」
庵野さんが軽くコンコンとノックし、そのまま扉を開ける。
「失礼しまーす」
「失礼、します……」
ゆっくりと開かれる扉。その先は、私にとって初めて踏み入れる空間だった。
スーッと鼻を抜けていくのは、書棚にずらりと並んだ本の紙の匂い。
それに混じって、以前ジャージから感じた、素直の匂い――男の子の匂いがほのかに漂っていた。
女の子らしい小物や装飾は何一つなく、全体的に落ち着いたトーンの部屋。
中心にテーブル、壁際にはデスク、そして窓の近くにはベッド。
そのベッドで、素直は上体を起こしながら――
「はぅっ!?」
「あー……お邪魔だった?」
女の子らしい要素はない、そう思っていた部屋の中に、女の子がいた。
しかもその子は、上半身裸の素直の体を濡れタオルで拭いていたのだ。
「あ、れ……庵野さん……と、香澄、さん…………」
熱のせいか、ぼーっとしたような声と表情で私たちを見つめる素直。
そして、そんな彼の体を拭いていたのは――
「あー! 香澄さんっ! ……と、あれ? 誰だろ、クラスメイトかな?」
私の天敵とも言える爆乳娘、鹿見真幌だった。
書店で会って以来だ。
「えっと……私は越智くんのクラスメイトで、委員長やってます、庵野小依! よろしくね!」
「私は鹿見真幌。素直とは幼馴染で、家も近所なの。風邪引いたって聞いて、お見舞いに来てみたの」
「幼馴染……っ! そうだったんだ……私たち、ここにいても大丈夫?」
「うん! ……一緒に素直の体拭く?」
「なんでだよぅっ……あ、香澄さん拭いたら?」
「ななっ!? 私は……その……遠慮しときます……」
マスク姿の素直は、とても辛そうだった。
正直、ちょっとした下心がなかったと言えば嘘になるけど、目の前の彼はそんな雰囲気ではない。
細身の体に、サッカーで鍛えられた筋肉がまだついていて、カーテンから差し込む光に濡れた肌が艶やかに輝いていた。
その姿にグッとくるものはあったけれど、これ以上ここにいるのは申し訳ない気がしてきた。
「あ、これ。私と香澄さんで、ゼリー飲料買ってきたの。飲めそうなら、飲んでね」
「き、来たのは……先生がプリント渡してって言ってたから……テーブルに置いとく、から……」
「二人とも、ありがとう……」
弱々しくも、ちゃんと気遣ってくれる声が返ってきた。
私と庵野さんは顔を見合わせ、そろそろ退室しようとしたその時――
「せっかくだし、お喋りしていかない? 下のリビング使っていいって、素直のお母さんが言ってたよ」
「えっ、そうなの? じゃあお喋りしていこうっ!」
「え……あ……うん、わかった……」
庵野さんがなぜか嬉しそうにして、爆乳娘の提案をあっさりと受け入れた。
しばらく素直の様子を見守ったあと、私たち三人は一階のリビングへと降りていった。
「あー、お茶出すからちょっと待っててね!」
爆乳娘に導かれ、私たちはソファへと腰を下ろす。
彼女はまるでこの家の人間かのように、慣れた手つきでキッチンを動き回り、相談することもなく冷たいお茶とお菓子を用意してくれた。
「これ、私が持ってきたお菓子だから、適当に食べてね。あ、ちなみに私、駅前の山林堂書店でバイトしてるの。お金は気にしなくていいよっ」
「へえ〜、鹿見さんって、越智くんの家のことなんでも知ってるんだね!」
「まあ、幼馴染だからねー。てか、真幌でいいよ! 私も小依ちゃんって呼ぶからさ」
「そう? じゃあ、真幌ちゃんって呼ぶね!」
「うん、小依ちゃんよろしくね!」
陽キャ同士の明るく弾む会話が、テンポ良く進んでいく。
……この空間に、私、必要?
「――クラウディアちゃんは、前に書店で会ったよね!」
「ああ……うん」
「まさかオタクだったとはね〜! 見た目すごく美人だから、そんな風に見えなかったよ!」
「そういえば香澄さん――あ、私もクラウディアちゃんって呼んでいい?」
「いいけど……」
「ありがとっ! 私のことも小依でいいからね! じゃあ、クラウディアちゃん――文芸部入ってるんだよね。てことは漫画とか小説とか好きなんだよね?」
「それなりに、好き……」
それなりに、と答えたけど。
でも、本当は違う。私が漫画や小説を好きになったのは、他でもない父の影響だ。
「何か、きっかけとかあったの?」
「……父が、日本の漫画や小説を、ドイツで広める仕事をしていて……それがきっかけ、かな……」
素直以外の誰にも話したことのない内容。
でも、彼はきっと覚えていないだろう。
「え、それって翻訳者ってこと?」
「違う……翻訳者は別にいて、広める人。交渉したり、紹介したり。だから出張も多い」
「へえ〜、マーケティングとか営業みたいな感じかなぁ。すごいね! じゃあ、ドイツで日本のアニメや漫画が人気なのって、クラウディアちゃんのお父さんのおかげでもあるんだ!」
「うーん……アニメは関わってないけど……少しはある、のかも」
「素敵なお仕事だねっ」
「……そう、かもね」
父は昔から、自分の好きな作品を海外に広めることを誇りにしていた。
好きなものが自分の国でも愛されていく――その喜びが原動力だった。
「小依ちゃんは漫画とか読むの?」
「うーん、私はあんまりかなぁ。バスケ部だし、ずっと部活ばっかりだったし」
「そっか! でも、バスケ漫画ならあるよ! おすすめ教えるよ!」
「あ、バスケ漫画なら見たことあるかも。ほら、有名なやつ」
「『スロムダンク』?」
「そうそれ! でも、それぐらいかな〜」
「でも漫画にも、スポーツに活かせる話とかプレー、結構あるんだよ。……そうだ、連絡先交換しようよ!」
「うん、いいねっ!」
……すごい。陽キャって本当に会話が途切れないんだ……。
私と素直の会話なんて、いつもぎこちなくて、こんな風にポンポンとキャッチボールみたいに進まない。
ちょっと、うらやましい。でも、私は私。無理に陽キャになろうとしなくても、これが私だから。
「――じゃあ今度三人で遊ぼうよ! ほら、服とか見に行ったり、ピクニックとか、カラオケとか!」
「いいね! 楽しそう! クラウディアちゃんもいい?」
気づけば、話は三人で遊ぶ計画にまで発展していた。
本当は素直と遊びたいけど、こんな風に女の子同士で遊ぶ機会なんて、中学時代にはなかった。
「カラオケ以外……なら」
「やったぁ!」
「決まりだね!」
カラオケとか……陽キャの遊びの代表じゃん……。
私、行ったことないんだけど……。素直は爆乳娘と行ったこと、あるのかな……。
「じゃあ、ずっとお邪魔してるのも悪いし、そろそろ帰ろっか」
「だね。最後に眠子さんにだけ、挨拶していこう」
私たちは素直のお母さんに挨拶すべく、隣の部屋へと向かった。
「眠子さーん、開けてもいいですか?」
「いいわよ〜」
そう返事があり、爆乳娘が扉を開ける。
だが、それは開けてはいけない扉だった。
「な、なっ……うぎゃああああああ〜〜〜〜〜〜!?」
「えっ……えっ……うぇええええええ!?」
私と小依ちゃんは、部屋の中を見て、思わず叫び声をあげた。
「あちゃ〜、言うの忘れてた……」
「あらあら……初心なのねぇ」
初心とか、そういう問題ではない。
これはもう……やりすぎだ。
「私のお仕事、エロ漫画家なのよ。これでも結構稼いでるんだから」
「は、はひ……っ」
私はまだ耐性がある方だけど、小依ちゃんは真っ赤な顔をして固まっていた。
部屋の壁一面に貼られたえっちなイラストポスター。
棚にはフィギュアや、どう見てもそれ系な道具類がずらりと並ぶ。……つまり、全部資料ってこと?
――そうか、エロ漫画家。素直の口からは一度も聞いたことがなかった。
もしかして、あの頃から……あるいは、お父さんの不在と関係があるのかもしれない。
「あはは……眠子さん、私たちはこれで失礼します。今日はお邪魔しました」
「あら、そう? またいつでも遊びに来てね」
「は、はひぃ……」
「はい……」
衝撃的な光景を目に焼き付けたまま、私たちはそれぞれの帰路についた。




