第十二話 未踏峰(1)
――神は未だ、戻らず。
天界は一面の抜けるような青、下界は一面のわた飴のような白い雲。吹く風は人の指を落すほどの冷たさと薄さ。ため息すら凍てつく天と地の狭間。
人類未踏峰のてっぺん、非居住地域で遠眼鏡を覗く、もこもこした原色のひき蛙のような男は、吐息が白くきらきらと光る氷の粒になるのを見て。
「ファークリ最大に上げても、雲しか見えないやぁ……」
"死火山"よりも、"ヤマ"よりも高い、登れない山への登頂の成功に、ゲロスはやり遂げたという感覚を覚えるのであった。
何もまだ実際には、ゲロスの目的は遂げられた訳では無いのだが。
愛しのあの男はどこへ消えたのか?
さっぱり"英雄"の影が消えたあの日から、既にひと月近くが流れていた。まず、南のティカンを回った。次に、西のフェネクを回った。最後に、北のクオンを回った。
ゲロスがまだ探していない箇所は、邪神領しか残っていない。
――どこに行っても、邪神領から流れてくる噂は酷いものだった。
曰く、街の"十字"が割れて、魔物がなだれ込んできただの。サイハテは魔境と化しただの、今は人が住める場所では無いだの。
危険な箇所に行く際には、下調べが肝要だ。初見のIDは、死なない様に調査する。本格的な攻略は、まずはどうなっているか下調べをした後だ。
概観を確かめるために、広域を見渡せる箇所がゲロスには必要であったのだ。
だから、ゲロスは此の世で最も高い箇所を目指した。
かつて、DFで最も高い箇所はどこだ?と言う問いに、浅いプレイヤーはこう答えたものだ。『永遠山脈の死火山』と。
永遠山脈の死火山は有名な中級者向けの狩場だが、更に高所が存在する事をゲロスは知っている。ポリゴンのかすかな引っかかりを利用した、バグに近い<影渡り>の連続登山法と、フレーバー焚き火を足場に活用した上で、更に背面しゃがみジャンプ法を利用してしか上れない、死火山よりも更に高所。
通称"ヤマ"。
通常では上れない箇所を上る、潜れない箇所に潜る、ポリゴンの向こう側を目指す"登山家"は様々なゲームに存在する。無論、このゲームにも存在した。
彼らが踏破した"ヤマ"こそが今までのDFでの最高峰である。
だが、実は更に高い山も存在する。
いかなる手段を持ってしても、登る事が出来ない山がかつて存在した。
こと、ディープファンタジーの"登山"において重要な、引っかかることの出来ない傾斜九十度の絶壁を越えた、百二十度の傾斜壁面。オブジェクト設置を拒むような、ガタガタの地面テクスチャ。渡る影も無い、光の乱反射を起こす凍てついた氷の谷。
――"登山家"達の飽くなき情熱でも、数ヶ月の格闘を経た結果が『登る事が出来ない山も存在する』という非常に残念な結果に、ゲロスは落胆したものだ。
だが、今では。
「意外と……思ったより、楽に進めたね、こりゃ。"登山部"の皆は落胆するかな。簡単すぎるって」
ハーケンを打ち込む代わりに、伝説の短剣を崖面に打ち込んで。凍てついた岩に、人外の握力で手をかけ、ぐいぐいと登る。渡れない崖と崖の間は、跳躍した。意外と簡単に飛べた。ベチャリと壁面にへばりついた様は、ゲロス自身、よく自分がバカにされる蛙ではなく、もっとスマートなイモリの様であると自賛する気分になったものだ。
無論、蛙も可愛らしいのであるが。
「だけど、さぁ。折角登ってもさ。下が雲に覆われてよく見えないとかって、元々はゼッちゃん探す為に着たのに、なんで僕は途中で気づかずに山登りしてんだろ……これじゃ、本末転倒の閉店セールだよ」
登るうちに、ゲロスはすっかり本来の目的を見失っていたのである。
でもまぁ、これはこれで、良い眺めである。
「絶景かな絶景かな、ってね」
たかだか四、五十メートルのビルから見下ろしただけで、人はごま粒になる。
その百倍以上の高所から見下ろすと、最早人は埃の一欠片にも見えない。
ただ――
「……何か、黒い雲があるな」
真っ白な雲海に、インクを飛ばした様な、小さな黒い染みが一点、じわりと。
真昼間、太陽は厚い雲に覆われて、まるで夕方。
邪神領と人領を隔てるのは、険しい山脈だ。
北の永遠山脈、西の狂王の霊廟、南の金水晶連峰は、誰でも知っている邪神領と人領を切り分ける人類未踏峰である。その、複雑に入り組んだ山脈と山脈の切れ目を縫うようにして、人の通る街道は整備されている。
星読みと呼ばれる預言者達が作ったとされる街道から、大幅に外れた永遠山脈の中腹。
通称"ヤマ"への登山ルート。
そこに、大量の魔物達が蠢いていた。
山に住む人が少ない様に、魔物もまた、常ならば殆どこの地には存在しない。
一概に言うと、魔物は日の光に弱い。月の光の下で生きる彼らには、基本的に日光はご法度である。
日の光に弱い彼らは、山には少ない。山は、太陽に近いからだ。
いかに強靭な肉体を持つ彼らも、身を隠す木々、日を避ける為の洞穴、あるいは――どんよりと垂れ込める、雨雲。それらの加護が薄い状況では、非常に暮らし辛いからだ。
冷たい雪と雨の混じった風が吹きすさぶと、ぶるりと寒さに魔物達も震えた。
『ここは、わるいところだ』
『さむくて、つめたいよぅ』
『あついたいよー、より、ましだろう』
低く、暗く垂れ込める、濃い泥を塗りこめたような雲は、十年に一度あるかないかの大嵐の時よりもぶ厚く、不自然にこの辺り一帯を覆う。
――邪神は戻らない。
血を吹き、反吐を吐き、七転八倒の苦しみに耐えたベルウッドが落ち着いた時、彼の神は凍てついたように硬直していた。
肌は変わらぬ鉛色、しかして、そこに宿っていた"魂"が抜けていたのである。
魔物達は狂乱した。それが落ち着くまでに掛かった時間が、丸と三日。
"邪神"と言う柱を、一時的に喪った魔物達は、次なる指導者が誰であるか選ぶ必要があった。最も強く、最も偉大なものが、その時々に応じて魔物達を導くのが慣例である。
そうなると、一番強いのは誰か――?
白蛇の巫女は、確かに強い。
強いが、最も新しく加わった種、"魔人"ベルウッドもまた、強い。
そうなると、白蛇の巫女と"魔人"との一騎打ちで誰が強いかをはっきりさせるべきではなかろうかという論も出たが――
『しかして妾はこの地にて、我が神の再起をお祈りいたします』
かくして、サイハテにて眠る様に凍てついた、ヤ・ヴィの再降臨の祈祷は彼女一匹によって始められた。
夜も昼も無く、延々と続けられる祈りの唄を背景に。最高指導者として祭り上げられたベルウッドは、いかように人類を侵略するか、頭を捻る羽目になった。
捻った結果が、これであった。
『お前ら、さっさと進め!』
がやがやと勝手気ままに文句を垂れる、"六本腕"の一団にベルウッドは激を飛ばした。
『ひっしょうの、さくときいたが……まじん、これでほんとうに、かてるのか?』
股の間の首を器用に斜め四十五度に傾げ、最近よくベルウッドに絡んでくる、"六本腕"の長老格の問いに、ベルウッドは深く頷いた。
『自分が、勝てぬ戦をしたことが無いことは、貴様らが一番よく知っているだろう』
確かにベルウッドは彼らに、そう説明した。必勝策である。
『確かに、魔物は強い』
ベルウッドが強いように、魔物もまた強い。
一対一で戦えばほぼ必ず、大抵の魔物は人に勝利する。ベルウッドが今、食んでいる"奈落蜘蛛"でも、動物で例えるなら虎か熊を相手にしているようなものだ。尋常の人間相手では勝ち目が無い。
魔物は確かに個体としては、恐ろしく強靭で、強大である。
ベルウッドは以前から疑問を抱いていた。
何故、こんなに魔物《MOB》が強いのに、人は負けないのか?
同じ立場に立って、考えてみたら単純な話であった。
個体数が、人間と比べると、魔物は圧倒的に少ないのだ。
それでも一対一ならば、魔物が負ける事は無い。
だが、一対一が二対一になった場合。一人が足を止めている間に、外皮のつなぎ目のやわい箇所に鉄の刃を食い込まされたら? 執拗に同じ箇所を叩いて、割られたら?
二対一が更に三、四と増えていくごとに、勝てるものが勝てなくなる。
そうしてサイハテで何匹もの奈落蜘蛛が命を落した。六本腕も、地獄甲冑も、諸々の魔物達も。非力なはずの人間相手に、死んでしまった。
数は、力だ。
ベルウッドは、ギルハンレイドを思い出す。
多数の群がるプレイヤー相手に、強大なMOBはどう殺された。
ラグい世界で、大概の"英雄"が己の性能の半分も出せない状態でも、すりばちにかけられたようにひき殺されていく魔物達は――比べると、少なかった。
――つまり、今も昔も数の力が、個の力の差を覆しうるのだ。
数の力が、今の魔物には決定的に不足している。
原因は、人間の居住可能地域と比較して、魔物の居住可能地域は非常に狭い事であった。今まで"十字"によって、主だった種は各地に分断されて封印されていたという事が、ベルウッドの推測する最大の要因である。
また、地上に生息している種も存在したが、それらの種も特定のリポップポイントでしか出現しない。……神の加護篤き地でなければ、増える事が出来ない為であった為だ。
人間と比較して、増える速度は兎も角、増えることが可能な場所が狭すぎたのだ。
その土地の狭さが原因で、養える数の限界がどうしても魔物達のほうが先に来てしまうのだ。
つまり、魔物は対人類という大きなくくりで考えると、数的な不利を背負う宿命を背負っている。
無論、言うまでもなく、最も多くのき長な同胞を殺したのはベルウッド達だ。今でもこのことを思うと、胸が張り裂けそうな罪の意識を感じる。
ならばこそ。ベルウッドは、完勝せねばならない。
では――数に劣るモノ達が、最大限の効率をもって、大軍を無力化する為にはどうすれば良いか?
指揮官を潰して、壊走させる。組織的な反攻を防ぎ、各個撃破をすればどうだ?
確かに効果的だ。だが、それは戦術での話だ。戦略では無い。
奇襲ではどうだ。細々とした敵拠点を迂回して、一気に敵の拠点を叩けばどうだ?
少数の戦略としては、悪くは無い。悪くは無いが、それだけでは勝ち目が薄い。長期的な戦略に欠ける。
糧食なしで人は動けない。敵兵站を潰す作戦ではどうだ?
いや、糧食なしで動けないのは魔物も同様。いかに"奈落蜘蛛"の繁殖地を用意するか。ベルウッド達にとっても兵站を構築することは必須でもある。
では、ベルウッドもかつてよくやった、敵勢力へのデマゴーグ戦略。相手勢力全体の士気を挫く為には、非常に効果的ではないか?
此の世に匿名掲示板があれば、とっくの昔にベルウッドはやっただろう。だが、此の世にそんなものは無い。
内通者を作り出して、内乱を……いや、この前裏切られたのは、誰だ。ベルウッドでは無いか。その手を使うのは、最後の手段だ。
防衛に長じた城での篭城はどうだ?
どうやってそんな、都合の良い城を入手するのだ。
援軍を期待する――どこからそんなものを呼ぶのだ。
ベルウッドの中で何度も何度も反芻された、邪神軍の勝利条件。
勝利条件は、"邪神の勢力圏の拡大"だ。
味方は数万の魔物と、四名の魔人。そして、最大戦力の"神"。
敵は人類全てと、恐らく八十名弱の"英雄"だ。
お互い同じ天の下には生かす事の出来ない不倶戴天の天敵同士。
始めたら、どちらかが死に絶えるまで止まらないだろう――
だからこそ、必勝策である。
必ず勝つ策と書いて、必勝の策である。
ベルウッドが、一ヶ月近く熟慮した結果の策である。必勝でないはずが無い。
無論、当然の事、此の世に必ずという事は無い。不測の事態は幾らでも考え付く。
だが、あえてベルウッドは負ける可能性のある事象を無視する。
強化も、戦闘も、失敗の可能性を考えてはやってられない。
複雑に入り組んだ通常の進軍路では、人類側に準備をする余裕を与えてしまう。
その一手の、"ヤマ"越えルートのショートカット。
この道無き道を知っているのは、反響痛の面子でも一握り、外部には、どこにも流出していない。この地の民にも――知られていない。
『この後が難所だ。気を抜くな』
ぶるぶると寒さに震える蜘蛛達にも、ベルウッドは声をかける。糸を繋ぎあった無数の蜘蛛達が、一斉にベルウッドに向けて、各々八個の単眼を向ける。
黒い単眼に白い雪がペタリと張り付いた。山の天気もベルウッドの言葉を補強していた。
――魔人の秘策は妥当か?
回答を留保する。妥当とも言えるが、妥当でないとも言える。
――妥当な理由は?
ニンゲンの個体数がどれほどか判断が不能である為。魔人の弁が全て真実であると仮定した場合、通常の方法では我らに勝利は訪れぬ。
――妥当でない理由は?
もし、この策がニンゲン達に漏れ出でた場合、奇策であり、王道でないが故に必要以上の損害を受ける可能性がある。
――留保する理由は?
前述の理由が、可能性としては薄い為である。この寒さは、我らが種にも厳しい。だが――
奈落蜘蛛達の伝話が、ぶつりと途切れ、しゃくしゃくと、咀嚼音が伝話経路に響く。
『マスター、皆疲れてるから、そろそろオヤツにしましょうよ!』
ギンスズが子犬のように、狂斧をブンブンと振り回しながら先頭から駆けて来た。口元から、蜘蛛の足がビチビチと見え隠れ。
『……そうするか』
ベルウッドは口元を歪めた。笑みのつもりであった。
いつぞやの、まだ人であったときの行軍を、ベルウッドは思い出す。
『――つまみ食いは程ほどにしておけ』
ベルウッドが、ふいとそらした視線の先には、登れずの山。
厚い雲が一瞬切れて、山頂がちらりと覗いた。きらり太陽の光が反射して、ベルウッドの目に入った。




