軟派男子の憂鬱―後編―
――――このままじゃいけないって分かってたから、湊多が紫倉ちゃんに惚れた時、チャンスだと思った。オレだってまあ人間だし、邪な気持ちはあるわけだよ。
そりゃ? そーちゃんのことは本気で心配してたし、紫倉ちゃんと上手くいけばいいなって本気で思ってた。けど、それと同じくらいに、湊多が潔癖症を克服して家族の仲が修復したら美波さんにも他の男へ目を向けるくらいの心の余裕が出来るんじゃないかって思った。
それで、だ。実際そーちゃんと紫倉ちゃんは上手くいった。くっついた。もう見てるこっちが胸やけするくらいラブラブだ。
その時、安心した。嬉しかった。美波さんという邪な目標もあったけど、やっぱり大事な幼馴染が幸せになるのは嬉しいもんだよね。で、同時にオレも頑張らなくちゃって思った。
そして現在、オレは美波さんの部屋にいたりする。メールをもらったから大人しく従ったわけだよ、うん。
いやまあ、美波さんが湊多のことを散々心配していたから近況報告のためにも顔出すつもりだったわけだけどさー……もう何年も通ってるのに、この部屋には慣れない。多分、美波さんの気配が濃すぎるからなんだと思う。
彼女が使用している香水の香りが部屋中に柔らかく漂っているせいか、美波さんに抱きしめられているような心地がしてドキドキする。うわ、オレほんとにガキだ。
学生時代から大人っぽかった割に、美波さんの部屋は意外とガーリーだ。
壁紙の色に合わせて真っ白な家具で統一された部屋は、シャンデリアでロマンティックに照らされている。カーテンやベッドシーツは洋風の花柄で、ベッド脇に置かれた大きなテディベアが少し子供っぽい。
それを前にからかったら「家ではこの子がいないと眠れないの!」と頬を膨らませていたから、ああ、やっぱり寂しがり屋なんだなって愛しく思った。
でも、女だなって思うのはドレッサーを見た時だ。アクセサリースタンドにかけられた、煌びやかなネックレスやブレスレット。ズラリと並ぶ海外ブランドの化粧水や乳液にメイク道具、それから香水。
そういった物が、ただの高校生のオレと美波さんの距離を思い知らせて面白くなかった。
「涼? どうしたの? なーんか今日は上の空ねぇ」
オレの視界に美波さんの綺麗な顔が飛び込んできて、ハッと思考の渦から引き上げられた。
オレのバカ。美波さんが傍にいるってのに、集中してなかった……!
「ご、ごめん。で、そーちゃんのことは話したとおりだよ。紫倉ちゃんと上手くいって、潔癖症も克服して、めでたしめでたし」
「ふうん……」
美波さんは自分が淹れた紅茶を一口飲んでから相槌を打った。
「じゃあ、湊多を救ってくれたのはその砂子ちゃんなのね。感謝しなくちゃ」
「今では見てるこっちが砂を吐きそうなくらいラブラブだよ」
「ふーん」
ふーんって……。
なんか美波さんの反応が思っていたより微妙なもので、オレは返事に窮してしまう。美波さんはカップをソーサーに戻すと、艶やかな唇をへの字に曲げた。
「あーん……ごめんね涼。子供っぽいわよね。でもちょっと面白くないのよ。結局アタシは人任せで、何も出来ずに終わったんだなって。湊多を……あの子を変えたのは砂子ちゃんと、湊多自身の努力があったからだわ」
美波さんがすっと目を細めて、窓の向こうを見つめる。その横顔が、夕日に照らされてとても儚く見えた。
「結局アタシは何の役にも立てなかった。今だってこうやって、涼に湊多のこと訊いたりして……情けないわよね。嫌になっちゃう……」
「そんなことないよ」
ため息を零す美波さんの横顔へ、オレは慌てて否定した。
「そーちゃん、美波さんに感謝してたよ。家族のことを心配してくれてたこともちゃんと気付いてる。でもあいつはそういうのを口に出すのが苦手だから言えないだけなんだ。だから美波さんが無力感に打ちひしがれることなんて――――……」
そこまでマシンガンのように喋り続けていたオレは、唇に美波さんの人差し指を押し当てられて続きの言葉を飲み込む。
飄々としているのがスタンスのはずのオレは、いつの間にか前のめりになって話していたらしい。我に返って力を抜くと、ふっと肩が下がった。
ダサい。こんなのガキだ。美波さんの前でだけこうも上手く自分を取り繕えない……!
頭を抱えてもんどり打ちたい気持ちになるのを、ぐっと堪える。美波さんを見てみると、彼女は首を傾げながら、オレを微笑ましそうに見つめ返していた。
「ありがとねぇ、涼」
「美波さ……」
「涼のお陰だわ」
「え……」
美波さんの繊手がそっとオレの腕に触れる。そしてその手は、滑るようにオレの背中へ回った。オレの頬を、美波さんのふわふわした髪がくすぐる。
抱きしめられてるって気付いた瞬間、美波さんの香りがより濃くなって、麻薬のように全身へ回った。
「アタシがこうして不満を零せるのは、涼のお陰だわ。アンタって、ホントにいい男よね」
熱を持った耳へ、美波さんの掠れ声が吹き込まれる。頭が痺れるような感覚にオレは戸惑いを隠せなかった。
背中に腕を回しても、いいだろうか。あれ、いつも女の子がしなだれかかってきた時って、どうしてたっけ。
ずっと……それこそ何年もの間焦がれ続けてきた身体が、両手を伸ばすだけですっぽりと包みこめる距離にあることが信じられなくて、オレは唾を飲み込んだ。
「ちょっと、ここはアタシの背中へ腕を回すべきシーンなんじゃないの」
美波さんの不服そうな声が耳へ滑り込んできて、「あ、うん。え?」 とどもりながらオレは腕を回す。
オレの薄い胸板に美波さんの豊満な胸が潰される感触がして、心臓が早鐘を打った。
「涼ったら、色んな女の子連れてるの見かけたからこういうのには慣れてると思ったのに、意外とウブなんでちゅねー?」
オレの心音に気付いた美波さんが、小悪魔のように笑った。ああもう、絶対にオレの気持ちばれてる。
ガキ扱いされている気がして面白くないオレは、後ろのベッドへ美波さんを押し倒す。これで少しはオレのことを意識すればいいと思ったのに、「やんっ」と色っぽい声を出されたもんだから、オレの方がこれ以上ないくらい意識してしまった。
……その声は反則でしょ。
「涼ったら乱暴。オオカミみたいぃ」
「押し倒されたんだからもっと可愛い反応してくれてもいいと思うんだけど?」
「えぇーだって……」
まあ、美波さんはオレよりずっと経験豊富そうだから、甥っ子がじゃれてきたくらいにしか思ってないんだろうけど……。
オレが膝を抱えたい気持ちになっていると、美波さんはオレの耳たぶをぎゅむっと引っ張ってきた。
「い……っ!?」
「だって、ずっと期待してたのよ。いつかこうなるの」
「え……」
驚倒するオレを映した美波さんの瞳が、三日月のように細められる。漠然と、猫みたいだなと思った。
「湊多のことが落ちつくまでは――……って我慢してたけどね。ねえ涼。九つも年が離れてるのに、アタシよりずっと大人っぽいアンタに……家族に亀裂が入ってからずっと支えてくれて、アタシのことを甘やかすのが上手なアンタに、惚れない方が難しいと思うんだけど?」
「――――――――……は」
蠱惑的な目線で放られた言葉を解釈するには、オレのキャパシティーは足りなかったみたいだ。頭のエンジンがかかるまでに少々の時間がかかった。
えっと……? つまり? 美波さんはオレのことを――――?
理解した途端に頬が熱を持ってカッと赤くなる。女の人にこんな暴言吐くなんて初めてだけど、これは言わずにいられないよ――――……。
「――――……っこの肉食女子! そういうのはオレから言わせてよ!」
「じゃあ早く言ってよぅ」
「……その反応、オレの気持ち絶対分かってるよね?」
「んー? 何のことぉ?」
「あーあー! 分かっててそういうこと言うんだ。しらばっくれるんだ! この小悪魔! ちょっと……ああもう、なんなのさ!」
年上の大人の女を攻略するための告白文句もシチュエーションも色々考えてたのに、台無しじゃんか!
「だってぇ」
美波さんの指が、オレの唇の形を確かめるように撫でた。
「アタシが辛い時とか泣きたい時に、いつだって涼は現れるんだもん。傍にいてくれて、嬉しかった。涼といると……包み込んでくれる涼といると、幸せな気分になれた。拠り所にしてたのよぉ?」
「……そりゃ、拠り所になるように頑張ってたからね。オレ」
捨て鉢になりながらオレが零すと、美波さんは「その割には女の子とも遊んでたみたいだけどぉ?」とチクリと嫌味を突き刺してきた。
「でもそれで嫉妬して、涼のこと好きって気付けたからいいけどねぇ」
「好きって……ああもう! だから何なのさ! オレがずっと言いたかった台詞を何でそうさらりと言っちゃえるのかな――――好きだよ! オレの方が美波さんのこと好き!」
「あはは! 変な告白!」
腹を抱えてけらけらと美波さんが笑う。
失礼極まりないのに、それさえも愛しく思えてしまうなんて重症だなあと自覚しつつ、オレは彼女を抱きこんで横になった。
すると普段は懐かない猫のような美波さんがオレの胸元へすり寄ってきたので、嫌でも口元が緩んでしまった。
それから少しの間たわいのない話をして盛り上がった。子供の時の話とか、お互いの第一印象とかを穏やかに話していると、ふいに美波さんの表情が陰った。
そして「アタシねぇ」とおもむろに切り出す。
「小さい頃、家に一人ぼっちでいるのが辛かった。父さんも母さんも家庭のために働いてくれてたって今なら分かるけど、アタシを見てくれないのはつらかったわ」
「……うん?」
彼女の口から粛々と語られる本音に、静かに耳を傾ける。幼かった頃の美波さんが何をどう思っていたのか、知りたいと思った。
「心細い気持ち抱えて成長していた小学三年生の時、湊多が生まれたの。寂しいなら弟を可愛がればいいって思うでしょ? でもその時のアタシは、湊多に父さんたちを取られた気分になって素直に喜べなかったなぁ……」
西日に照らされて、美波さんの瞳が蜂蜜色に悲しく光った。
「自分に余裕がなかったから、愛したいんじゃなくて、愛されたかったの」
その言葉を聞いて、オレの胸が痛ましさで溢れた。美波さんの寂しさがオレの心へと流れ込んできたようにしくしくと痛む。
ああ、そういえば美波さんは――――……ずっと寂しそうな目をしてた。どんなに豪奢なブランド品で身を包んでいても、高級そうな外車の助手席へエスコートされていても、孤独そうだった。
その悲しい瞳が、とても気になっていたんだ。
「それから年齢が上がるにつれて、自分がモテることに気付いたの。アタシだけを見てくれる人がいるのは心地よかった……優しくしてくれるなら誰でも良かったのよねぇ……自分を一番に優先してくれる人を探して、男遊びばっかりしてた。その間、湊多は? 一人ぼっちよ」
美波さんはぽってりとした唇に自嘲を刻んだ。
「自分が寂しい思いして嫌だったくせに、アタシ、湊多に同じ思いをさせてたのよぉ……? あの子、アタシが遊び呆けてる間も一人で掃除してたのかしら……。潔癖症で苦しんでたのかしらって思うと、今でも眠る前に張り裂けそうな気持ちになる……」
美波さんが子猫のように丸くなる。その背を撫でてあげながら「やっぱり姉弟だね、自分を責めるとこ、そーちゃんに似てるよ」と囁いた。
美波さんが不思議そうに見上げてきたので、オレは極力優しく話し出した。
「あのね、湊多が潔癖症になって自分の身を守ろうとしてたように、美波さんは誰かと付き合いを繰り返すことで自分を守ろうとしてたんだよ。あんまり褒められた方法じゃないけどさ、それってそんなに悪いこと? そーちゃんも美波さんも、自分のことを責めすぎなんだよ」
「まあ今度からはぜひとも、頼るなら他の男たちじゃなくオレだけにしてほしいけどね」と一言付け足す。すると美波さんが安心したように笑ってくれて、オレの方もほっとした。
「じゃあねぇ、涼がアタシのこと必要としてくれるなら、そうする」
「良かった。なら大丈夫だ」
「ホントに必要としてくれなきゃダメなんだからね? じゃないとどっか行っちゃうんだからぁ!」
「ははっ。はいはい。大切に大切にしますよ女王様」
喉から手が出るほど渇望していた美波さんを手に入れたっていうのに、大切にしないわけがないよ。
……そういえば、そーちゃんが前に紫倉ちゃんを鈴蘭みたいだと言っていた気がする。紫倉ちゃんが可憐な花なら、美波さんは優雅な蝶だ。土に根を張ってくれる花とは違って、あちらこちらに魅惑を振りまく蝶は、やきもきさせられる。
でも…………。
オレの手のひらへ舞いこんできたなら、もう放すつもりはないよ。
「涼……? ちょっと痛い……」
美波さんがむずかるように身じろぎしたので、オレは抱きしめる腕の力を緩める。
危ない危ない。この綺麗な蝶がオレの愛を重たく感じて逃げていかないよう、優しい腕の籠で閉じ込めなきゃ。
でも……
「涼。もしかして意外と独占欲強い?」
茶化すように言う美波さんには何もかもお見通しみたいで。敵わないなあと思いつつもやっぱり面白くないオレは、美波さんの朝露に濡れたような唇へ噛みついた。
でも案の定「ふ……っ」と鼻に抜けるような声を出されて、また自制心を試されてる気分になった。
どうして美波さんの前ではオレの自制心って砂の城より脆いんだろう……。
「すぐに盛るのはやっぱ子供の証拠ねぇ」
キスの合間に、小さな子供をたしなめるような口調で美波さんが言う。その余裕を崩してやりたい。その綺麗な爪をオレの背中に立ててほしいし、懇願させるくらい息もつかせなくしてやりたいという野蛮な衝動が浮かぶ。
どう陥落させてやろうか。そう楽しみにも思いながら角度を変えて甘い唇を味わう。だんだん美波さんの息が上がってきて、彼女の腕が俺の背中へ回ったことに、胸の内の獣が歓喜の雄叫びを上げた。
なのに……。
ベッド脇の小机に置かれた美波さんの携帯がけたたましく鳴る。
ちょっと。自重しなよこのスマホ。ムードがぶち壊しじゃん!
人の密事を障子に穴開けて覗かれた気分だ。いや、土足で上がり込まれた気分だ。
スマホに対しえも言われぬ怒りを感じたオレは、片手で美波さんを抱きしめたまま、もう一方の手を小机へ伸ばす。スマホの電源を切ってしまえばこっちのもんだ。
そう思っていたのに、オレの脇の下をくぐった美波さんの手が、スマホをくすねていった。いや、美波さんのスマホなんだけどさ。
「あ……っ!」
「もしもし? あ、やーん。やっぱり湊多だぁー!」
そう言った美波さんはオレを押しのけて跳ね起きた。通話の相手はどうやらそーちゃんらしい。美波さんは枕元のテディベアを抱きしめながら、語尾にハートを散らしまくってそーちゃんと会話を始める。
ねえちょっと、弟相手にそんなにデレデレってどうなの。美波さんブラコンなの? 妬けるんだけど。そーちゃんもそーちゃんだよ。空気読んでよ、いい雰囲気だったんだから。
「え……っ。湊多、うちに来てくれるの?」
恋する少女のようだった美波さんが、一層はしゃいだ。
「ご、ご飯は? 家族で食べてくれる……?」
絵画のように整った美波さんの横顔が緊張の色を浮かべる。綺麗に引かれた眉を不安そうに下げ、テディベアを抱きこむ腕に力が増したのが見て取れた。
でもそれは一瞬のことだ、漏れ聞こえてきた湊多の『……姉さんたちが嫌じゃないなら』という遠慮がちな言葉によって、美波さんはひまわりのような笑みを咲かせる。
「ホント? 約束よ湊多ぁ! やーん! 嬉しい! いつにしようぅ!」
年甲斐もなくはしゃぐ美波さんを見ていると、不満が収縮していく。仕方ないか。美波さんがずっと望んでいた家族の絆をやっと取り戻せたんだから、うん、浮かれるのも仕方ない。
それに、美波さんが幸せなのは、オレにとっても幸せだ。
とろりと蕩けそうなくらい優しく美波さんの横顔を見つめる。湊多たちの家庭にヒビが入った日は、こんな幸せそうな美波さんが見られるとは思わなかった。そう思うと感慨深くて、柄にもなくほろりときてしまった。
あまりにも熱烈な視線を送っていたせいか、通話中の美波さんがオレの方を向く。そーちゃんからオレへと意識が向いてくれただけで少し嬉しくて心が躍った。
オレと目があった美波さんは、口角を上げ艶然と微笑む。
無邪気に微笑む彼女もいいけど、女豹のように凄絶な笑みの方が美波さんらしくて、やっぱりいいかもなぁ……。
そんなことを考えていると、美波さんがオレとテディベアを交互に見つめ始めた。何かを逡巡しているのか、そーちゃんとの通話にも生返事になっている。
「……美波さん?」
オレが怪訝に思って小声で話しかけるのと、美波さんが「よし」と決意したように呟くのが重なった。
そして次の瞬間、長年寂しさを紛らわすために使い古してくたくたになったテディベアを放り投げ、オレの胸へと飛び込んできた。
柔らかい衝撃に目をむくオレへ「もうクマさんは必要ないもんねー」と笑いかける美波さん。
スマホの画面の向こうで『どうかしたんですか姉さん』と訝しげに尋ねるそーちゃんへ
「何でもないのぉ」
と甘ったるく答える美波さんを抱き返しながら、ああもうこの可愛い人をどうしてくれようかと、オレは幸せを噛みしめた。
――――軟派男子の憂鬱? いやいや、爽快の間違いだよ。
年内最後の更新になるかと思います。お付き合い下さった方、ありがとうございました^^




