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騎士名誉クラブ  作者: 雪ハート
神の涙
99/111

ジャンヌと片翼天使

「ああ、そうだ…言い忘れていた。ハッキリ言っておくが、此処の住民は皆腐っている」

ジャンヌの前を歩く影は呟いた。

「腐ってる?頭の中がどうかしている…と言う意味だろうか?」

ジャンヌは怪訝そうに眉を顰めた。揺らぐ陰の背中からは真意を探ることは出来ない。

「文字通り、そのままの意味だ。気は抜かないほうが良い。私が言い忘れていたのは、それだけだ」

「いや、それだけでは済まさない。どうしてそうなったのか…ちゃんと説明して欲しいのだが」

「説明のしようがないのが事実だ。私という存在に自我が芽生え、産声を上げた時には、此処は今ある状態だった。此処の住民は絶望と憎悪によって身を焼かれている。恐らくは…私の片割れと…ドルイド達に問題があったのだろう。大きすぎる犠牲とその傲慢さの産物がこの場所と、私という存在なのだ」

影は視線を落し、足元を見下ろした。掠れて曇った低い声は、脅迫的な感情を相手に与える事無く、寧ろ、静かに落ち着いているような印象を与えた。ジャンヌは影の横顔を覗き込む。唯の暗闇。言葉とは裏腹に、憎悪も絶望も感じることはない。

「此処から抜け出す方法は有るのだろうか?私は行かなくては行けない場所がある」

「抜け出す方法?厳密にはない。お前を此処に連れてきたのは私の片割れだ。もとより此処から逃がす気はないのだろう。然し、私と言う存在は、彼女達にとっては大きな誤算だろう。最早、自身の一部が欠けていることも気付けないほど、彼女は狂気に染まってしまっている。それゆえに、私はこうしてお前を連れて歩いている。気付かれる心配は…今のところは無い」

この影はアリアドネのことを片割れと呼び続けている。ジャンヌは一抹の不安を覚える。ジャンヌは、この影の事を何も知らない。断片的にチグハグと言葉を並べる影の事を、ジャンヌは何一つ知りえなかった。

「そなた、名前は?」

ジャンヌは、影の足元を見下ろした。

「私の…名前?忘れてしまった。だから、お前の過去を歩き、私自身、模索している。お前が生まれたあの日、私も生まれた。何か、暖かいものを感じた。目を開き、世界と向き合った時、私が世界の一部となった時、確かに感じ、私は名づけられた。母だ…そう、母だ。私には母がいた」

影は物思いに耽るように空を見上げた。それにつられる様にジャンヌも空を見上げる。足元ばかり見下ろして気付かなかったが、空には帳が下り、銀砂を散ばめたような星空が広がっていた。

「母…。私にも…母がいる。名前も知らない。私が王の娘だと聞かせた誰もが、母の名前は口にしない。隠しているのか…事実、誰も知らないのか?私は、馬鹿な落し子だ」

影は振り向かない。ただ、黒い視線を前へと向ける。

「これが、お前自身だ」

影は、真っ直ぐに顔を上げた。そして指を指す。



「レウィス、助けに来たぞ。一緒に帰ろう。北部人も、ドルイド共も殺した。もう自由だ」

エリクは大樹の根元で眠るレウィスに駆け寄った。巨大な樹。何千、何万という人々の思念を吸い込んだ、巨大な樹。その大樹の真ん中に、異様な光を放つ輝石があった。

エリクはそれが『神の涙』であると悟った。この石が、この大樹が自身の愛する人の思念と生き血を啜る。

「此処から出られるのね。良かった」

レウィスは華奢な女性だった。金色の髪が大樹の根に広がり、黄色い血管のように思わせる。白い衣には赤い鮮血が滲み出ている。

「私…強くなりたいの。貴方みたいに強くて、何でも出来て…。もう、無理なんだろうけど…」

「お前はもう強いよ。さあ、一緒に帰ろう。王妃として、孤独な私を支えてくれ」

エリクは、血の気の引いたレウィスの指に自身の指を絡ませた。大地に根付いた大樹の根のように強く絡ませる。

「逃げられないの。またアイツが私を此処に連れ去ってしまう。私の他にもたくさん居たわ…。たくさん死んだわ。私の意志が…記憶が、この樹の中に流れていくの。貴方のことも忘れてしまう。この子のことも…忘れてしまう」

レウィスは自身腕を伸ばす。真横の大樹の根から一人の赤子を抱き上げた。

「私と貴方の子よ。ドルイド達に気付かれたらこの子も実験台にされてしまう。アイツに気付かれる前に、どこか遠くに隠して?誰にも気付かれない場所よ、絶対よ?」

瞳を潤ませ、レウィスが赤子をエリクに差し出す。

「私と君との子だ。この子には私じゃなく、君が必要だ。そんなことを言うな、一緒に行こう」

「この子、背中に羽が生えてるの。私の天使、片翼の天使様。天使の名前は…『愛』。この子の名前も決めてるわ…。確か…そう、ジャンヌ。世界で一番愛される子よ」

「ジャンヌ…。綺麗な名前だ」

「ええ…。私と貴方のジャンヌ…。あいつが来たわ。私に入ってくる前に殺して…。誰よりも愛する、貴方の手で」

「そんなことできる訳がないだろう?お願いだ、一緒に逃げると言ってくれ」

「出来ないわ…もう逃げるのは嫌なの…。お願いよ…。私が私でなくなる前に…早く殺して」

エリクは、剣を抜き、何度も何度も剣を引いては掲げ、引いては掲げを繰り返した。

「愛してるわ」

「俺も愛してるよ」

エリクは、剣をレウィスの胸に突き刺した。彼女の柔らかな呼吸が動きを止め、悲痛に満ちた表情は、直ぐに安らかな笑みへと変わった。

エリクは暫く、その場に佇み、愛する人の死体を見下ろす。彼女の腕の中で、片翼の天使は声を上げた。母の血に塗れた彼女の笑みは、悪魔とは違う。無垢で…美しかった。


「この子を隠してくれ…私の大事な娘だ」

エリクはアトスとアーロンの二人に告げた。

「私はやるべきことがある」

エリクは、ジャンヌと二人を帰らせ、踵を返した。大樹は輝石を光らせ佇んでいる。彼は剣を振り上げ、その輝石に振り下ろす。何度も何度も振り下ろす。無機質な音を響かせ鉄が歪み、自身の指から血が滴るまで打ち付ける。

大樹は根を蠢かせ、うめき声を上げた。驚きに怯むエリク。

「イタイ、クルシイ、カエリタイ、カエリタイ。タスケテ」

大樹は悲痛な呻き声を響かせる。それでもエリクは剣を叩き付けた。大樹は泣き叫び、子供の駄々のように根を撓らせ地面に打ち付けた。

強い衝撃が周囲に広がった。エリクが吹き飛ばされると同時に辺りが業火に包まれる。

悲鳴…。悲鳴。人が森が焼けるニオイがする。鼻腔に…脳に張り付く様な気持ち悪いニオイ。エリクからそのニオイが消えることは無くなった。

エリクは折れた剣を投げ捨てた。焼け焦げた大樹は降り積もる灰の中に消えていった。

自身の手の中には、砕けた一欠けらの輝石が輝いている。何故、自身は生きているのか、何故こんなことになったのか理解できないまま、思考は同じところを回る。抜け出せない迷路を回り続ける。

エリクが帰路に着く中、焼けた森の中で一人の少女を見つけた。灰のような焦げた香りのする雪の下で、顔の半分が酷く焼けた少女は、駆け寄ったエリクを見上げて告げる。

「慈悲だわ…。慈悲の雪」

「大丈夫だ。私が助けてやる」

「誰かが言っていたの…。雪は神様の慈悲なんだって…だってこんなにも美しいんですもの……。誰が言ってたのだっけ…思い出せない…誰か大切な人…」

エリクは少女を抱き上げた。神の慈悲など、本当にあるのだろうか…。それでも彼にとってはこの少女が何よりの慈悲であり、自身の贖罪だった。彼女の笑みは、悪魔のように美しい笑みだった。












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