ジャンヌ-壊れた世界-
長い眠りについていたようだ…。身体は軋み、喉の渇きが留まることを知らずに胸を締め付ける。瞼には重い何かが蓋をするように開かない。それでも、陽光の光が瞼を超え、瞳に赤い灯りを灯すのだ。頬にぬるりとした何かが当たった。もう一度…もう一度…。ソフィアはそれに触れた…柔らかい。
そして目を開く。爛々とした光が瞳を、皮膚を焦がすような感覚を憶える。
視界には…犬が覗き込んでいた。いや、狼か?尖った耳に、駄肉を削いだ、整った顔立ちの狼。狼や犬に詳しくは無かったが、彼がブラッドメイアーであることはソフィアにも分かった。
メイアーは物悲しげな瞳をソフィアに向ける。言いたいことは分かってる。そしてやる事も、やらなければいけない事も、わかってる。
ソフィアは立ち上がる。腹から零れた血は、そこを着いたかのように流れてこない。身体の中は軽くなった筈なのに普段よりも重く感じる。理不尽だ。この世界は理不尽だ。
自身が悪魔になったことを認めるには、未だ時間も勇気も足りないが、今は別のことに集中しよう。
「ねえ、ブラッドメイアー…私をジャンヌの所に案内して…」
ソフィアは掠れた声でそう告げた。
此処は?
目を覚ましたジャンヌは、見知らぬ小屋の中にいた。実際は小屋かどうかは定かではなかったが、ガランとしたこの部屋の中には、独特の樫の木の匂いが満ちている。
手足はロープで縛られており、身体は冷たい床に投げ出されている。重たい意識の中、腕に巻かれたロープを解こうと暴れてみたものの、それが無駄であると直ぐに悟れば、この方法は諦めた。
気を取り直して辺りを見渡してみる。蝋燭一つ灯らない小屋の中は暗く、目を凝らしても奥が見えないほどだ。
ジャンヌは、身体を芋虫のように揺らしながら、床を這うように移動した。そして、物音を察知すれば、さらにその方向へと身体を揺らした。暗い視界に浮かび上がったのは、椅子に縛り付けられたアーロンの姿だった。
「先生、起きてください」
ジャンヌは、樫の木の床に邪魔されながらも声を上げた。アーロンは項垂れた頭を起こして、ジャンヌの方へと目を向ける。
「これは、どういう状況かね」
さして慌てた様子もなくジャンヌに問い掛けるアーロンは、本当にどういう状況か、理解しかねているのだろう。ジャンヌ自身も、この状況を理解しているとは言い難い。ただ、憶えているのは…、湖の輝く地平線…そこを渡る馬…仮面の女スノウ…、そして、ソフィア。
ジャンヌは、辺りを見渡した。ソフィアの姿は此処には無かった。
「こんな茶番は十分だ、はやくしたまえ」
アーロンが暗闇に向って叫んだ。
「あら、ごめんなさい。でも、時間はたっぷりあるのだから…少しぐらいは楽しんでも良いでしょう?」
暗闇は応えた。そしてゆっくりと影の如く姿を現す。
「君が此処にいるという事は…、城は落ちたのか?アリアドネ」
「そうよ、ご協力に感謝するわ、アーロン。ただし…私を出し抜こうとしていたことは…見過ごせないわ。私がどういう人間か、知っているでしょう?」
「ああ、少なくとも…君は人間かどうか怪しいところだがな。君は悪魔だ」
アリアドネは、アーロンの言葉を聞けば、不機嫌そうに吐息を漏らした。
「そんな貴方の功績を称えて…選ばせてあげる。生きて此処から出られるのは、私を除いて一人だけよ。貴方か…彼女か。どちらか」
アーロンは、ジャンヌを見る。ジャンヌは、顔を背けた…もとより、選択肢など用意されていなかった。
「すまない、ジャンヌ。私には娘がいる」
ジャンヌ自身も分かりきっていたことだ…。こんなの選べない。
「薄情な人ね。貴女を騙していた事への呵責も無いなんて…。可愛そうな娘。父親の仇を前に…何も出来ないなんて、私の言いたいこと…、あの人の娘なら分かるでしょう?」
何のことだ…?頭の中で大量の疑問が浮かび上がった。自身でも整理しきれない程の量だ。
アリアはジャンヌの頬を撫でた、愛しそうにゆっくりと。
「私が貴女の両親と…本当の父親を殺した…。けれどそれは、私が貴女の家族の全てを恨んでいたからよ、私から全てを取り上げたんだもの。私の復讐は、ごく普通のことだわ」
アリアの言葉に先に反応したのはアーロンだった。
「くそ、止めろ。俺だ、俺を殺せ」
アーロンは縛られた椅子の四足を樫の床に叩き付けた。
アリアは、まるで相手にせずに言葉を並べ立てる。
「いくら私が優れていても…それでも容易く暗殺が成功する訳がないわ。膨大な時間と…情報が必要なのよ。この日には此処にいて…誰と過ごしてる、とか。やっぱりそれは…近しい人じゃないと分からないものよ、ふふっ」
アリアは満足そうに笑みを浮かべた後、立ち上がった。そして壁に突き刺さった二本の剣を両手に持つ。
ジャンヌは、出来るだけ。自身の知りえる情報を整理した…。それでもやっぱり…アリアの言い草は、まるで…アーロンがあの火事のこと…王の暗殺の二つに関わっているような言い方じゃないか。
「くそ、ジャンヌ。俺は、お前に許しを――。くそ、早く殺せ」
アリアは、暴れるアーロンを眺めた後に、両手を振り下ろした。縛り付けられたアーロンの股を突き刺し…椅子を貫き、床に突き刺さる。
アーロンの悲痛な声が部屋に響いた。
「貴方に許しはないわ。だけど、死ぬことを許可してあげる」
悲痛に叫ぶアーロンの喉を、アリアは忍ばせていた短剣で一閃した。人が溺れる様な声が漏れたが、その声も直ぐに無くなった。滴るほどの鮮血を、口ではなく喉から漏らして動かなくなったアーロンの死体を、アリアは蹴り倒した。
「ふふっ、おめでとう。貴女を私のお茶会にご招待するわ。場所は直ぐに分かるわよ…、勿論、きてくれるわよね?」
アリアは、唖然とするジャンヌの首にアミュレットを付ける。嗚呼、見覚えのあるあの不気味なアミュレットだ。
「余り、時間も無いから…急いでね?」
アリアは、アミュレットを付け終えると共に踵を返して、闇の中へと消えていった。
そしてジャンヌの意識も、深い深い闇の帳を下していく。




