残滓
ソフィアは飛び降りた。一瞬の躊躇もなく、大地を裂いたような崖の下へと。幸い、ソフィアの目の前に巨大な湖が映る。硝子のように光る湖。空を映して、青白い。空と湖との間に、馬車が見える、そしてジャンヌとスノウ。
ソフィアは、短剣を取り出した。身体を伸ばして、一直線に崖を降りる。身体が強く締め付けられるような感覚に襲われながらも一直線に、スノウへ。
スノウにもソフィアが見えていた。空を背に、自身へと落ちてくる彼女は天の使いだろうか、それとも…。
スノウは、手にした短剣でソフィアを迎え撃つ。身体にかかる重力は重く、下へ下へ落ちていく。
ソフィアが振り下ろした刃の先が、スノウの胸に食い込むのが分かる。どろりとした赤い雫が、硝子玉のように浮き上がり、青い空へと飛んでいく。スノウの短剣はソフィアのわき腹に食い込んだ。浮力が邪魔をして、上手く貫けなかったことは、スノウ自身が一番理解していた。ソフィアの顔が痛みで歪むのが見えた。それと同時に、彼女達の身体は、弾けた水面へと沈む。
始めに顔を出したのはジャンヌだった。ジャンヌは、太ももから流れる鮮血を手で押さえながら、ゆっくりと地へと這い出た。濡れた髪を振り上げて、ソフィアを捜す。
ソフィアは、湖へと沈むスノウを眺めた後に、顔を上げた。薄暗い水の中から見上げる空は、なんとも謂えないほどに美しかった。肺に吸い込まれた水を吐き出しながら、辺りを見渡す。それと同時にジャンヌが嬉しそうに微笑むのが見えた。
「今のは、かなりクレイジーだ。まさか、飛び降りるなんて…」
ソフィアを引き上げながらジャンヌは呟いた。
「良い忘れてたから…、わたしをこんな身体にしたのは、スノウだったんだ」
ソフィアの言葉を聞いてジャンヌは驚いたように、表情を沈ませた。
しばらくの沈黙。二人は、湖を眺めていた。馬車を引き摺っていた馬が、ゆらゆらと泳ぎ、陸を駆けるのが見えた。ジャンヌは太ももの痛みで、ソフィアはわき腹の痛みで動けそうになかった。だから、ずっと眺めていた。静かな水面を。
帰ろう。
ジャンヌは、そう告げた。ソフィアが動けそうにない事を告げると、ジャンヌはこう告げるのだ。
「そなたを引き摺ってでも連れて帰る。アーロンを探さないといけないし、シルヴィアも心配だ」
ジャンヌが、重い足を持ち上げて、身体を捻った瞬間に、目の前が白くなった。
ジャンヌの背後に立っていたスノウが、ジャンヌの顔に蹴りを浴びせる。不意打ちを受けてジャンヌは、気を失ってしまった。
何故。どうして、確かに心臓を貫いたはずの相手が、こうも五体満足の状態で生きているなんて、どうにも信じられなかった。
「ソフィア、此れは試練です。神に見放された私と貴女の。私がこの牙で、あの森で貴女を殺した瞬間から始まっているんですよ。悪魔が最後の一人になるまで、この試練は続くのです」
スノウは聞き覚えのある声で、ソフィアに告げた。頭が真っ白になる。自身をこんな状態にした相手は直ぐ近くに居たのだ。
その声は、スノウ?マリアベル?貴女はどっちなの?
そう聞こうとするも、わき腹の痛みで呼吸が漏れるだけだ。
どうかジャンヌを連れて行かないで欲しい。試練でもなんでも受けて見せるから、どうかジャンヌの傍に居させて欲しい。
そう告げようとするも、漏れるのは空気と血反吐だけだ。
スノウは…いや、マリアベルは、ジャンヌの足を掴み、引き摺りながら、去っていく。ソフィアはただ、掠れた声で、ジャンヌの名を呼ぶことしか出来なかった。




