始まりの歌
ソフィアは、エリク聖堂を訪れていた。綺麗に刻まれた芸術的な壁はいつも彼女を圧倒し、心酔させる。何度もミサがある日には顔を出してはいるのだが、その独特の構造や圧倒感に慣れることは無いのだろう。
扉を開けば、四方に並べられたステンドグラスの窓が日の光を聖堂内に満たしている。
「こんにちは」
責務を忘れて立ち尽くすソフィアの背後から声がする。綺麗で澄んだ声だ。
「あ、ど、っどうも」
振り返ったソフィアの視界には、シスターの姿がある。慎ましい正装から病的な程に青白い手が覗き、黒色の布で両目を覆うように隠していた。恐らく目が見えないのだろう、そう考えていたソフィアの心を感知したのか、シスターは薄い唇を綻ばせる。
「目が見えないわけではないのです。ただ、色の識別が困難で」
「え、あ、そうなんですか…」
心を読まれたかと思い、ソフィアは慌てる。そんなソフィアをその厚い布越しに見えているのかのように、シスターは言葉を続ける。
「毎回、私に会う方は聞いてきますから、これは挨拶みたいなものです」
もしかして、からかわれているのだろうか…。複雑な感情がソフィアの中に芽生える。
「して、何用ですか?今日はミサの日ではないはずですが…」
わざとらしい仕草で、シスターは頭を傾げて見せる。目が見えない分、ソフィアも彼女が何を考えているか読み解くことは出来なかった。
「友達が此処にいると聞いて、ええと…ドルイドなんですが…」
言ってよかったのだろうか、ドルイドは王都では微妙な立場に立っている訳だし。そう考えるソフィアの後悔は杞憂で終わる。
「ドルイド。確かに知っています。然し、今はお会いに成らない方が良いでしょう。彼に何か?」
「これを渡して欲しいのですが…」
ソフィアは懐から金貨の詰まった袋を取り出した。勿論、自身やジャンヌの取り分は抜いている。
「ああ、金貨ですね。確かに承っています。では、お預かりしますね」
シスターは、ジャラジャラと無機質な音を立てる袋へと手を伸ばす。それをソフィアから渡されれば、正装の中に忍ばせた。
では、これで…。そう告げようとしたソフィアをシスターが制止する。
「少し、話していきませんか?」
ソフィアは、彼女の後に続いた。聖堂を抜け、長い廊下を歩く。何個も並んだ扉が横切るたびに、まるで牢獄のような場所だと感じる。暗くて、静かで、陰鬱な雰囲気に包まれている。
「どうぞ、談話室です」
シスターは、口元を綻ばせて、ソフィアを誘う。ソフィアは、その部屋を覗き込み、安堵の吐息を吐き出した。談話室、想像していたよりも明るく、華やかだった。それもそうだろう、暗くて陰湿な場所で、話が弾む訳がないのだから。
「それで、話って?」
ソフィアは適当な場所に腰掛けて、首を傾げつつ問い掛けた。
「只の話です。貴女の名前は?」
「ソフィア。ソフィア・イェルダです。貴女は?」
「アリアベル。マリアと、お呼びください」
「マリアさんは、どうして私と話そうと?」
「好奇心と、暇つぶしです。貴女からは人ならざる者の匂いがします」
彼女の言葉に、一瞬、ソフィアは言葉を詰まらせた。信仰的な半吸血鬼。我ながら、なんて崩壊した存在なのだろうか。
「なんの事?」
ソフィアは白々しく首を傾げた。我ながらなんて雑な演技なのだろう。舞台役者としての仕事は止めたほうが良いだろう。
「確信はありませんが…。以前、そういった仕事をしていたことがあります」
「そういった仕事?」
「はい、所謂…悪魔狩りです」
その言葉を聞き、ソフィアは一瞬たじろいだ。その様子を眺めれば、マリアは嘲笑するように(ソフィアにはそう見えた)笑みを零せば、背中を向ける。
「貴女は、神を信じていますか?」
マリアが、唐突に漏らした質問に、ソフィアは応答する。
「信じていないなら週末に此処に来たりしてませんよ」
「もし、神がこの場所を見ているなら…きっとあざ笑っているのでしょう。暇つぶしに低俗な舞台を眺めるように、神は、私達に架せられた役柄を見てほくそ笑んでいる」
「貴女に信仰心はないと?」
「ええ、随分と前に失いました。憎い相手を殺した時に…自身がもっとも憎む存在になってしまっていると気付いた時に…」
「それって……」
つまりは、彼女自身が悪魔になったという事?目も、その時に?彼女もソフィア同様、いや、それ以上に崩壊して壊れた存在だ。そんなことを考えているソフィアに、マリアは言葉を紡ぐ。
「殺しは、低俗で下品な行為です。そして、それはもっとも高潔な人間によって行われるべきでしょう。私は、その資格が無かった。私は既に、神から見放されている」
「じゃあ、何故、今でも此処に?」
「やるべき事があり、守りたいことが有るからです。それから、死を待っています。私の肩に手を掛ける死神を…」
マリアの唇が僅かに吊り上る。全てを理解したような不気味な笑みだった。ソフィアは、その場に居たくなくなり、帰ると告げる。お約束の、お前は知りすぎた、生かしては置けない…、的な展開にはならずに、彼女はすんなりと教会の出入り口へと案内してくれる。
「貴女は、私と同類です。また会えるでしょう」
踵を返したソフィアの背後から、マリアは言葉を紡ぐ。背中を向けたまま振り返ることは無かったが、彼女の禍々しい笑みが、ソフィアの脳裏から消え去ることは無かった。
ソフィアは、扉を開いた。強い日差しが照り付ける。それはいつもなら、ソフィアに安堵感をもたらしてくれるものなのだが、今日は違った。皮膚や喉が焼けそうな程に乾いた感覚が襲う。
眩しすぎる、目を開けられない。
呼吸もろくに出来ない。
ソフィアは失いかけた意識の手を握り締め、なんとか繋ぎ止めれば、覚束ない足取りで教会から離れる。一段、一段、転ばないように慎重に足を伸ばしていく最中、すれ違った相手に声を掛けられる。
あら…ごきげんよう。
彼女の継ぎ接ぎだらけの笑みが視界に入った。片目を隠した前髪の隙間からは、深く刻まれた火傷の痕。蛇の様に獲物を狙う、強い光を放つ瞳。
誰だっけ?思い出せない。取りあえずは、この日差しを避けなければ…。
ソフィアは転がるように、路地の裏へと身体を滑り込ませた。




