牢の王
牢は荒んでいた。壁は湿り、触れただけで病気に成りそうなほどの汚らしいカビが活き活きと繁殖しており、少し進む度に、目の前を横切るネズミ。それを退屈そうに眺める数人の看守達。ジャンヌは、もの珍しそうな彼らの視線を縫うように進みながら、目的の牢の前に辿り着いた。薄暗い廊下を隔てる格子の向こうは更に暗く、まさに死を待つ場所、そんな印象を受ける。
ジャンヌの到着を知ると同時に、格子越しに影が歩み寄る。白髪で、燃えるような瞳を持つ女。一本しかなくなった腕を揺らしながら皮肉な笑みを浮かべている。
「私と話がしたかったんだろう?」
ジャンヌは、そんな彼女に哀れみの表情と声色を乗せて問い掛ける。白狼は、ジャンヌの言葉を聞くなり、カビの生えた湿った石の壁に背中を預け、腰を下ろす。闇の中でも光を失わない、赤い瞳がジャンヌを見上げた。
「そうだ。私を捕らえた女だ。褒美をやらなくてはな、何が良い?」
白狼は、まるで自身が王であるかのような、落ち着き払った口調で言葉を紡いだ。
「では、獅子王が何処にいるか教えろ」
「焦る必要はない、直ぐに返す」
全く興味がないと言いたげな白狼に、ジャンヌは内心で苛立ちながら言葉を紡ぐ。
「生きているのか?」
「それは状況にもよる」
結局、獅子王については何も聞き出せない。それもそうだろう、簡単に喋るようなら、ジャンヌが聞き出さなくても尋問やら拷問で直ぐに吐いたはずだ。
「私を恨んでいるだろう?そなたは我慢なら無いだろうな、こんな汚い場所に座っているのだから」
「私がお前を恨む事などない」
「私が、そなたが盗んでいたアミュレットを取り戻し、そなたの同胞を何人も殺していてもか?」
「お前が?くふふ――っ。嗚呼、赦す」
白狼は、嬉しそうに笑みを浮かべた。白歯が綺麗に羅列した口端から、尖った犬歯が覗く。
「一体、そなたは何者だ?何がしたかったんだ?」
「私は、解き放たれた。いわば、首輪を取られ、糧を外された、犬だ。あの日からな」
「あの日?」
「貴様も知っているだろう?エリクが率いた北部への大遠征だ。あの時に、我々は永遠の森を失った。燃やされ、朽ちていくのが見えた。熱かった…。私の全てが溶ける感覚だ」
「残念ながら、私は幼少期の記憶は殆ど無い。そなたの悲しみを理解するなど、到底無理だ」
「だが、恐怖は理解できる。お前が私に対して抱く、恐怖心は隠しきれない。怖いんだろ、私のことが」
「得体が知れないからな。否定はしない」
残念ながら、白狼の言葉は真実だった。彼女はまるで、炎そのものだった。全てを怯ませる威圧や言動。荒々しい程の暴力。そして消えそうになればなるほど美しい、命の輝き。ジャンヌから全てを奪った火そのものだ。
「私の事を理解しろとは言わないが、知っておく必要がある。オデュッセウスで学べ」
「オデュッセウスは、そなた自身なのだろう?圧制に苦しむ人々を暴走に導くための手段だ」
ジャンヌの言葉を聞くなり、白狼は眉をしかめ、不快そうに溜め息を零した後、言葉を紡いだ。
「くふふ――、そうか。どちらにせよ、私の勝ちだ…。貴様らには何も残さん…、その目で腐敗した文明が朽ち果てるのを見ていろ。解放の日だ。貴様らの死体の上に、私はむき出しの暴力と言う王国を作るとしようか」
「それが、そなた達の幸福か?」
くっ――くく、ふふ。はははっ――
ジャンヌの問いを聞けば、遂には我慢できないと言うように身体を揺らして笑みを反響させる。遠くで湿った天井から零れた雫が落ちて跳ねる音が聞こえるほどに静かだった牢獄に、白狼の乾いた声が響き渡る。
「くくっ、いや、違う。私はあいつ等を幸福になどしない。そもそも、この世界に幸福など存在しない。分からないのか?お前たちが好きで好きで堪らない、大好きな神は、この国をとおの昔に見捨てている」
「そんなこと…」
そんな事がある筈ない…。口に出そうとしたが無理だった。長年、大地を同胞の血で染めてきた人々に、神は愛を与えてくれるのだろうか。同属同士で殺しあう、獣以下の人間達を神は見守ってくれるのだろうか。もし、高潔な神ならば低俗と不潔を嫌う。この国の人間の心は、長年の恨みと殺しで、醜く汚れている。
「だが、救いはある。私は救いだ。神を失った人間の…」
ジャンヌの心の動きを察し、白狼は満足そうに笑みを零す。
「だが、そなたは神からすれば間違いなく悪だろう」
ジャンヌはその自信満々の笑みに不快感を示せば、眉間に皺を寄せつつ反論するも、直ぐに白狼の応答が返って来る。
「必要悪だ。まずはこの世界を暴力で満たす必要がある」
「何のために?」
「全てを元に戻すためだ」
「壊れた物や失ったものを元通りにすることは出来ない。この世界は全ての者によって壊された。そなたの願いは叶わない」
叶わない。当たり前だ…。もし、本当にそんな事が出来るなら…私は。言葉を終えるなり沈黙したジャンヌを一瞥すれば、白狼は詰まらなさそうに眉を顰め、まるで犬を追い払うかのように手を振り退室を命ずる。その図々しさは最早、地下牢の王だ。
「……。話は以上だ、下がれ。永遠の森を探せ、そうすればお前にも分かる」
ジャンヌは、白狼を睨み付ける。もうこんな場所には来ないだろう。此処に居るだけで、心が荒み憂鬱とした感情が、沸き立つ煙のように心の隙間に流れ込んでくる。ジャンヌは踵を返して去る。肌寒い地下牢の空気と共に綺麗な歌声がジャンヌの背中に当たった。
私の頭は戦士。君の心は遠くにある。私は夕日のような赤い眼をしている。
君を咎めるつもりなんてない。だから、強く私の心臓を抱きしめて欲しい、流れる血を止めて。
強く抱きしめて欲しい、流れる血を止めて――――
ジャンヌは振り返らなかった。牢の中を見て周る気も無かった。ただ、美しい声が白昼夢のように牢の中を満たしていた。




