嵐の前の静けさ
好きだ――
なんて感情が理解できなかった。心はまだ、あの日から歩き出せずにいる。
ジャンヌは浴槽に身体を沈めた。束ねた金色の髪が、浸かってもいないのに重みを増していく。背中の火傷が厭にむず痒い。
静かだ――
ソフィアはまだ眠っている。朝の日の出と共に目覚めるのは、ジャンヌの日課だ。憂鬱を乗せた溜め息が、湯気の中へと消えて行く。自分はいつから同性であるソフィアに想いを募らせていたのだろうか。考えても答えは得れそうに無かった。
ジャンヌは、既に温まった身体を冷やさぬ様に、素肌を滴る雫を拭き取った。楽な服を着て、この静かな時間を堪能する。この時間の聖堂が、なによりも聖堂らしさを露にする唯一の時間だった。いつもは只の廃墟だ。司祭さえいない教会。
腰掛けた長椅子に寄り添うように、ブラッドメイヤーが伏せている。ジャンヌはブラッドメイヤーの頭を優しく撫でつつ、暖炉の炎を眺めた。情熱の炎、情欲を駆り立てる赤。ジャンヌは、それとは違う印象を抱いている。熱い炎だ。皮膚が熔け、皮膚が焼ける。ただの恐怖の対象でしかなかった。
「あー、頭が痛い」
頭痛を生み出す元凶を、頭の中から追い出すかのような大きな溜め息を零しながら、ソフィアが寝室から出てきた。
「風呂に入れば良い」
そんなソフィアを刺激しないように、ジャンヌは静かに、それでも聞こえるように提案した。
「お風呂?ん、分かった」
不機嫌な頭、眠たそうな瞼を揺らしながら、ソフィアは浴室の方へと消えていく。
ソフィアの背中を眺めながら、ジャンヌは、自身が予想以上に冷静である事に気付いた。それでも、多少は情欲の炎が内心で静かに芽吹くのを感じる。
ソフィアが浴室に消えて幾らか時間が進んだ頃に、一人の兵士が教会を訪れた。彼は挙動不審に、辺りを見渡しながらジャンヌの元に歩み寄る。
「何か?」
「貴女が、ジャンヌですね。私は王の遣いです。これは、ボニファティウス2世を捕らえた報酬、そしてボニファティウスの処刑は、七日後に決まりました。後、此れは断ってくださって構いませんが…彼女は貴女に会って話がしたいそうです」
「私に?」
「はい、まあ、相手は死刑囚ですから、わざわざ危険を犯す必要も無いかと。私なら断りますね」
「会おう」
「本当に?」
「ああ」
「分かりました。では、看守に話しておきます」
彼は、必要なことだけを伝えると足早に教会を出て行った。それにしても、何故、白狼は話がしたい等と告げたのだろうか…。まあ、それはあってみれば分かることだろう。ジャンヌは考えるのを止めて支度を始めた。
ジャンヌが支度を終える頃には、ソフィアも風呂から上がり着替え終えていた。そもそも、半吸血鬼の彼女が二日酔いになるのは可笑しいだろう。症状が良くなり、人間に近づいている?それともその逆か。どちらにしても、そのことについても考えないといけない。完全に吸血鬼になったら、取り返しも付かないだろう。ジャンヌが、思考をめぐらせていると、ソフィアの熱っぽい視線に気付いた。彼女はジャンヌと目が合うなり、ぎこちなく視線を逸らせた。そのあからさまな行動に、ジャンヌ自身も、昨日の事を思い出し、身体の内側が熱くなるのを感じた。
「用事で出掛ける。ソフィアは、この金貨をウルヴの所に届けて来てくれ」
「あー、うん。分かった」
「彼は、エリク大聖堂に居る」
「了解」
視線を合わせることなく、モジモジとした素振りを示す彼女を眺めながら、ジャンヌは、子供にお遣いを頼む親の気持ちになった。恐らく、こんな感覚なのだろう。多少の気恥ずかしさと不安を内心に抱きながらジャンヌは日の光の下に下りた。




