王の盾
デニス・シェ―グレンは、王の護衛隊長で騎士だ。王直属の護衛。王の盾。騎士の中でもっとも名誉な事だ、これ以上の喜びが在るだろうか…。等と考えていたのは愚かだった。叶うならば、過去の自分に警告したい。デニス、王の盾は辞めておけ、肩書きだけで、死ぬほど退屈な仕事だ。こんな場所で騎士の名誉を汚すならば、前線で無様に朽ち果てたほうがマシだ。いいかデニス、此れは本当の事だ、絶対に止めとけよ。
デニスは、無表情のまま、窓に視線を向ける。長い廊下に並べられたような沢山の窓、その一つから顔を覗かせて、外の景色を眺める。中庭の巨大な噴水が見える。その噴水の枠に数人の侍女が座り、楽しそうに声を潜めて言葉を交し合っている。鳥のせせらぎと相成って、より一層に清潔感が増す、その情景を退屈そうに眺めていては、それに気付いた一人の侍女が顔を上げて、デニスと目が合う。デニスは、薄く笑みを浮かべて軽く手を振れば、侍女は恥ずかしげに、顔を赤めて手を振り返した。さらに一人、一人と、侍女達がデニスに微笑を浮かべる。若くして騎士になり、王の盾となったデニスは、女性達から一目置かれていた。一目とは、政治的な要素や、学術的な要素は一切なく、より低俗な一目であった訳だが――
デニスは女性が好きだ。それは遠くから眺めている分には良かった。あの日から、デニスの愛情や情欲は常に、一人の女性に向けられていたからだ。他の女性など、愛せる訳が無い。
幸いなことに、デニスが、この場所、王の部屋の前で警護という名の直立する仕事をなしている間に、アリアドネがこの部屋に訪れた事は一度もなかった。もしそうなってしまったら、この場で喉を掻き切って自殺してしまいそうになっていただろう。
デニスが、一人で思考を巡らせる程に退屈な時間は、すぐに消え去った。
「デニス、ご苦労様」
デニスがその声に顔を上げると、目の前にはアリアドネが立っていた。
「やあ、アリア。どうしたんだ?」
「別に、ただ、聖堂に行こうかと思っていた時に、貴方が目に入ったから、挨拶しに来たのよ。ふふっ」
彼女は、布に覆われていない顔を綻ばせて笑顔を浮かべた。
「そうか、相変わらず熱心だな。君の献身には神も頭が上がらないな。今日は、そのまま聖堂にいるのか?」
デニスは、笑みを浮かべるアリアドネに問い掛けた。アリアドネは、先王に連れてこられてからと言うもの、殆どの時間を王宮ではなく、聖堂で過ごしていた。彼女の信仰心は厚い。もし、エリクと結婚しなければ、修道女になっていただろう。そうなっていれば、今より、可能性はあったのではないだろうか。
「そうね、今日はあちらで過ごすわ。デニスも退屈でしょうけど、頑張って……、あ、そうそう、夫に私の居場所を聞かれたら適当に誤魔化しておいてね」
「俺が王に嘘を付けないのは知ってるよな?」
「ええ、もちろん、知っているわ」
アリアは、口元を歪めて妖笑を浮かべた。顔の隠れた部分の筋肉が引き攣りながらも浮かべられた、その笑みはデニスにとって、これ以上にない程、美しく思えた。
アリアドネは、機敏にクルリと踵を返せば、しなやかな背中をデニスに向けて足早に廊下の奥に消えていった。それと同時に、再びデニスの背後から声がする。
「王はいるか?」
振り返るデニス。目の前にはミールが立っていた。
「おはよう、将軍。王に用事か?」
「用事がなければ聞きはしないだろう。大事なことだ、王に直接話す」
ミールはイラついた様に言葉を吐き出す。
「すまない、規則なのでな?お前が何のために王の部屋を訪れたのか、俺は聞かないといけない」
「はははっ、このやり取りを何時まで続ける気だ、デニス。いい加減に飽きてくるころだろ?」
「退屈で死にそうなんだ、少しは仕事をさせてくれ」
お互いに笑みを浮かべれば、声を上げて笑った。デニスは、笑みを浮かべたまま、目の前の友に言葉を放つ。
「随分と久しぶりだな?北部に引っ込んで出てこなくなったのかと思ったぞ」
「お前こそ、王宮から出てこなくなったな、随分と太ったんじゃないか?」
「太るのは王の仕事だろ?俺は、此処で、カカシのつもりさ」
デニスは、顔を歪めておちょくったような表情で、直立し、カカシの真似事をしてみる。ミールはそれを見て腹を抱えて笑うも、すぐに本題を続ける。
「ああ、お前との再会の話は、酒場でしよう。今は優先すべきことがあるんだ」
ミールは真剣な表情を作り、デニスに言葉を返す。そして、すっかり薄くなった、いや、男らしくなった頭を撫でるように手のひらで擦りながら片手を王の部屋の取っ手にかけた。デニスは、横に体をずらすと、ミールを部屋の中への入室を許す。
「王を暗殺するのだけは止めてくれよ?」
扉を開いたミールの隣で、デニスは、冗談っぽく言葉を囁き掛けた。ミールは、嘲笑するような鼻息を吐き出し、薄く笑みを浮かべれば扉を閉め、部屋の中へと姿を消した。
デニスは、再び舞い戻ってきた退屈な時間を持て余し、大口を開けて欠伸をする。王よりも絶対的な存在である退屈さに対する彼なりの抵抗だ。悲しい訳ではないが、目じりに涙が溜まった。と同時に、扉が開き、グインが顔を出した。
「おい、デニス。お前も、ミールの話を聞け」
断る理由が無い。
「はい、陛下」
デニスは、冷たく堅い甲冑で涙を拭い取り、部屋に入った。
王の部屋は綺麗にされていたが、所々で手抜きが見られた。窓枠に飾られた花は萎びて枯れているし、机の上には飲んだワインの香りと、雫のシミが目立っていた。幸いな事に、アリアドネが過ごした形跡が見られなかった事が、デニスにとっては何よりも、自我を保つ言い訳になった。先王のエリクは、神経質だったがグインはその逆だ。それに、今朝の彼よりも、さらに太っているような気がする。
デニスは、辺りを見渡しながら、ミールの隣へ腰掛けた。目の前には、飲みかけのワインが容器の中で揺れていて、発酵した甘い香りを放っていた。
「それでは、話を続けよう」
グインが、ミールとデニスの正面に腰掛ければ、ワインの入った容器を手に取り、飲みかけていた液体を一気に胃の中に流し込めば、漏れそうになるゲップを堪えつつ話の続きを促した。
「信頼できる情報源です。間違いなく、敵の頭は《古き城》にいます、此れは好機です」
デニスには、ミールの言いたいことが直ぐに分かった。
「して、その情報源はなんだ?本当に信頼できるのか?敵の罠だったらどうするつもりだ」
「北部の獅子王にはもう伝えています。彼らは直ぐに《古き城》に軍を進めるでしょう。我々南部も傍観している訳にはいかない筈です」
ミールは、手を大きく振りながら声を張り上げる。彼が此処までするのだから、本気なのだろうとデニスは考えながらも沈黙を続けた。
「それでは、此方の防御が薄くなる。北部は遠い、それに軍を動かすのだ、時間がかかる」
いまいち乗り気ではない王にイラついた様子のミールを横目に、デニスはつぶやいた。
「それでは、私に軍を任せていただけますか?南部の守りが薄くならない最低限の兵を連れて行きます。そして、この作戦の全責任は私が負いましょう」
デニスの一言に王は、二日酔いで痛んで重い頭を縦に振った。
「分かった、では、この作戦はデニスに任せるこれで良いか?」
「はっ、ありがとう御座います」
「もう良いだろう、私は横になる。おい、そう言えば、アリアドネを知らないか?」
グインは重たそうに腰を椅子から持ち上げれば、ベッドに歩みつつ、不意に思い立ったように振り返れば、部屋を後にしようとしたデニスに問い掛けた。
「さあ、私は見ていませんね」
わざとらしく肩を揺すって見せる。王はぶつぶつを小言を呟きながら、以前と見る影も無いほどに膨らんだ体をベッドに倒した。デニスも扉を閉め、部屋を後にした。
扉を閉めたデニスに、ミールが皮肉を告げる。
「ありがとう、助かったぜ。王は以前よりも堕落したな。甘やかせ過ぎだ」
「王は、いつでもあんなもんさ、エリクが特別だったのさ。まあ、酒癖は悪かったがな」
「そうか……。俺は北部に戻る。獅子王の軍で一足先に狐狩りさ」
「俺の分も残しとけよ?」
「それはどうかな?まあ、でも絶対に来いよ?」
「ああ」
デニスの言葉に満足したように、ミールは笑みを浮かべれば、男らしい自身の頭を撫でながら軽い足取りで廊下の先へと消えていった。




