主よ、守りたまへ
雪が降っていた。そうだ、雪だ。冷たい雫が頬を叩いた。辺りは真っ暗で、何も見えない。そもそも目が開かない。冷たい地面に倒れこんでいる。地面は濡れている?雪が冷たいのか?雪が降っている。
雪だ。アリンが大好きだったんだ。
アリン、雪だぞ。
そう叫ぼうとしても腕が動かなかった。
アリン、そこに居るのか?
指先まで麻痺している。右腕に、感触は無い。体の感覚が無い、それでも背中が酷く痛む。ジンジンとした痺れと、重さ…。肌が崩れていくような感覚がする。周囲の全てが燃えている。背中がバターのようにとろりと皮膚を滴らせて溶けて行くようだ。
アリンは、パンが好きだった。
アリン。
熱い…。薄れた記憶が甦る、そんな熱さだった。不快な悪臭を放つ、残酷なまでの熱さだった。
嗚呼、そんな…止めてくれ。
炎の中の静寂。
神様、どうかお守りください。私を…、私を探しているアリンを、妹をお守りください。
もう大丈夫だ…、私が助けてやる、どうか泣かないでくれ、この手を握ってくれ…。アリン、何処に居るんだ。
声が掠れて行く…、意識の深い底に沈んでいきそうになる。
両手には何も無い…。どうか、時間を戻してくれ―――、どうか――――
何とか片方の瞼が開いた。崩れた屋敷が燃えている。投げ出された家具が、その身で炎を纏っている。
無数の雨が降り注ぐ。雪かと思っていたが、雨だった。豪雨だ。
濡れた地面に押し付けられた自身の視線が、真っ直ぐに地平線へと延びて行く。暗闇の中に照らされた一つの月が、燃えるこの身を照らす。月と自身との間には、降り注ぎ弾ける無数の雫の結晶が…。
息が出来ない…。暗闇の中に、片目を凝らす。探してる物は、何も見えなかった。
アリンは暗闇が怖いんだ。
アリン、何処だ…。何も心配ない。私が…助けて……。
アリン――――
ジャンヌとソフィアは聖堂を訪れていた。年老いた神父に並ぶように数人の若いシスターが列を成して祭壇を目指す。こうして週末には欠かさずに、聖堂へミサを行いに訪れていたのだが…今日は普段と違った。
巨大なステンドグラスから差し込む、無数の色彩を纏った光が、年老いて歪んだ神父の背中に降り注ぐ。静寂に包まれたこの場所で、ジャンヌが寝息を立てん勢いで、深々と眠りに付いてしまったのだ。
彼女の絹のような髪が、ソフィアの隣でふらふらと揺れ、ソフィアの肩に、はらりと乗る。嬉しいが不謹慎だ。
ソフィアは、すぐに彼女の肩を揺さぶり起こそうと試みるが、寝顔を…無防備なその寝顔を見てしまえば、無性に悪戯したくなった。頬を数回、指先で押したり、彼女の鼻先を突いたりしてみる。彼女の時折見せる無防備さが、ソフィアは愛おしく、可愛らしく思ってしまう。
神父が、震える声で、説教を始める。掠れて濁った声だったが、聖堂らしい素敵な静寂も相成って、聞いていて不快なものではなかった。
聖堂の静寂と説教を耳で受け取りながら、ジャンヌの寝顔を横から眺めるのは心地よかったし、何よりも時間を忘れられた。そう思った矢先に、唐突にジャンヌの瞼が開き、ハッとした表情で頭を起こしたものだから、ソフィアは驚いて、「おはよう」と優しく声をかける事を忘れてしまった。
ジャンヌは、ソフィアの顔に視線を向けるなり、安堵したように吐息を漏らす。
彼女の顔色が妙に優れないことを悟れば、ソフィアはジャンヌの髪を、解す様に撫でてやる。神の前では、人は以前よりも強くなるものだ、神が勇気をお与えくださる。但し、この愛に対して応援してくれているかは、また別の問題だろう。
ミサも終わり、清々しい感情が、ソフィアの中で芽生える。彼女は、ジャンヌの前を子供のように駆けて、聖堂の出口を潜った。後から付いてくるジャンヌへと振り返り視線を向けた、とびっきりの笑顔をおまけで付ける。
「今日は、妙に上機嫌だな」
ジャンヌは、ソフィアの笑顔に釣られる様に自身も笑顔を作った。
「だって、今日はジャンヌも暇でしょう?」
「ああ」
だったら、今日一日は、たっぷりデートに付き合ってもらおうじゃないか!そう言葉を告げようとしたソフィアの後ろにジャンヌの視線が向かえば、ジャンヌの笑顔は消えて、真剣な表情に戻った。
ソフィアも、不思議に思い、振り返る。前を向いたソフィアの正面で、ニヤニヤと笑みを浮かべるウルヴの姿があった。
「よお!何日かぶりだな、お二人さん」
ウルヴは、片手をふらふらと揺らし、雑な挨拶を向けながら、二人に歩み寄った。
「今日は、良いネタを掴んだ。話を聞いてくだけでも損はねえぜ?」
ウルヴは、親指を空に向けて強く突き上げた。口端を吊り上げ白い歯を覗かせては無邪気な笑みを向けるのだ。
「何のようだ、次に現れたら、斬ると告げた筈だ」
ジャンヌは、歩みを速めれば、ソフィアの前に割って出た。
「まあまあ、落ち着きなって」
ウルヴは、やれやれと頭を揺すりながらジャンヌを制止すれば、言葉を続けた。
「真面目な話、敵の親玉の場所が分かった。獅子王の軍は足を進めるはずだ、序に南部の軍も動き出すだろう。それで、あんたも従軍するんだろう?だったら、俺達の仲間を貸してやる」
「どういう事?いきなり信仰心が芽生えたの?」
ソフィアにはどうしても彼の言葉が理解できなかった。言うまでもなく彼は、懐疑的で信仰心とは無縁の男だったからだ。
「俺は元々、信仰が厚い。個人崇拝というやつだ。まあ、この話は後で言い。兎に角、姫様に死なれちゃ困るし、異教徒共に王都を落とされるのは、ドルイド達からしても不愉快だ。短命な王政に俺は興味が無くてね。奴等の言ってることは大した物だが…、オデュッセウスの遣いと名乗る奴の文句を聞いたかよ?死ぬ前に一度は聞いておけよ、あそこまで口達者なやつ等は初めてだ、あれはあれで勉強になる。ボニファティウスが、生命の大樹を切り落とすのだとさ、それで世界と人々は《解放の日》を向える、この世界は神の国に変わるんだ、とか何とか」
ウルヴは、相変わらず気だるそうに言葉を吐き出す。
「それで、そのオデュッセウスとは何者だ?」
ジャンヌとソフィアは、聞き慣れない名前に首を傾げた。
「いや、知らん。ただ、俺の予想では、オデュッセウスは、現ボニファティウス2世と同一人物だと思う。生前は、哲学者として活動していたジジイだからな、その跡継ぎも色々歪んでるんだろう。民衆扇動はお手の物だな。まあ、当分の目標は、ボニファティウス2世だ。王様は生け捕りを希望している。生きていれば捕まえて報酬をガッポリ頂こう」
嬉しそうに表情を歪めたウルヴを眺めながら、ジャンヌとソフィアは頷いた。報酬の事は兎も角、力を貸してくれるなら、これ以上の助力は無いだろう。是非とも承りたい。




