世界の声2
人には、何の価値も見いだせない一日がある。誰だってそうだ、それは誰にだって訪れるし、それは決まって良い日よりも多くの割合で訪れる。ソフィアを送り出したジャンヌの、その日は今日だった。
騎士のいない騎士団。北部の森、死の森、幽霊の森、呼び方はどうでも良いが、その死地に踏み込み、見事に任務をこなし生還したジャンヌの知名度は大いに高まった。仲間は死に、騎士の名誉を守った所で、それがいい方向に働くとは思えない。その理由が、今からはっきりするだろう。
ジャンヌが、誰もいない(犬はひょっこりと帰って来た)教会を掃除していた頃に、入り口の扉が開いた。
全くと予期していなかった来客に驚きながらも、ジャンヌは快く迎え入れた。客は大柄の男で、自身は漁師だと名乗った。
「噂以上のべっぴんだな。これは腕も噂以上ですかい」
「それで、何か用だろうか?」
「実は、あんたの腕を見込んで、頼みたい事があるんですがね。俺の家は、ケイスの町(王都の西、海に面した小さな町)に有るんですが。最近越して来た隣人が…どうやら俺の船を盗もうと計画してるんでさ。買ってる犬にまで毒を飲ませようとしてるし、とっ捕まえてくれませんかい?もちろん金は払いますぜ」
「何故、此処に?そういった依頼はギルドに頼むべきだ」
「もちろん行きましたとも、然し、今は王が兵や傭兵を募っていてね。傭兵ギルドは報酬目当てに出払っていて、人手が足りないとのことで、追っ払われて…」
「わざわざ外から来てくれたのは有りがたいが、その手の依頼は受けられない。此方も今は人手がなくてな、そなたの家を一日中監視している時間は無いのだ。だから、そなたの頼みは聞けない、例え多くの報酬が出ても」
「なんだと!金は出すって言ってんのにか?お前はどんだけ偉いんだ。たかが騎士クラブの娘が、俺の頼みをお遊びで断るのか?」
男はジャンヌの応答を聞くなり激怒した。
「遊びではない…、それに何もしない訳じゃない。あの辺りに警備に出掛ける兵達にあったら声をかけるくらいの事はできる。その時にそなたの話をしておこう」
「その時には、俺が隣人の首の骨をへし折ってるだろうな、俺の犬を殺した時にはそうなるだろうさ」
男は、勢い任せにそう言った。この男なら本当にそうしそうだった。然し、犬が死ぬことは無いだろう。この手の依頼は殆ど、依頼主の思い込みだ。万が一にも本当だったとしても、今回のは確信して前者だろう。隣人がそのような事をする動機も無ければ証拠もないからだ。彼個人の理由は、朝の漁に出掛ける際に、犬が吠えて煩いと文句を言われたからとの事だった。
「兎に角、落ちついてくれ。私が隣人なら犬には毒を盛らない」
「此処に来るまでに6時間も掛かったんだぞ、このまま何もなしで帰れってのか?」
男は立ち上がり、ジャンヌに背中を向けて出口まで歩いて行ったが、その寸前でジャンヌの言葉の真意を理解し、振り返った。
「もう一度言ってみろ!」
ジャンヌは両手のひらを見せながら首を振った。掃除したばかりの長椅子や卓を投げられては堪ったもんじゃない。彼はぶつぶつと小言を言いながら出て行った。
次に入ってきたのは、初老の女性だった。先ほどのやり取りを聞いていたらしく、妙にしおらしい。
「実は…家のアリスが家を出てから帰って来なくて」
女性はそう言った。彼女は、高そうな衣服や装飾品を身に付けており金持ちに見えた。
「では、アリスの容姿や特徴を教えてください」
ジャンヌは椅子に腰かけると、簡単な紙に、筆を走らせた。
「とても、良い子なんですのよ、すこしヤンチャですが。ああ、特徴でしたわね」
女性は、記憶を辿ろうと目線を上へ上へと持ち上げて行く。その仕草からは、貴族特有の気品や博識な気配は感じられず、とても愚かな女だと言う印象を与えて行く。
「目はとても大きくて、黄色い瞳をしていますのよ」
「かなり、特殊な瞳の色ですね…それなら、簡単に見つかると思いますよ。黄色い瞳なんてこの街や付近でも殆ど見かけないでしょうから」
「よかった、それで…そう、耳が上に向いていて、髭も長く綺麗に揃っていますのよ」
ン?耳、髭?アリスという名前から彼女の娘か何かかと勘違いしていたのだろうか…。ジャンヌは自身が大きな勘違いをしている事に今更ながら気付く。
「あの…アリスは人ですか?」
「猫です」
猫…。ジャンヌの身体から一瞬にして力が抜けて行くのが分かる。大きな溜息と共に背中が長椅子の背もたれへと促される。ジャンヌは教会の天井を煽った。曇ったステンドグラスが埃っぽいこの場所を照らしている。此処は、とても神聖な場所のような気がしてくる。神聖な場所に、愚か者が二人。
ジャンヌは、男にした様な説明を彼女に、もう一度した。彼女は顔を赤らめて男同様に激怒し、ジャンヌに二、三個ほど小言の小石を投げ付ければ踵を返して出て行った。
「仕事熱心ね…」
ジャンヌが椅子に伏せたまま、時を浪費していた時に背後からシルヴィアが話しかけてきた。
「ソフィアの件で、そなたとそなたの父には感謝しているが…いつまでいるつもりだ?」
「その父についてなんだけど…」
シルヴィアの父、アーロン・フィッツジェラルドは、以前まで王室の専属医として活躍していた。年相応とは言えないほどの白髪と髭、刻まれた苦労の数から、実年齢よりも老けて見える。言い方を変えると爺にしか見えないが、彼の培ってきた医者としての技量は疑いようがない。そんな彼と、王室で面識があったジャンヌは、傷ついたソフィアを連れ帰るなり、彼に頼ったのだ。そして、娘であるシルヴィアと知り合った。
彼女もまた、良い医者だ。
「先生がどうかしたのか?」
「父がドルイドなのは知っているわよね」
「ああ、そなたもドルイドなのだろう」
「まさか…私は違うわ。兎に角、父を余り信用しないことね。私はそれが言いたかっただけよ」
「大事な部分が欠けているが…何故だ?」
「父は危険だからよ」
「何故、危険なんだ?」
「ドルイドだからよ」
彼女はどうやら話すのが、とても苦手なようだ。いまいち何が言いたいのか分からなかった。ジャンヌは気を付けるよ、と一言告げれば話を打ち切った。




