世界の声1
無駄な時間を過ごした…、そう感じつつもソフィアは幾らかの本を読み耽った。読者を恥ずかしくしてしまうほどの台詞が並べられ、それを何の恥ずかしげも無く口にしてしまう登場人物達。そういう本は、小難しく語られた本よりも、多くの人の心を掴み上げ、そして捕らえて離さない。ソフィアもその筆者の魔法に掛かってしまった。本を読み終え、外に出た時には、日差しは顔を隠し、夜の静けさが訪れようとしていた。
ソフィアは、冷たくなった外気を吸い込む。北部で味わった肺が凍りつく程の冷たさは無く、ひやりと広がる感覚に安堵のため息を漏らした。
朝のゆったりとした雰囲気は無くなり、人々は一日の仕事を終えて、明日の準備をしていた。ホタルのような疎らで儚げな家々の灯りが、ソフィアの家路を導くかのように道を照らしている。
そして、ソフィア自身も、異変に気付く。薄暗い闇を露払うように、視界は晴れていた。遠くの方まで見通せる…、これがソフィアの身体に残る、吸血鬼としての力…。ソフィアは途端に恐ろしくなった。心地良かった夜風の冷たさに身震いすれば、温かい暖炉の灯りと温もりを目指して帰路へと向かう歩みを速めた。
丁度、街の中心に位置する場所に、酒場がある。名前は『道の暴れ馬』。日中は比較的に静かで慎ましい場所なのだが、夜になると一変する。まさしく暴れ馬の如く店の気性は荒くなるのだ。
勿論、今夜も例外は無かった。ソフィアが傍を通りかかると、店の中から、罵倒の言葉が飛び交っていた。何かが倒れるような音、荒々しい雄叫び、ガラスが割れる音。なんとも騒々しく、周囲に家を構える人達は、その暴れ馬の鼻息と、蹄で地面を蹴り上げる音と、咆哮に、夜も眠れないのだろう。ソフィアは、そんな不幸な人々に最小の同情を抱きながら静かに店の隣を通り去ろうとするが、と同時に、よく見える目のせいで見えてしまった。店の裏側の更に薄暗い、裏路地とも言えない道に、人影がぽつんと座りこんでいるのを…。当然、無視する事も出来たのだろうが、どうしても知人の面影がチラつき、確認せずにはいられなくなってしまったのだ。ソフィアは、その座り込んだ影に歩み寄る。ぼろぼろに綻んだ服とわずかにこけた頬、虚ろな眼差し。
「リアナ?」
ソフィアがその名前を呟けば、座り込んでいた女が顔を上げた。些か、貧相な格好では有るが、リアナ本人で間違いなかった。
「どちら様、だったかしら」
リアナはソフィアの顔を数秒間眺めた後に、ふらつく足取りで立ちあがった。酒場の外層は、腐り湿った木の匂いと雑さで一層、汚いものに見えたが、それに手を着き、身体をゆっくりと重たげに持ち上げる彼女の姿も一層貧相な物に見えてしまった。
「嗚呼、ソフィア…、生きてましたのね。随分と、雰囲気が違うので気付きませんでしたわ」
リアナは覚束無い足取りでソフィアに歩み寄り、虚ろな眼差しで確認した後に、対して興味がなさそうに言葉を漏らした。
「リアナよりは生きてるわよ、ぴんぴんしてる。そういう貴女こそ、雰囲気が違うのだけど…大丈夫?」
リアナとは、今は亡き要塞で別れた時以来、会ってもいなかったし、連絡も無かった。
「ええ、大丈夫ですわよ。少し、お金が無くて困ってるくらいですわね」
「何も食べてないの?だったら、私かジャンヌに会いに来てくれれば…どうにか出来たのに」
北の王と歌われる、獅子王の娘が金欠で、何も口にしていないなんて状況があるのだろうか…。
「だから嫌なんですのよ…、彼女には今は会いたくありませんの」
「なんで?喧嘩中?」
「いいえ、貴女と同様に、彼女ともあれ以来、会っていませんわ」
「何か…あったの?」
「少し…、あの後、城に連れてかれて…。胸糞悪い事があった…と言ったところですわね」
「だから、南部で、金欠?それっておかしくない?」
「これは私の問題で、貴女には関係の無い事、ですのよ」
「だったら、私が貴女に食事を奢ろうが、貴女には関係のない事ね」
「貴女って…道端で腹を空かしてる人がいると、誰にでも奢っていきますの?」
「誰にでもじゃないわよ、知り合いだけ」
「分かりました…。奢られますわ」
「ありがとう。それじゃあ、ここ以外の場所で何か食べましょ」
「貴女にお任せしますわ。それと…」
「分かってる。ジャンヌには言うな…でしょう?」
半ば、強引に押し切ったと言った方が良いのだろうが、ソフィアはどうしてもリアナをこの場所で座らせて置くことは出来なかった。知人であるし、何よりもこの街で信用出来る、数少ない人のうちの一人だったからだ。ソフィアはふらつくリアナの手を掴み、引き摺るように、あの場所から離れた、落ちついた酒場へと腰を落ち着けた。
リアナは最小限の物だけを食べた。値がはる物、大きい物、お酒には手を付けなかった。ソフィア自身に気を遣っているのか…何らかの事で腹を立てて意地になっているのかは分からなかったが、ソフィア自身も無理に聞き出すつもりは無かったので、彼女が落ち着きを取り戻し、話したくなるまで黙っていることにした。沈黙は武器。ドルイドには『沈黙の誓い』なる習慣があり、その誓いが果たされるまで決して言葉を発しないそうだ。ソフィアも、それに習って沈黙する。リアナが自身のことについて話したくなるまで…と言う期限付きだ。今日中には話すだろうと、誓いを立てたが…リアナが話さなかった時の事を考えていなかったのは、間抜けだったなとソフィアは沈黙の中で心に言葉を浮かべる。後、これは無理やりに聞き出すつもりの行為なので、上記の無理やりに聞き出すつもりはない、と言う事柄については訂正する。
「先ほどの酒場…、『道の暴れ馬』。あの店は、夜になると、この街の価値の無い場所の一つになりますけど…朝に訪れると、とても素晴らしい場所なんですのよ」
誓いの中にある、リアナ自身の事…とは関係のない事のように思えたので、ソフィアは沈黙したまま彼女の瞳を見た。そんなソフィアと視線が重なれば、リアナは、長い睫毛をふわりと揺らし、目を細め、表情を綻ばせて優しげな笑みを浮かべた。先ほどの貧相な表情からは想像できない程の、優雅で気品に溢れた美しい笑みだった。
「朝は静かで…。聞こえるのは、酒場のマスターが、木の容器を並べる音。蒸留するお酒の甘い香り…。街が目を覚ますのを肌で感じれる場所。価値のあるものが、価値の無い物へと変わっていく瞬間は、とても不快ですけど…その逆は、とても素晴らしいものですわ」
全く、何が言いたいのか分からないので、沈黙。
「つまり、わたくしにとって、故郷であった北部の城が…何の価値もない物に変わっていましたの。彼らの興味は、光る宝石や美しい女をどう寝取るかについてだけ。値段や希少価値に囚われた、見せかけだけの人間が溢れていましたわ。彼らには分かりませんわよ…。農家の家族が長年貯めたお金で、小さなお皿を買った時の幸福を。物質的な物に囚われた脳では、幸福の何かを理解する事など不可能ですわ」
「だから、城を飛び出して、価値の無い場所でうずくまってたの?」
ソフィアは、大きな溜息を吐き出しながら、ようやく沈黙を打ち消した。
「場所は関係ないですわよ。ただ、お金も無く、仕事も無かっただけですわ」
「だったら尚更、私やジャンヌに頼るべきだったんじゃ」
「そうですわね、お金も貸してくれて…食事まで、何から何まで、彼女ならそうしてくれるでしょうけど…だからこそ、頼りたくなかった。これは、わたくしの信念のような物だから、貴女は気にする必要はありませんわよ」
リアナは、言葉を吐きだした唇を一切れの布で上品に拭えば、クスリと頬笑みをこぼして、更に言葉を続けた。
「折角、奢ってくださったのですし、何かお返しをしませんと…。嗚呼、そうそう…近い内に、わたくしの父が北部と南部の諸侯を呼んで、軍隊を作るそうですわよ。北部の異教徒どもを皆殺しにする為の大規模な戦いに備えて…。戦争もいよいよ、本格的なものになってきましたわね。貴女も気をつけなさいな?これは、友からの忠告ですわよ」




