吸血鬼について
「残念だけど…それについての治療法は無いわ。あるのかもしれないけど、私は知らないわ」
夢の女、シルヴィアの言葉はソフィアの心に突き刺さった。現実と言う辛みをスパイスにして喉の奥に酷く沁み込んだ。
「気休めにしかならないだろうけど、王立図書館を使ってみてはどうかしら。あそこには、沢山の書物があって、作家と知識を共通するには良い場所よ。幸い、今の薬で症状は抑えられてるし、心構えをする準備は出来るでしょう」
夢の女は眉を顰めながら言葉を紡ぐ。ソフィアの身体に入った毒は、彼女の体を蝕む。初めは、小さな物だけど、それでもゆっくりとそれは膨らみ、ソフィアの血管を通って体中に広がっていくのだ。考えただけでも恐ろしい。
「では、私が送ろう」
ジャンヌは、ソフィアの横顔を眺めながら言った。苦笑の奥で、彼女のソフィアに対する同情の火が瞳の奥で揺れているのが分かった。二人は、シルヴィアと別れた後に、教会の無駄に大きな扉を開いて外に出た。
街には秋が訪れていた。並木の道は紅葉の絨毯が敷き詰められている。木で揺らぐ葉は、瑞々しい緑を失い、慎ましさを強めた。秋の湿った風が街を彩り、普段よりも時がゆっくりと流れている様な気がした。
街の中心を流れる大きな水路に沿って、二人は無言の時間を歩いて過ごしていた。ジャンヌは何か気の利いた事を言葉にしようと薄く唇を開いてみるも、同情の言葉しか見つからず、すぐに唇を結んでしまう。
日差しがいつも以上に眩しかった。それは酷い時には眼も開けられないほどに、瞳に沁みた。これも、ソフィアの身体がわずかに吸血鬼として機能し始めたからだろう。黄金色、白銀、橙色、色んな日差しの光に瞳が皮膚が心が悲鳴を上げている。その内には、血を飲みたくなるのだろうか、そうなれば私はジャンヌを殺してしまうかも知れない。いや、彼女は強いし、私が返り討ちになるのかな…。そんなつまらない事を考えながら、遂には沈黙にも耐えきれなくなって、ソフィアは横目に覗き込むように視線をジャンヌに向けた。
ジャンヌと視線が重なり合う、そして、ジャンヌの表情が綻び笑みを零す。ソフィアは何故か恥ずかしくなり、視線を逸らした。彼女の笑みは眩しい…、けれどソフィアにとっては心地良い眩しさだった。
「歩くのは止めよう、気分転換も時には大事だ」
ジャンヌが沈黙を破り、水路を指差した。ソフィアはその指された方へと視線を向ける。一席の木の小舟が男によって漂う様に流れていた。ジャンヌは、その男に声をかける、男は銀貨一枚で街の北側に送ってやると告げた。水路を渡って街の北側へ行くにはまず、城の外の水路から回り込む必要があった。遠回りのように思えるが、案外そちらの方が歩くよりも速かったりする。
ソフィアはジャンヌに手を引かれながら、小舟に乗り込んだ。二人の体重で揺れる小舟に乗り込もうとするが、難しく、何度もバランスを崩して落ちそうになった。その度に、自然と表情は綻んで、開いた唇から声が漏れた。その様子を、早くしろと言わんばかりに眺める船漕ぎの男の視線が痛かった。
漸く落ちついて船に跨る。男の手によってゆっくりと小舟が前進(実際は南に下っているので後退だが)した。水路から流れる町並みを眺めた。犬を連れて歩く人、時間を持て余しジョギングに耽る人、干した洗濯物に囲まれて言い争いをしている夫婦、路上で抱きあいキスを交わす男女。普段から緩いこの街を、秋の香りと風が更に際立たせている。そんな光景を眺めていれば、自身はまだ普通の人なのだと、安堵感に包まれる。
「ソフィア…」
ジャンヌの言葉にソフィアは視線を目の前のジャンヌに向けた。
「何?」
「別の心、別の身体で歳を取るのは、難しい事じゃない」
ジャンヌは何か告げようとして、言葉を詰まらせた。今朝から歯切れが悪い。ソフィアはそう思いながら、応答した。
「うん、分かってる。でも…大切な人の顔を思い出せなくなるのは…、その人の顔から光を奪ってしまうことは、凄く我慢できないことだよ」
ソフィアはジャンヌから視線を逸らせて流れる風景を眺めた。ジャンヌの顔を見てしまうと分かる。一抹の不安と気遣いが…正直、とても居心地が悪くなってしまう。
「私は水路に落ちた葉だ。水面に浮かび、風に靡かれながら漂い、無言で街を眺めている。それしか出来ないから…。誰からも気付かれずに、ふらふらと世界に揺られて漂っているんだ」
「それはジャンヌに限った事じゃないよ…、私も同じだと思う。それでも、一部の変わり者には、その落ち葉が魅力的に映って、目に留めるかも知れない。長い水路から引き摺り上げてくれるかも知れない。世界は変えられないし、抗えないけど…二人で生きてーー」
そこまで言ってソフィアは唇を閉じてしまった。これ以上はダメだ、まるで此方が愛の告白をしているみたいじゃないか…。血の気のない顔は相変わらずだけど、頭から火が出そうなほどソフィアは羞恥心で一杯だった。
「嗚呼、そうだな…その通りだ」
ソフィアの意図を察しているのかいないのか…、ジャンヌは相変わらず、眩しいまでの笑顔で答えていた。
ゆらゆらと小舟が水面に揺られていく。二人を乗せた小舟は、まるで落ち葉のように漂っていたーー
着いたよー。男の気の無い声が響いた。二人は男にお礼を言って小舟を下りた。此処から少しばかり歩けば、目の前には王立図書館があった。外層は、石で造られており、まるで教会のように神々しく堂々としていた。建物としての大きさも確かな物で、小さな教会よりは強く頑丈に作られていた。
「私は、このまま歩いて帰る。食材も買って帰らないと」
ジャンヌはそのまま薄く笑みを浮かべて踵を返した。彼女の背中を見送れば、ソフィアも踵を返して歩みを進める。
図書館の中は暗かった。王立と言うのだからもっと華やかな物を期待していたのだが、半分吸血鬼と化した今のソフィアには、この本の壁に潰されそうな程の圧迫感が心地良かったりもしたのだ。
「お譲さんや、何かお探しかのぉ」
ソフィアが、悪戦苦闘していれば、腰の丸まった老人が声を掛けてきた。彼は自身が管理人である事を告げれば、何か手伝おうかと提案したのだ。流石に老人に無理をさせる訳には…と思いながらも、この本の中から目当ての本を見つけ出すのは一日やそこらでは無理だとソフィアは判断した。
「あの、吸血鬼の本を探してるんですが…」
「ほほお、その手の本は、若い女性に人気での…、字が読めればだが。この場所には、お探しの本が26冊あるぞ」
予想外の多さに空いた口が塞がらなくなったが…取りあえず全部に目を通したいと告げた。老人は満足そうに頷きながら左側の一部の本棚を指差した。
「あそこに有る。言い忘れたが、此処の本は持ち出し厳禁じゃから、読みたければ、この図書館の中で読みなされ」
一瞬、老人の瞳がギラリと光ったのが見えた。ソフィアは慄きながらも頷いた。
老人と別れた後、ソフィアは本んの壁と対峙した。自身の3倍はあろうかという高さに抗うために、小さな木製の椅子を足場に、手を伸ばす。一冊、一冊と慎重に棚から抜き出していく。普段よりもバランス感覚が研ぎ澄まされ、分厚い本の重さを感じなくなっていた。
漸く26冊の本を抜き出せば、中央の机に並べる。そこから一冊ずつ手に取り、流す程度で内容を読んで行く。時間は掛かりそうだが、多分、時間はたっぷりある…と思う。
数時間を掛けて、26冊、全ての本に目を通した。そして、吸血鬼について幾つか分かった事がある。
一つ、吸血鬼は男が多い。そして、大半がキザだ。甘い言葉で誘惑して、女をはべらかし、隙を突いてガブリ。
二つ、異常なほどに性欲が強いらしい。吸血衝動と欲が統合しているからとか何とか。嫌だ。
三つ、ニンニクと十字架、神が苦手ならしい。十字架と神は別に嫌いではないので、今度ニンニクを試してみようと思う。
四つ、血を吸われた物は、死ぬ、または吸血鬼になる。その境界については書かれていない。
五つ、26冊中、24冊が…セックス作家による、現状では全く役に立たない恋愛物の本だった。今になって、老人の言っていた事が分かった。
六つ、全くの時間の無駄と言っていい。
結論、時間がたっぷりあると言った事は訂正、貴重な時間を無駄にした。完全に吸血鬼になれば、まずは、あの夢の女の血をいただくとしよう。 以上




