感染
次にソフィアが目を覚ました時は、瞼を焦がす様な灯りや、暖炉の微かな温もりの中だったが、ソフィア自身はまだ記憶が曖昧だった為に、目を覚ますと同時に大いに暴れた。自分はまだ、あの森の中で倒れていて敵がすぐ近くに迫っているのだ。そして、自身の近くには、スノウが…狼が、ソフィアの血肉を喰らおうと息を潜めている。そんな感覚が寝ている間も身体の至る所に纏わりつき、ソフィアに恐怖を促した。
そんなソフィアをベッドに押さえつけたのはジャンヌだった。
「先生、来てくれ!眼を覚ましたぞ!ソフィア、落ち着け…帰って来たんだ。私がついてる…今は寝ていろ」
ジャンヌはソフィアを力強くベッドに押さえつけ、遥か彼方に歌い掛けるように声を響かせ、誰かを呼んだ。そして、軋みを上げるベッドとソフィアを見下ろしながら、その澄んだ声で…瞳で、ソフィアの眠ったままだった安心感をも目覚めさせた。身体が軽くなるのを感じる、上手く出来なかった呼吸はなめらかに胸の奥を流れて行く。
ジャンヌの傍に老人が歩み寄って来た。顎からは大樹の根のごとき白い髭が無造作に伸ばされており、年期が刻まれた顔には大いに苦労の色が見て取れる。頭は顎とは真逆に白髪一本生えていなかった。彼はジャンヌに何か言った後に、ソフィアを見下ろした。
いよいよ、灯りがうっとおしくなってきた。瞼や瞳を焼き焦がす程の強い光。暖炉の火が木を燃やし、炭に変える音が木霊する。ソフィアは居ても立ってもいられなくなり瞼を伏せた。安らぎと静寂に包まれる、身体は軽く浮き上がり…広い湖の中で一人、浮かんで漂っている。それでも、やはり喉の渇きは癒えないまま…砂を噛み続けている様な不快感が口の中を支配していたーー
「お早う。気分はどうかしら?」
夢の女と例えるべきか…。スラリとした身体に長い赤髪。睫毛は長く目立たない色、紫色の瞳。もし、彼女が酒場に居たならば振り向かない男など居なかっただろう。
「最悪な気分です…」
彼女の問いにソフィアは答えた…。身体は重く、喉の奥で砂ような何かが詰まってザラザラとしたそれが、ソフィアの喉の渇きを増幅させていたが、何故か、水は飲む気になれなかった。
「あの…ありがとう御座います」
ベッドの中も、想像ほど心地よい物ではなく、ソフィアは身体を引き摺る様に起こした。
改めて辺りを見渡してみる。見慣れた天井、曇ったステンドグラス、温かい暖炉の火。間違いなく、此処は南部で…ソフィアが帰りたがった騎士団の教会だった。
「別に、お礼を言われる筋合いはないわ」
夢の女は、椅子に深々と腰かけ、ふうっと小さな溜息を吐いた。長い睫毛がゆっくりと、閉じられる瞼に掛かる。ソフィアはこの状況を全く理解できなかった。目の前の女は何者なのか…此処は本当に家なのか。ジャンヌは何処に行ったのか。考えても分からない事は分からないだろう、ソファは、夢の女に問いかけようと唇を震わせた刹那に、夢の女は、瞼を伏せたまま告げた。
「私は、知人に言われたから此処に居るの。詳しい事は、あの女騎士に聞きなさい」
まるでソフィアの心中を見透かしたように、彼女はそう告げた。ソフィアはそのまま開きかけていた唇を閉じ、ステンドグラスから漏れる日差しを遠目に眺めた。極彩色とは程遠い、薄い光が部屋の隅を照らしている。何故か、異様に眩しく、何よりも心の底から不快だと感じてしまう自身の感情に嫌悪感を抱いて。
ジャンヌが姿を現す数時間の間、ソフィアと夢の女は一言も言葉を交わさなかった。いや、実際は交わせなかった。夢の女が何者か分からなかったし、彼女には近寄りがたい何かがある様に思えた。
ジャンヌは、扉を開くなり真っすぐにソフィアの元に向かって来た。
「調子はどうだ?」
ソフィアが寝ているベッドの隅に腰をおろせば、優しい声色で問いかける。彼女の体重で、ベッドが微かに軋み、沈むのを感じれば、彼女の存在をより確実に感じる事が出来た。
「気分が最悪なこと以外は、問題なし」
「それは、無視できないな…。自分では気づけないだろうが、酷く顔色が悪い」
ジャンヌは苦笑を浮かべながら、ソフィアの額に手を添えた。彼女の手の温もりが顔に広がる。それでも頬が赤みを取り戻す事は無く。自身の身体が酷く冷たくなっていることに気付いた。
「私達、助かったの?」
「ああ、帰って来た。久し振りの我が家だな」
ニコリと笑みを浮かべたジャンヌに釣られるように、ソフィアも表情を綻ばせる。ジャンヌに言われて漸くソフィアは此処が我が家であると、確信できた。軋みそうな程に居たんだ木の壁。曇って淡いステンドグラス。暖炉の温かさ、炭の匂い。ベルガモットの良い香り。なぜ気付かなかったのか。何故気付けなかったのか…。
「スノウはーー」
ソフィアは言葉を詰まらせ、言葉を塞いだ。
「スノウが、どうかしたのか…?彼女も他の者同様に、帰って来なかったぞ」
「そっか…何でもない」
不思議そうに首を傾げたジャンヌは、暫く何か考えた後、傷口が広がった様に表情を曇らせ、顔を伏せた。
スノウは、私の血を吸ったーー、などと言った所で信じてもらえるのだろうか。そもそも、吸血鬼とは神の敵ではなかっただろうか。
「眠りながら…軽く聞き流す程度で聞いてくれて構わない」
眼を閉じたソフィアの血の気の無い顔を眺めながらジャンヌは、淡々と言葉を並べ始めた。一定のリズムと声色を保ちながら、無感情な言葉の羅列がソフィアの眠気を強めたが、大事なことだったので聞き流したりはしなかったーー
ジャンヌの説明は、簡潔に済んだ。脱走兵達と別れた後、彼らの馬を借りて、もぬけの殻だった要塞を見たこと。誰一人、帰って来なかったこと(ブラッドメイアーは後日、ふらりと帰って来た)、私が蛇に咬まれたこと(実際は蛇ではなく吸血鬼)、解毒の為に、夢の女こと錬金術師のシルヴィア・フィッツジェラルドに血清を作ってもらったこと。
「一つ、訂正良いかしら?」
一通りの説明を聞いた後に、椅子に腰かけて微動だにしなかった夢の女、シルヴィアが言葉を発した。
「確かに私は、血清を用意したけど…容体を見る限りは完璧とは言えないわ」
「どうして?」
彼女の瞳を眺めながら、ジャンヌとソフィアは声を揃えて問いかける。
「北部で生きている蛇の種類は限られてるし…、治療は問題ない。だけど、血清を打った貴女の体内には毒が残ってる。兎に角、何に咬まれたか、どんな姿形をしていたか、分かる範囲で情報が欲しいところね。そうすれば、手探りで治療なんて危ない道を渡らなくて済むのよ」
シルヴィアは、ソフィアを眺めた。興味の眼差しを向けている。
「ええと…吸血鬼に噛まれました」
シルヴィアの話を聞いて大いに焦ったソフィアは、簡単に白状した。毒がまだ身体の中に残っているなら…この身体は吸血鬼になってしまうのではないか、心の底から治療してほしいと願った。吸血鬼になるのはゴメンだ。
完璧、夢の女ならどうにかする事が出来るのではないかと、ソフィアは一抹の期待を持ったが、彼女は眉を顰めて言葉を失ってしまった。困惑してるのか…それとも、馬鹿にされたと感じて怒りをあらわにしているのかは分からなかったが、彼女の知的欲求が何処までも深く、地獄にある知識まで届いている事を祈るしかなかった。




