外の世界
「嗚呼…少し休もう…」
ソフィアの肩に持たれるジャンヌが小さく呟いた。当然の如く気分が悪い。
「大丈夫?あの滝の裏に空洞が見える。あそこで休もう?」
荒々しいジャンヌの吐息がソフィアの髪を撫でる。ソフィアは半ば焦りながらジャンヌを引きずるように滝に隠れた洞窟に腰を置いた。滴る滝を潜ると頭から水を浴びたが、今更気にもならなかった。
「私は少し休んで行くから、そなたは先に行ってくれ。これを持って、忘れずに」
そう言ったジャンヌは、懐からアミュレットを取りだした。それを手に乗せればソフィアの方へと差し出した。奇妙な形の装飾が異様な光を放っていた。
「いらない」
ソフィアは当然のように拒否する。これを受け取ってしまえば、ジャンヌを見捨てる様な物だ。ソフィアは眉間にしわを寄せ、はっきりと断った。
「こんな物、今すぐに捨ててしまいたい。任務など忘れて、皆を探しに行きたい」
ジャンヌは湿った岩の壁に背中を付けて、肩で大きく息を吐き出しながら呟いた。ジャンヌの本心…。ソフィアはジャンヌが体力的にではなく、精神的にも弱ってる事を強く実感させられた。
「すぐに会えるよ?」
「ふふ、そなたは何も分かってないな……。私はそんな、そなたが羨ましい」
「これから、分かるわよ。何をするべきか、何を探しているのか…ジャンヌのことも」
「私は自身の事が何も分かっていない。気付いた時にそこに居て…ただ、漠然と生きている。ときどき感じるのが、私が生きている世界が、現実か地獄なのか分からなくなる…。普通の娘として生きていたなら…こんなことに気付きもしなかっただろうな」
「普通の娘として生きたいの?」
ソフィアは皮肉たっぷり添えた笑みを浮かべながら悪戯に問いかけてみる。
「ふっ…、いや…、そんな生活などあり得ないな」
ソフィアの問いかけを聞いたジャンヌもソフィアの言いたい事を察して、つい笑みが零れてしまう。呼吸に合わせて肩が揺れる。彼女の艶やかな微笑が空洞を反響し、岩の壁に着いた水滴を揺らした。
「ジャンヌは此処で休んでいて?私は誰か探してくるから、絶対に見捨てない。必ず戻って来るからね」
「一応、コレを」
先ほどの質問のお返しだと言わんばかりに、アミュレットをソフィアに差し出した。皮肉たっぷりの笑みを添えて。
「いらない。自分で渡して」
ソフィアは苦虫を噛み潰した様な苦笑を漏らした。そんなソフィアの表情を見て満足したのか、ジャンヌはアミュレットを自らの懐に戻してソフィアの背中を見送った。お互いに以外に意地悪なのだと悟った。
ジャンヌは嫌いだった屋敷、その中庭に立っていたーー
全ては霞みがかっていて、視界は濃霧のように悪かった。世界が露を滴らせた湿った世界。
ジャンヌはこれが夢だと悟った。幼い頃の自身の姿が見える。母に連れられ、庭を渡り、廊下を歩き、階段を上がる。
この屋敷は父、アトス・シェーグレンが病気がちだった母の為に買った別荘だった。森に隠れるように立てられた屋敷、春は鳥の囁きに目覚め、夏は、蒸れた空気と共に緑草の香りが世界を覆う。冬は暖炉の火が部屋を暖かく包み、机には豪華な食器に並べられた、豪華な食事が並ぶ。戦争中の国で、金のある貴族は珍しい。シェーグレンは間違いなく、その珍しい貴族の中の一つだった。
隣に立つ母が言った。
「ジャンヌ、大切なお客様がいらしてるから、お行儀よくね?」
母はやつれた笑みを浮かべながら、ジャンヌの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「分かってるわ、お母様」
にこやかに笑みを漏らしたジャンヌは、歩き去る母の背中を見送った後、その場に立ち尽くした。
ボーっとだだっ広い屋敷を見下ろしてた。孤独で静かな屋敷…殆ど、人の出入りはなかった。暫くすると、一人、階段をだらだらと上がって来るのが分かった。ジャンヌは緊張で身体を強張らせながらもしなやかにスカートの両端を指で一摘みし、持ち上げる。膝を軽く曲げて優雅に御挨拶。
「お早う御座います、陛下」
男はそんなジャンヌの行為に複雑そうに表情を引き攣らせたが、すぐににこやかに笑みを浮かべて幼いジャンヌを抱き上げた。しなやかながらも鍛えられた身体からは、強いアルコールの匂いが漂っていた。
「美しくなったな、母に似て来た。陛下などと呼ばないでくれ、ジャンヌ。此処に居る間は、私は王ではないんだよ?」
優しい声で告げる男は、ジャンヌの頬に優しく唇を落とせば、強く抱きしめた。
「おい、エリク。此処には来るなと、あれほど言っただろう」
部屋の一室から飛び出して来たアトスがエリクに言葉を飛ばした。苛立った足を、高級な赤いカーペットに叩きつけながら歩み寄って来る。
「おお、友よ。そう怒るな、私だって息抜きしたい」
エリクはジャンヌをゆっくりと下ろして、苛立つアトスに向かい軽く頭を下げながら言う。ふらつく足を絡ませながら、出来もしない貴族風の挨拶を試みようとするも、途中でアトスに詰め寄られて止めた。
「俺に会いたいなら、城に呼べ。お前は王なんだから簡単だろう?」
「私は王ではなく友として此処に来たんだ、それに…以前よりも背が高くなった」
エリクは酒臭い吐息を吐きだしながら、ジャンヌの頭に手を乗せ、ポンポンと軽く叩いて見せる。
「お酒臭いわ、陛下」
ジャンヌの一言に、ハハハとエリクは背中をのけぞらせて笑った。そんな彼を余所目に、アトスはジャンヌの前に屈み、呟く。
「お前は下に降りていなさい。ママと一緒にいるんだ」
ジャンヌは頷き、階段を下りた。背中に二人の会話が浴びせられる。
「ジャンヌに会いたければ、呼べ。此処には来るな、もう二度とだ。自分で言ったんだぞ。俺の家族を巻き込まないでくれ」
「何故、自分の娘に会うのに許可がいるのか?よし、なら私はお前に王として命令してやる」
「落ちついてくれ、最近のお前は飲みすぎる。少しは控えろよ。自分でさえ言ったことを覚えてないんだろ?」
「なら、良い医者を紹介してくれ、ドルイドの調合した薬など疑わしくて飲めるか。帰ったら、あのドルイド達を寒村に送り返してやる。良いか?絶対だぞ」
「ああ、お前が次に目覚めたときに、その事を覚えてるなら、そうすれば良い。お前は王なんだから、それが出来る。取り敢えず、中で話そう」
一階から盗み聞くジャンヌに浴びせられた会話は、扉によって遮られた。いったい何の話だろう。彼女は小首をかしげる。
「もう、起きる時間よ、ジャンヌ」
背後から母が話しかける。ジャンヌは驚き振り返る。
「いったい何の話だ、母上ーー
冷たい滴がジャンヌの頬に落ちた。彼女の白い頬にぶつかり、銀砂を飛び散らせると同時にジャンヌは夢から覚める。滝の音が轟々と響き、滝の水を隔てた世界はまた違う色を、光を放っていた。どうやら、一日中眠っていたようだ。辺りを見渡す、ソフィアはまだ戻っていないようだった。
眼を閉じると、滝が落ちる音の他に、聞こえた。人が歩く音、複数の足音。小川の水を蹴り上げながらこちらに向かってくる。追手だろう…。もう追いついて来た。ジャンヌとソフィアの匂いを、足跡を痕跡を見逃さずに迫って来る。逃げ切るのは初めから不可能だった。だから此処で迎え撃つ。もう、逃げるのはうんざりだ。ジャンヌは剣を握りしめて、静かに立ち上がり、滝と外の世界との境目に立つ。足の痛みも不思議と感じなかったーー




