吸血鬼
冷たい水が皮膚を貫き、骨の神経へと傷みが広がる様な感覚に陥るが、その痛みもすぐに消える。全身が凍てつき身体を駆け巡る血液が鈍い音を上げながら凍りついていく身体の悲鳴が聞こえた様な気がした。
それでも感じるのは、絡まり合う指の繋がりと、氷の中で感じる微かな温もり体温。身体が回る、世界が回る。自身が上向きなのか下向きなのか分からなかった。目を開けば闇の中、見えるのはガラス玉が砕けて散ったような無数の泡。身体を切り刻まんとする水の流れが描く軌跡。鋭く尖った岩肌が顔を寸前で掠めて行く。もうかなり流された様で、そうではない気がする。ソフィアとジャンヌはお互いの希薄な存在を感じ合ったまま、宇宙を流れる塵の如く、唯、意識の境界上を彷徨って行くーーー
「おい、起きろサム!」
気を失ったサムの身体が揺れる。
「俺達はかなり、ツいてるぜ!」
目を開けたサムの目に喜ぶフレイムの姿があった。それ以外には誰もいない。
「此処はどこだい?」
「知らん。それでも助かった。ほら、敵が来る前にさっさと行こうぜ!」
フレイムはサムの身体を無理やりに引き起こすと、歩く様に促した。サムは促されるままにゆっくりと歩み出す。
「他の皆は?スノウはどこだい?」
「あ?知らないと言っただろ?お?お前、スノウに気があるのか?」
「そ、そんな事はない!」
フレイムはサムの動揺を見逃さなかった。いつものように嫌みたらしいニヤ付いた笑みを零しながら腹を抱えた。
「アイツは止めとけ、お前じゃ無理だ。住んでる世界が違う。普通の奴が関わっていい奴じゃない、寧ろ関わらなかったら幸運だと思うべきだ」
「君はいつも一緒に居るんだろう」
「俺は親父に言われて一緒に仕事をしてるんだ。じゃなきゃ死んでもゴメンだな。アイツは…、もう良い。スノウの話はもうするな。しても良いが俺は答えない。執拗に問えばぶん殴る」
「わかったよ、もう聞かない」
サムは溜息を吐きだしながら、短気で暴力的な目の前の男を見やった。これから二人っきりだと思うと気が気でない。何事も無く、他の皆と合流出来ればと願うだけだ。サムは込み上がる不安と億劫な感情を吐き出す様に再び大きな溜息を漏らした…と同時にフレイムが立ち止まる。
「おい、今何か聞こえなかったか?」
「え?」
「あっちの方か…」
サムとフレイムは揺れる背の高い草の葉の更に奥へと目を凝らしたーー
「けほっ…けほっ」
ソフィアの意識が戻る。感覚は薄く、打ち上げられた岩にぶつけたのか身体の節々が痛みの悲鳴を上げている。咳き込み、飲み込んだ水を自身が頬を押しつけていた岩の上に吐き出した。
視界が歪む。瞼を上げたソフィアは霞がかった視界で夢を見ている様な気分になる。見えるのは繋がったままの手、絡まった指。そして、未だに瞳を閉ざしたままのジャンヌの顔。
彼女の金色の髪が頬に張り付き濡れている。ソフィアが夢心地なのは彼女のせいだろう。
寝息の様な穏やかな呼吸が聞こえる。すーっと膨らみ下がる胸が強調されて揺れている。
このまま目を閉じてしまいたかったがそうもいかない。窮地は脱したものの敵はまだ追ってきているに違いない。ソフィアは震える腕に力を込めてゆっくりと身体を起こした。
ソフィアの握りしめた手にも力が加わり、ジャンヌの瞼はふわりと上がった。
「無事か…」
起きるなりそう告げたジャンヌにソフィアは呆れてしまう。それはこっちのセリフだよ。
「足は痛む?」
ソフィアは苦笑を零しながらジャンヌに告げる。
「ああ、誤魔化しても無駄だろうからな…。他の3人は?」
「居なかったよ。多分、別の場所に流されたんじゃ…でも、目的地は一緒だし。大丈夫だよね」
ジャンヌは何も言わなかった。大丈夫、そんな根拠なんか何処にも無かったのだ。
「行こう」
ジャンヌは一言告げると立ち上がろうと身体に力を込めた。水分を含んで束になった金色の髪から銀色の水滴が零れ落ちる。太股からは相変わらず、鮮血がジャンヌの白い素肌に赤い線を引いて滴っていた。そんなジャンヌに寄り添うようにソフィアも立ち上がった。
フレイムとサムは全速力で走っていた。森を抜けると開けた平野が顔を出す。
「止まるな、走り続けろ!!」
フレイムの言葉にサムは更に足の回転速度を上げて行く。サムは後ろを振り向いた。丁度、それは先ほど自分達も抜けた森と平野との境界線上に現れた。
鋭い眼差し、尖った牙、滴る唾液。獲物をしとめて喰らうための身体。狼だった。それも10匹。
そして、サムは知る。自身の心臓が爆発しそうな程に鼓動している。止まれば死ぬ。だけど、限界は必ず訪れる。僕は死にたくない。
そんなサムに限界は訪れた、足は絡まり、その重たい身体を平野の地面にたたきつけた。
「フレイム、待ってくれ。僕はもう走れない」
「でぶっ、何やってんだ、立て!止まれば死ぬぞ!」
「立てないンだ!!」
「くっそ、この豚野郎!」
フレイムは踵を返した。地面に伏せたサムの腕を掴み上げようと力を込めた瞬間に、左足に傷みが走った。
彼の身体は、理解するより先に地面に倒れた。傷みが広がる場所を見る。一本のナイフが、突き刺さっていた。
「すまない、こうするしかなかったんだ。本当にすまない」
半べそのサムが、フレイムと入れ替わるように立ち上がり、意味も分からずに見上げる彼に、サムは告げた。
「僕は、死にたくない。すまない…本当にすまない、フレイム」
サムはフレイムに背中を向けた。そして、走り出す。脱兎のごとく遠ざかっていく。そんなサムの背中にフレイムの罵倒が飛んできた。強烈な侮辱を並べた言葉も、すぐに聞こえなくなった。
サムは、平野を超えて再び森の中に入った。此処がどこかも分からないが、帰らなければ。
走り抜けるサムの足に何かが引っ掛かる。サムは再び地面に身体を倒した。振り返れば、一人の死体が横たわっている。黒フードの男達の一人…こんなところまで逃げていたのか。然し、何故死んでる?
そんな疑問もすぐに解決した。死体から目を背ければ、その視界の端にスノウが立っていた。短剣にどろりと付着した血を拭いながら、サムの方に歩み寄る。
「スノウ。良かった…生きてたのか」
サムは、彼女の姿を見れば救われた様な気持ちになった。先ほどまでの罪悪感は無くなっている。
スノウはそんなサムの横を通り過ぎ、死体の前で止まった。彼女は死体を見下ろしながら、吐息を吐きだす。彼女の背中が微かに揺れたのがサムにも分かった。
「フレイムは…どう、しましたか…」
一瞬、サムには誰の声か分からなかった。澄んだ綺麗な声だった。
「彼は、死んだよ…」
そう告げられたスノウは溜息を吐きだした。
「スリント…彼の父親に小言を言われてしまいますね…」
「すまない、僕は、彼を助けられなかった…」
サムは、自身に言い訳するように言葉を告げながら立ち上がろうとする。
「動かないでください…」
立ち上がろうとするサムをスノウが制止する。彼女は未だに背中を向け、死体を見下ろしたまま動かない。
彼女から、沸々と湧きあがる感覚をサムは感じ取った。この感覚は感じたことのある。紛れもなくスノウの殺気だった。
「ぼ、僕を…殺すのか…?」
自分でも理解できなかった。彼女に対して何故、そんな事をいったのか…。ただ、無性に喉が渇いた。何度も、唾を飲み込みながら、サムは震える唇から言葉を絞り出した。
「さて…どうしましょうか…」
彼女は自身の仮面に手をかけた。黒く歪な形の仮面を顔から剥ぎ取り、そして振り向いた。
彼女の目はワインレッドのように赤く、どす黒い光沢を放つ目をサムに向けた。木々の隙間から放つ、日差しが眩しいのか目を細めては眉間に皺を寄せた。血の気を感じられない程に青白い肌を日差しが微かに照らす。浮かび上がる青筋…。肉が焼ける様な音。
スノウは、一歩下がり、日差しを避けた。先ほどまで光に触れていた個所は痛々しい程に焼けていた。
「ぼ、僕を殺すのか…?」
サムは再び、先ほどの問いかけを目の前の人ではない何かに投げかけた。
スノウは、一度目を閉じ、再び開く。彼女の血の眼の中で瞳が脈打ち、瞳孔が広がるのを感じた。
「私の顔を…見ましたか?」
開かれた唇から、尖った歯が見えた。その冷たい唇から放たれた言葉は、本当に冷酷で意地悪い言葉。
サムにとっての最後に聞いた言葉だったーー




