白い脂たっぷりの肉
静寂の森に雨が降った。緑葉など以ての外、枯れ葉一つ付かない立派な大樹では、ソフィア達を雨から守ってくれるには、到底、期待など出来なかった。現に、雨が降り始めて数分でソフィア達の全身は、滝に打たれたかの如く、ずぶ濡れになったのだ。
乾燥していた風は水分を含み、潤いを取り戻した。その風邪に肌を撫でられ幾分、気分は心地よくなるが、何しろ気温が低すぎた。ソフィアは悴む手で、自身の身体を守るかのように腕を回した。隣を歩くブラッドメイヤーは濡れた身体を何度も振り回し、その度にソフィアの顔や体に白い毛を含んだ水が襲いかかった。
「こらあ、やめろぉ」寒さの為か、猫撫で声のような弱々しい口調でブラッドメイヤーに呼びかける。傍から見れば、ただ単にじゃれ合っているようにしか見えなかった。
「元気だね…」ソフィアの背後で誰かが呟いた。
あの脱走兵に会ってからというもの、ジャンヌの機嫌はすこぶる悪くなっていた。
背後から、時折、覗き込めば、表情は何やら思いつめたように引き攣り、眉間に皺を寄せて怪訝そうに俯いたりしている。理由はソフィアにも想像が付いた。
恐らくは、彼女が騎士である故の葛藤だろう。命と任務とを秤に掛けるとするならば、ソフィアは100%、自身の命を取る。断言しても良い。しかし、ジャンヌは違う。彼女は自身の命よりも任務を優先するだろう、途中で投げ出したり、ましてや裏切るようなことはしない。そんな彼女の真面目さと脱走兵達の正論とで頭の中で整理が付かなくなっているのだ。あわよくば、この雨が、オーバーヒートしそうな程、回転し軋みと悲鳴を上げているジャンヌの思考を冷ましてくれればと、ソフィアは祈るように天を煽った。大粒の滴がソフィアの顔を強く打ち、冷たく蒸れた空気の匂いがソフィアの鼻孔を刺激する、ソフィアは半ば夢心地で歩き続けるしかなかった。
「少し、休憩しよう」
アベルが言った。ソフィア達は無言のまま、無数に伸びた枯れ木の中から一本の木を選び、その木の根元に腰を落ち着かせた。銀色の粒が枯れ木の枝から滴り落ちる。砕けた滴は苔の茂った土や木の根元に銀砂を振りまく様に飛び散り幻想的な光景を映し出す。辺りには静寂が広がり、聞こえるのは雨の音。ソフィア達がいるこの森は今、世界から切り離された別の世界、静かで孤独な世界に取り残されてしまったのだという感覚が嫌でも込み上がって来る。そんな感情を抱いたまま、ソフィア達は身体を寄せ合い、温め合いながらしばしの休息に溜息を漏らした。
ソフィアは小鳥の声で目を覚ました。懐かしいナイチンゲールの鳴き声のような爽やかな唄。南部を吹き抜ける小麦畑の香り。そんな錯覚に寝ぼけ眼で飛び起きたものだから此処が何処なのか理解するのに数秒掛かった。
此処が北部であり今、南部は遠い場所にあると理解すれば身体の力が抜け、背後の木にもたれかかるように倒れ込んだ。苔の柔らかい感触が背中に広がる。空を仰げば、いつの間にか雨が上がっていることに気付いた。そして、温かいイノシシのスープの香りが広がる。フレイムを筆頭に煮え立つスープの周りを囲んでいる。そこにジャンヌの姿はなかった。
「ジャンヌは?」
ソフィアは、問いかけた。
「ああ、あっちの方に行ったよ。もう、食事の用意も出来たし、呼んできてくれないか?」
アンヌが、スープを眺めながら告げた。
「なんで、わたし?」
「だってほら、あんた、ジャンヌと仲良しだろ?」
「それで?」
「触らぬ神に祟りなし」
ジャンヌの機嫌が悪く、恐いから、仲のいいソフィアを生贄に捧げようという単純明快な作戦らしい。ソフィアはしぶしぶ、ジャンヌの所に向かった。
森の中は、霧が立ち込めていた。この霧ならばジャンヌも遠くには行けないはずだと、範囲を狭めて捜索開始。ついでに犬も連れてきたから迷ったりすることはないだろう。
しばらく歩けば開けた場所に出た。そこは小さな小川が流れる見晴らしのいい場所だった。
慎ましい川のせせらぎ、跳ねる水しぶきの音。大きな一匹の鹿が華麗に跳ねながら小川を渡ったと同時に犬が吠えながら駆け出した。ソフィアも慌てて犬の後を追いかけた。
犬の背中が遠くなっていく、それでも必死に追いかけた。今、置いてかれてしまうと迷子になってしまうからだ。
声が聞こえる。恐らくジャンヌの声だろう。ソフィアは逸る気持ちを抑え込み木の割れ間を縫うように飛び出した。
ブラッドメイヤーが居た、そしてジャンヌもいた。彼女は小川の真中で、全裸で立っていたのだ。
彼女の白くてスラリとした背中が見える。その背中には火傷の痕があり、傷は片翼の天使の羽根のように、彼女の背中で翼を広げている。ジャンヌが青ざめた顔で振り返る、ソフィアは口を大きく開けたまま立ち尽くした。ジャンヌは何を思ったか知らないが背中の傷を見せぬようにと振り返ったのだ。当然ながら今の彼女は全裸なので、ソフィアには全てが見えてしまっている。
「こ、これは違う!わたしは身体を洗ってただけで!!」
何がどう違うのかソフィアには分からなかった。
「その前に前をかくしてくださいい!!わたしは何も見てませんから!!」
ソフィアは自身の顔を両手で隠しながら告げた。何も見ていないと首を振りながら。嘘だ、実際には何もかも見てしまったし、忘れることなど到底できないだろう。
「っーーー!!」
ソフィアには、両手で視線が妨げられていてもはっきりと分かった。ジャンヌが顔を真っ赤にして服を着ようとしているのが。
「ご飯の用意が出来たので、よろしくお願いしますーー!!」
此処に来た理由をさりげなく告げれば踵を返して逃げかえるようにジャンヌのいる小川に背を向けて駆け出した。
帰り道など覚えていなかったし、冷静でなかった為に思い出すことも出来なかった筈だが、ソフィアは迷うことなくイノシシのスープの元までたどり着いた。
既に他の5人は食事をしており、駆け戻ったソフィアを見て驚きながらも小皿に分けたスープを手渡して来た。ソフィアは高鳴る鼓動を抑え込みながら木の根元に腰を下ろし、イノシシの肉を指で突いた。硬いし赤黒い…。ジャンヌの肉はもっとたっぷりと脂がのっていて…白くて柔らかそうだったのだが…。そんな事を考える自分に気付き、頬はまた高揚し、鼓動が速まれば、大きな溜息が漏れた。
そんなソフィアを見た全員が思った。「触らぬ神に祟りなし。きっと、こっぴどくあしらわれたに違いない」と。再び、ソフィアは溜息を漏らした。




