蛇と狩人
アリアドネは、この『王の庭』が好きになれなかった。城から見下ろす『王の庭』に、燃えるような朝日が昇るあの瞬間、アリアドネは自身の中から沸き上がる何かを抑えきれなくなりそうだった。左半面に傷みが走る。燃えるような朝日に照らされた顔を隠す様に顔の半分を手で覆い隠した。
炎は苦手だが、同時に求めていた。この顔が赤い火に覆われた時に感じた、肌が焼ける痛みと高揚感、生命の脈動と生きている幸福感、強い使命感…。彼女にとって炎は自身の意思の象徴だった、無くてはならない存在だった。
「王妃様、使いの者が今すぐに会いたいと…」
突然、扉の向こうから声がする。しゃがれた声。彼女の医者であり、幼い頃からの家庭教師であるソロスだろう。
さてと、アリアドネは一度、咳払いをして応答する。彼女の一日が始まる。王妃としての役に徹しなくてはならない。
「コホン、こんな朝からどうしたの?」
「王は、狩りに出かけております。緊急との事なので、王妃様のお耳に」
「分かったわ、すぐに行きます」
なんとなく予想は出来たが、アリアドネは手ごろなローブを身に纏い、不在の王の代わりに謁見の間へ出向くことになった。夫のグインは王になってからと言うもの、毎日狩りに精を出している。彼が護衛隊長だった時は真面目な人だったのだが…。誰しも王になってしまえば堕落する。前の夫であった故エリクは本当に稀な存在であった。それ故に御しがたい。グインは…簡単に制御できる、それに彼自身、アリアドネに精神的に去勢されていることになど気付いては居なかった。
アリアドネは、クスリと微笑を漏らし、飲みかけの紅茶を一口頬張れば、その使者に会うべく部屋を後にした。
王グインが嫁であるアリアドネにその事を聞かされた時には、日は沈みかけていた。
彼は、二羽の鷹を子供のように掲げては、自身の狩りの腕前を披露する飼い猫のようにアリアドネに話を聞かせる。そんな何も知らない彼を嘲笑う様にアリアドネは話を断ち切った。
「貴方が派遣した兵、2万5,000の兵は要塞に向かう途中の森で壊滅したそうです」
「はははっ、何を冗談を…」
アリアの冗談は時に理解できないことがあったが、今回の事は彼女の表情から察するに冗談ではないことがグインにも分かった。
「何故だ、北部のボニファティウスにやられたのか?」
「現状から察すると、彼にしてやられたと採るのが妥当かと」
「バカな、あり得ん!あのくそジジイめ、何故、我々の考えが読める。今回の事は腑に落ちん、どう考えても裏切り者がジジイに情報を流してるとしか思えない、絶対にあぶり出して捕まえてやる」
「蛇をご存じ?その習性も?」
激昂する彼に投げかけられた問いかけと状況が余りに一致しないので、グインは呆気にとられる。
「蛇は、暗闇から獲物を狙う。すぐには動かずに、ゆっくりと…ゆっくりと忍び寄り、獲物の息の根を止める。あなたが行う狩りとは全くの別物です。そんな辛抱強い蛇を、どうやって仕留めますか?」
アリアドネは、グインに問いかける。淡々と放たれる言葉は感情など籠っていないかのように静かで、澄んでいていて、一定のリズムで発音される吐息に聞き惚れてしまいそうになる。
彼女の紅茶で潤った唇は宝石のように輝いていた。
「それは、王としてのわたしに対する問いか?それとも、狩人としてのわたしにか?」
「……両方です」
「うむ、そうだな…。蛇の目の前にわざと獲物を差し出してはどうか?餌に釣られて出てきたところを殺す。この剣で首を跳ねてやる」
「半分正解…、それでも半分は…」
グインは苛立ちを覚えた。普段から、彼女謎かけは難解な部分が多々ある。全てを知りつくしたような眼差しで相手をみる時の目の動きはゆるりとしていて、何故か、その目の動きを追ってしまうのだ。
「して、正解は?」
グインはこれ以上苛立ちを抑える自信が無かった。一刻も早く、彼女の正解が聞きたかった。でなければ、この状況、打開策も見つからない。民に責められるのは、その蛇(裏切り者)でもなければ、2万以上の兵と共に消えた将軍でもなく、この状況になることを進言出来なかった議会員でもなく、十中八九で王であるグイン自身なのだから。
アリアは焦らす様に紅茶を口に含み、身を乗り出す程に顔を近づけるグインを上目使いに見上げた。
「蛇の巣に入って、蛇を根絶やしにすること」
その答えを聞けば、グインは身じろいだ。つまりは、王宮の全ての者を殺すということか?そんなこと出来る訳がない。
そんなグインをアリアは満足そうに眺めた後、いつも通り笑顔を向けた。顔の半分は引き攣って、上手く笑顔は作れていないが、欠陥な笑顔だからこそ、彼女の笑顔はこの世界の誰よりも美しかった。




