記憶の雪
翌朝、ソフィアはブラッドメイヤーの騒がしい鳴き声と共に目が覚めた。
疲れが残っているせいか、身体が重い。ソフィアは、騒がしい朝を億劫と感じながら、目を開く。
ジャンヌが寝ている。彼女の長いまつげが揺れて、瞼が微かに動いている。嫌な夢でも見ているのだろうか、以前の私のように涙を零すのだろうか…。ソフィアは手が届きそうな程の距離にいる彼女の頬に手を伸ばした。
柔らかい感触が伝わる…、ぬくもりと艶やかな肌。濡れる唇…。なんて無防備なんだろう、彼女のこんな姿を見るのは初めてだった。安らかな吐息が聞こえる…耳を澄ませて…。
どうしても、犬の鳴き声が気になった。朝から騒がしすぎる…。ソフィアは身体を起こしてベッドからゆっくりと立ち上がる。冷たい風が肌を撫でた。
外に出れば、ブラッドメイヤーが頭に雪を積もらせながら吠えていた。視線の先には酒場と、リアナ。
リアナはソフィアに気付けば「おはよう」と無邪気な笑顔と共に手をひらひらと振った。ソフィアも手を振り返し微笑む。
正直、ソフィアはリアナが苦手だった。彼女は飄々として無邪気な人懐っこい笑顔を見せる半面、どこか威圧的な人を寄せ付けない目をしていた。じっと見つめられれば目をそらしたくなる…。
「何をそんなに興奮してるの?」リアナから視線を外せば、ブラッドメイヤーの前にしゃがむ。頭に積もった雪を優しく払い除けてやり、問いかける。
返事が返ってくることは無い、当たり前だ。
「北部の血に反応しますのよ?」
振り返れば、リアナがすぐ後ろに来ていた。
「北部の…血?」
「そう、この犬は狩猟犬ですの。北部人の血を嗅ぎ分けて…、追い詰める…。そして、相手の首に牙を立てて息の根を止める。そういう風に育てられてます。優秀なハンターですわ」
牙をむき出してリアナを見上げるブラッドメイヤー。リアナはその今にも噛み付こうとする犬に手を伸ばした。そして優しく頭を撫でる。ブラッドメイヤーはどこか安心したように小さく呻くと、そのまま普段のように心地良さそで頭を傾ける。
「リアナさんは北部出身でしょ?」
「ええ、それでブラッドメイヤーに吠えられてると?」
ソフィアは分からないと肩を揺らした。ブラッドメイヤーはリアナに吠えたことなどなかったから。
「まあ、犬が私に吠えているのは確実ですし、世の中には知らないほうが良いことが多々ありますのよ?」
ソフィアは、また分からないと肩をすくめる。
「何かを知るというのは…今までの世界が終るということ…元には戻らない、絶対に。多分、この旅から帰った時には…貴女の見てきた、今までの世界が如何にハリボテだったのか理解する筈ですわ」
正直、リアナの言っている事が何一つ釈然としなかった。彼女の焦らす様な、漠然とした言葉選びにソフィアは困惑してしまう。そんなソフィアを見て、クスリと笑みを漏らしたリアナは立ち上がり、ソフィアの肩に軽く手を添える。
「あまり、外にいると風邪を引きますわよ?部屋に戻りましょう」
ソフィアは頷き、もやもやとした感情を抱えたまま、頷いて部屋に向かった。
部屋に戻ればジャンヌが窓から景色を眺めていた。
ソフィアもジャンヌに歩み寄り、窓に視線を向ける。何処までも続く白い大地が青白い空と交わる。
憂鬱とした表情で、ジャンヌは窓に額を当てるように頭を傾けた。ジャンヌの濡れた唇から吐息が漏れ、窓に白い跡を残す。
「ときどき、考える…。私は何故、騎士なのか」
「ジャンヌは良い騎士だよ、私が保証する」
「そうか、ありがとう」
「どう致しまして」
短い会話、ジャンヌの考えが分からない。彼女の鬱とした横顔を覗く様にソフィアは視線を小刻みに送る。
「白いな…」
ジャンヌが呟いた。ソフィアも窓の外の景色に視線を向ける。白い…。
「父が、言っていた…北部には、騎士道も倫理観も存在しない。あるのは、血と暴力だ。誰もが生きるために他者を食い物にしているとな…。でも、こんなにも美しい。そう思ってしまう、血で染まった筈の大地も無かったように雪に埋もれて、ただ、元のように白い」
ジャンヌは自身の心の事を話しているのか、ソフィアはそう感じた。何もかも記憶と言う雪に埋もれて、忘れていけるなら…どんなに楽だろうか。血で染まった手も、日々、壊れそうになる信念も、忘れたい記憶も、雪に埋もれて白く、何処までも白く、塗りつぶして欲しい。
「戻ったら…そなたに、見せたい場所があるんだ」
ジャンヌの視線がソフィアに向く。青い瞳に吸い込まれそうになる。そして瞳の奥深くに強い決意のようなものを感じた。
ソフィアは頷く…。彼女はいつも正直で、真っすぐで、強くて…ソフィアはいつも思う。彼女のように強ければ、いつかあの日から抜け出せるんじゃないだろうかと…。だから私は着いてきた、彼女と共に旅をすることに間違いなんてあるわけないと…心からそう確信した。
次は要塞ケルンだ。敵と出くわすかもしれないし、武器の手入れは忘れずに…ソフィアはそう自分に言い聞かせながら背中に弓を背負った。出来れば使いたくないけど、どうしても必要な場面はあるだろう。その時になって、弓が引けなくならないように心の準備は済ませてある。
仲間とジャンヌの為なら、私は躊躇なく敵を貫いて見せる。ソフィアは強く強く心に刻みつけた。




