完璧な騎士
シルヴィアは深く溜息を付いた。一日中、患者の容態に気を使う彼女にとって昼の此の時間は貴重なものだ。窓辺から覗く新緑の枝葉、それらは春の風を受けて静かにそよいだ。遠くからはホルンの微かな音色が聞こえる。あれから三度目の春だ。それでも毎年目新しい色を芽吹かせる此の季節の此の場所は、シルヴィアの心の支えである。
湯気立つコーヒーに唇を触れさせる。まだ熱い液体に上唇がぴりぴりと染みるが、香ばしい香りが鼻孔を擽り、その痛みすら病みつきになる。勿論、進んで痛がる必要性はない訳だが。
ただ、感傷的に窓辺を眺めるシルヴィアの診療所の扉が叩かれる。
「シルヴィアさんにお手紙です」
白い服に身を纏った小奇麗な青年がシルヴィアに手紙を差し出す。宛先人は不明。
有り難う。シルヴィアはコーヒーの入った容器を片手にそれを受け取る。青年は頭を下げて次の場所に駆けて行った。
シルヴィアは頭を傾げたまま手紙を読もうと容器を机の上に置く。綺麗に着飾れた手紙、商会からの印しはなく、個人からの物だろう。
開けた手紙、綺麗に羅列された言葉…。コーヒーの香りに混ざった微かな柑橘系の…ベルガモットの手紙。シルヴィアはその手紙を読みながら零れだす微笑を止める事ができなかった――――
一面の小麦畑に春の風が吹いた。黄金色の海に並のような波紋が流れ、ジャンヌとソフィアの身体を撫でる。
「小麦…強力粉…砂糖…塩……」
ジャンヌは機械的に言葉を並べる。こうでもしないと頭に入ってこない。小麦の香りがほんのり…パンの香ばしい香りの中を彷徨っている。
「発酵したパン一欠けらも残しておくといいよ?焼く前に入れるとふんわりするの」
「何故だ?」
「さあ?」
ソフィアはクスリと微笑を零した。いつの間にか春の風は緩まっている。
「嗚呼…私にはパンを生み出す才能がないかもしれない」
「そんなことないよ。私だって、初めのうちは失敗ばかりだったもん。誰しも初めてを持っている物でしょう?」
「確かに」
ジャンヌは再び言葉を並べる。まるで魔法でも唱えているように何度も言葉を並べる。
ソフィアは瞳を閉じた。自身の瞳は此の黄金色の海の色を認識することが出来ない。香りも分からなければ、春の風が運ぶ味も感じ取ることが出来ない。それでも、瞼を伏せると何故か……はっきりと思い出すことが出来るのだ。ジャンヌと出会って…此の場所から足を踏み出した後…、もう完全に忘れたと思っていたのに、此の場所の風景は、感覚は、ソフィアの体の何処かにある心の一端に大切な記憶として刻まれていた。
「ねえ…ジャンヌ」
「うん?」
呆気に取られた表情を浮かべるジャンヌの首に腕を絡めて抱きついた。微かな温もり…大好きな人の香り。甘い甘いベルガモットの香りが鼻孔に届いてくるような気がする。
ソフィアは自身の後方へと体重を掛けた。ジャンヌがその意図を察して緩く微笑む。小麦色の海に倒れる二人。背の高い小麦が二人の姿を隠してしまうも、風一つ吹かず、小波一つ立たない海の一角に微かに揺らぐ波…。そこから、二人の爽やかな笑い声が春の空へと流れていった……。




