血と鼠
二人の眼前で争う人影。影…揺らぐ影。
ジャンヌは立ち上がった。吐き出す吐息は凍て付いて、凍った白色をしている。呼吸を零すたびに胸は痛み、体の感覚は薄れている。それでも……それでも身体は動いている。死にそうなほど辛いのに、自身も限界が近いことを感じているのに、身体はまだ思うように動いて、ソフィアの愛しい身体を抱き上げて、兵士達が剣を交える音と怒号に怯える馬へと身体を浮かせる。
何故だろう、まだ行けると感じるのは……。
ジャンヌは怯える馬の首筋を優しく撫でた、凍りついた毛の一本一本を撫で梳かすように。そして、馬の腹部を軽く足で叩き、駆ける様に促した。
「あの女を逃がすなよ、お前とお前、俺と一緒に来い」
馬で駆け出したジャンヌとソフィアの姿を横目に捉えたスリントは声を張り上げて、護衛の二人を呼びつけた。彼らもまた馬に跨り、ジャンヌの後を追った。
ブナの太い幹が流れる。その狭い木々の河を、ジャンヌの馬は清流の如く駆け抜けた。凍て付いた氷の森を駆け、白い平野の小さな丘を跳ぶ様に走り抜ける。
背後には三つの黒い影が迫っている。鍛えられ引き締まった足を振り上げて、黒い影はジャンヌ達に迫ってくる。
フードの下で悶えるソフィアへと暗殺者の一人が手を伸ばす。ジャンヌはその仕草を後目に受け止めながら馬を蛇行させて避ける。暗殺者は崩れるバランスを保とうと再び手綱へと両手を戻す。
ジャンヌの素肌に冷たい影が突き刺さる。狭い木々の隙間を無理矢理駆け抜けた為か、枯れ木の枝に額を切られて瞼の上に赤い雫が滴り始めた。ジャンヌは何度も視界を赤く染める血を腕で拭いながら馬を走らせる。背後に迫る彼らが諦める素振りは微塵もない。かと言って、剣で戦うほどの体力もなければ、そんなに簡単に切り伏せられる相手でないことも分かっていた。
「鬼ごっこも此処までだ」
暗殺者に気を取られて気付かなかったが、スリントは回り込み、ジャンヌが走らせる馬の片足を剣で切り上げた。馬は悲痛な悲鳴を響かせて雪の大地に抱かれるように体躯を寝かせた。
ジャンヌとソフィアは宙へと投げ出され、粉雪のなか倒れこむ。
「手間取らせおって、まさか、あの女と対峙して生きているとは。どうやって逃げ延びたかは知らないが、さっさとアレの場所を教えろ。アレは俺のものだ。昔からな」
スリントはジャンヌの前で腰を屈める。暗殺者の一人がジャンヌを押さえ込んだ。
「ふふ、何を知りたいかは分かったが…もう存在しない物の場所を教えることは出来ぬな」
ジャンヌは、視界が緩む中、笑みを零しながら応答する。
「ははっ、面白い冗談だ。貴様ら如きがアレを壊せると思わんさ。アレは俺達の最高傑作で、何よりも俺がアレのことは一番良く分かっている」
「少し遅すぎたな」
「そうか、無口なやつは好きだが、剛情なやつは好かん……。おい、こいつを其処の樹に押さえつけろ」
スリントは暗殺者にそう命じると自身の馬のほうへと行き。一つの小さな袋と木の桶を用意した。
「ふう……先に言っておくが、さっさと本当のことを言ったほうが身のためだぞ?」
「そなたと話すことなど…もうない」
「なら、お前にもう用はない」
スリントは冷酷な笑みを浮かべた後に、袋の中から生きたネズミを一匹、桶の中へと入れ、その桶をジャンヌの腹部へと押し付けた。
「ネズミは穴掘りが得意だ。働き者で声も可愛らしい。そして何よりも臆病だ。こうしてこちら側から火で炙ってやると、ネズミは必死に逃げる場所を探す。おー、気付いたか?ネズミはお前の腹の皮膚を裂き、肉と内臓を喰らいながらどんどん掘り進む。どんどん…。簡単に死ねると思うなよ?お前は、俺の息子を見殺しにしたんだからな」
「フレイムが生き残れなかったのは、私のせいだが。それにしても、少し過保護だぞ?」
「ははっ、面白い。俺の研究成果も奪いやがって…、殺す理由には十分だろ?おい、火を渡せ」
手の開いた暗殺者の一人がスリントに火の灯った松明を渡す。
ジャンヌに抵抗する力は残っていなかったが、出来る限り抵抗する意思は見せた。身体を大きく揺らして暴れて見せ、自身の身体を抑え付ける暗殺者の手に噛み付いたりもした。出来る限りの抵抗は見せたが、結果としてネズミを怯えさせるばかりで更に恐怖を加速させるだけになった。
炙られるネズミは桶の中で甲高い声を漏らす。ジャンヌの腹部近くでネズミが暴れているのが分かる。小汚い体毛がジャンヌの肌に触れるたびに、びくりと身体を震わせて何れ来る激痛と恐怖に耐える。
「安心しろ。あの小娘は殺さない。見たところ知人と同じ様子だし、まだ使い道があるだろう。お前と違ってな?」
小娘がソフィアであると察したジャンヌは怒りに目を光らせた。身体を先ほどより大きく揺らして、相手に怒りをぶつける。
「ははっ、自分のこと以上に怒るじゃないか。面白い。あの小娘がそんなに大事か?」
スリントは満足そうな笑みを浮かべる刹那。ジャンヌを抑え付けていた暗殺者が血を流して地面に付した。暗殺者の血が白い大地を染めていく光景にジャンヌとスリントは唖然と見ている。
「何だ?」
スリントが立ち上がると、彼の背中を剣が貫き、ジャンヌの目の前まで血を蝕む切っ先が伸びてきた――――




