無垢な悪意
ソフィアは矢を弓に番えた。矢先にはジャンヌから渡された緑色の宝石を結わえ付ける。この矢をアリアドネの胸へと目掛けて射ち込む…。それがジャンヌから受けた指示だった。
城壁の上から見下ろす。一面のラベンダーが大地の絨毯となり、この大樹の根に満たされた無機質な城に生命を与えたように蒼々と輝いている。
アリアドネが手を翳すと城は息を吹き返したように揺れ動く。抱き締めるように巻かれた大樹の根が、その抱擁を解き、荒々しくジャンヌへと目掛けて伸びていく。大樹が大地を薙ぎ払う。空気が揺れて、花びらが舞う…。その中心を駆けて行くのはジャンヌ。金色の絹のようなか細い髪を靡かせ、その一本に舞い散るラベンダーの花びらが触れる。ソフィアは、まるで小奇麗な演劇を見ている客の気分になった。それほどまでに現実だと受け止めるのは、豪快すぎたし、逆に繊細過ぎたりもする。
ジャンヌが薙ぎ払う根を避けながらアリアドネへと距離を詰めていく。その腕を振り上げてアリアドネに斬撃を与える刹那に、地面から無数の根が突き出してソフィアの視界を奪った。敷き詰められたラベンダーは月光に照らされた大地に舞い散り、その一枚一枚から瑞々しい水滴が零れ、空はラベンダーの色と香りと、その涙のような雫に覆われた――。
ジャンヌは一瞬、何が起きたのか分からなかった。地面から突き出した根が自身の手足を絡め取り、引き千切らんとするように強く締め上げるのだ。視界は無数の根。湿った土のニオイに混ざるのは自身の血の香り。
「私に触れようとするなんて…、アイツが許す筈がないでしょ?お馬鹿さん」
アリアドネは真っ直ぐとジャンヌへと歩みを進める。それを避けるように根が地面へと消え、時にはその体躯を傾ける。
「それに、あっちの世界を滅茶苦茶にした貴女に、私もアイツも遺憾。貴女には分からないでしょうね。何万人の苦痛や絶望を背負う辛さが……いいえ、誰にも分からないわ。一日中、響く叫び声……爛れた顔、焼けた声…痛み、憎しみ、悲しみ…何万の顔…。積み上げられた骨…。私はもう耐えられない…私自身を私から引き剥がしても耐えられない。もう、終わりよ。貴女が永遠の森とこの世界とを結ぶ門となれば…全ては終わるの、全てが安らぎに変わり、私は解放される…この苦痛から!この世界が浄化されれば、一切の絶望も無くなるわ」
アリアドネは笑みが混じった声を滲ませる。嬉しそう?悲しそう?ジャンヌはその真意を汲み取ることは出来ない。
「一体、誰にそんな権利がある?……私にも、そなたにも、そんな権利など持ち合わせていない。光ある人々の未来を破壊する権利なんて……そんな物…、あってはいけないんだ、アリア」
「私をその名で呼ぶな!どうせ、人間共は争いによって滅びる。共食いなんて、知性のない獣のすることだわ。貴女なら理解出来るはずよ……ほら、深く、息を吸い込んで…。貴女は今、永遠の森に居る。目を閉じて、安らぎを感じて…ほら、深く…深く息を吸い込んで…」
アリアドネは歌うように言葉を継げる。片手には鋭い根の刃を握っている。
「私の安らぎは此処にある。あっちの世界には存在しないものだ。そなたが捨てて、拒否している物だ」
アリアドネは落胆と疲労の溜息を零した。
「それは…残念だわ。お馬鹿さん」
彼女はジャンヌの太腿に根の刃を突き刺した。
苦痛の声が漏れた。生暖かい血が足を流れて、大地に染みこむ。
「私を見て、しっかり息をするの。貴女の痛みが私の中に流れて、染み込んで…私はとてつもなく痛いのに…。私はそんな貴女を共有して心地良いわ。あら、あばら骨も何本か折れてるのね…アイツは手加減が出来ないから…私はまだ可愛いいものよ?」
アリアドネは、嬉しそうにジャンヌの横腹を摩る。まるで無邪気な子供のように無垢な笑顔を零している。
「血に塗れたナイフよ。赤く染まった私の手は…世界の涙の豪雨ですら洗い流せないわ。私のナイフは…貴女の一番深い部分に刺さるの…ゆっくりと…貴女に死と安らぎを与える。愛のナイフよ」
アリアドネは、もう一本のナイフをジャンヌのわき腹に突き刺した。
「まだ、死ねない…。人間は時に繊細で脆く、時に頑丈なの物なのよ?だから、私が此のナイフを少し傾けて…数センチ刺し込むだけで…貴女は永遠の安らぎを得るの。でも、ゆっくりじゃないと駄目なの。だって、本当に直ぐに逝っちゃうんだもの。そんなの楽しくないじゃない」
血の吐息が漏れる。ジャンヌは深く息を吸い込む。痛みで声が濁るも、静かにゆっくりと言葉を紡いだ。
「クッ――、ふふ…アリア…そなたの愛には応えられそうに…ないな…。重くて…それでいて…遅過ぎだ…」
怪訝そうに眉をしかめたアリアドネの胸に、ソフィアの矢が突き刺さった――――




