エバーグリーン
「嗚呼…ようやく、私の苦痛も終わりを迎える。もう、疲れた…もう終わりたい。目を閉じれば浮かんでくるの…何万という人の顔が…叫び声が、消えてくれない。いつから?重要なのはそこじゃない…いつ終わるかよ。いつ終わるの?もうすぐよ。もうすぐ終わる。私が消えて…森が消える」
アリアドネの後姿がジャンヌの眼前に映る。もう既に彼女の感情など消えてしまっているかと思っていたが…目の前の女性は、間違いなく一人の人間で、一人の女だった。ジャンヌは彼女の華奢な背中に手を伸ばす。
此れは過去の残像。彼女の嘆き。全ての被験者達の絶望と憎悪を背負ってしまった傷だらけの背中。終わりを求める孤独な背中…。かつての自身のようだ。背負った重みは違う物の、死を求めて嘆く彼女の背中は自暴自棄にあった自身の物だ。彼女の背中にジャンヌの指先が触れる刹那、背後から声が響いた。
「私の物に手を出すなっ」
驚き振り返ったジャンヌへと歩み寄る、漆黒の影。《愛》とはまた違う荒々しさ。歪み、闇の中の漆黒そのものだった。
「私に触れるなっ、私の記憶を探るな。愚かな人間。愚かな女っ」
漆黒の影はジャンヌの首を掴み上げると、荒々しい呼吸を吐き出した。沸き立つ湯気のように零れる吐息、影の手は燃えるように熱かった。
ジャンヌは、影の腕を剣で切りつける。血も噴出さず、傷口すら着かなかったが、影は腕を引っ込め、ジャンヌを地面へと振り落とした。
「けほっ、こほっ……はあ、はあ」
ジャンヌから声にならない吐息が零れ落ちる。
「この場所で好き勝手出来るとは…お前は何者だ、人間」
ジャンヌは答えない、最早、話し合いなど不要だと分かっている。
「まあいい、貴様は此処で死ね。いや、此処で死ぬ」
漆黒の影が一歩後退した。同時に地面が唸った。赤い土が膨らみ、輪郭を帯びていく。
それらは死体だった。腐臭を振りまきながら朽ち落ちた肉や骨を引き摺りながらジャンヌへと迫る。手には銀色の剣を握り、焼けた腕とは違う、美しい光沢を放っている。
「アツイ…モエル、コノ世界は、クルシイ」
死体は空気が漏れ出すような弱い呟きを零した。
「シヌ…キエロ、シネ」
死体の一個がジャンヌに剣を振り下ろした、ジャンヌはその斬撃を受け流し、死体の頭を切り落とした。死体は足から力なく崩れ落ち地面へと消えたが、すぐに元通りに輪郭を戻して起き上がった。
死体は背後から、左右から、前方から迫り距離を詰めた。
此処から抜け出す方法は…間違いなく、アリアドネが握っている。ジャンヌは駆けた。死臭を放つ美しい地面を蹴り上げて、アリアドネの背中へと駆けていく。死体の間を縫うように滑り抜け、アリアドネへと駆け寄る。後、数メートルと迫った時に、彼女の横腹に衝撃が走った。肋骨の砕けるような音、痛み…馬鹿げた痛み。ジャンヌは、地面を転がり衝撃に身を護るように背中を丸めて腕で頭を抱えた。
「私に触れるな、人間」
ジャンヌの横腹に蹴りを入れたのは漆黒の影だった。
嗚咽しか聞こえてこない…私の嗚咽だ。痛みに呻く声だ。地面に血が滲む。腹部が悲惨なことになっていそうだったが…怖くて目を落せなかった。体の半身は既に感覚が薄れていた。
ジャンヌは片足を引き摺りながら立ち上がった。
「あと少しで、私の苦痛が消えるのだ。邪魔をするな、人間。貴様らの世界が消える。憎しみは消える。それが私の世界の悲願だ」
「もはや、善と悪との区別も付かないだろう。そなたは愛を失った」
ジャンヌはしゃがれた声を痛む腹から絞り出した。自身の声とは思えなかった。
「目を開いて見ろ。この出来損ないの神」
ジャンヌは、アリアドネの背中へと足を進めた。漆黒の影は苛立ちに強く地面を踏み付けながらジャンヌへと突進する。
ジャンヌは影へと一瞥を向けたが、そのまま歩みを止めることは無い。
影が剣を振り上げた、ジャンヌの身体を一刀しゆる強力な一撃だったが、その剣が振り下ろされることは無かった。剣を振り上げて固まる影、それを受け止めるもう一つの影。
「目を開け…さあ、目覚める時だ」
《愛》はジャンヌへと告げる。ジャンヌはアリアドネに手を伸ばした。死体の剣がジャンヌの太腿を、肩を貫いた…。ジャンヌは手を伸ばす。
彼女の華奢な肩に手が触れた。彼女はハッとしたように振り返る。天使のような笑みを浮かべて、手を差し出す。
「さあ、起きて?これが世界よ?受け取って?これが私よ」
アリアドネは笑みを零した。紅葉した頬に涙の雫が伝った。
「止めろ!彼女は耐えられない。私は耐えられない!やめろおおお」
漆黒の影が叫んだ。
ジャンヌは差し出された宝石を受け取った。蒼い、蒼い、永遠の緑…。エメラルドの輝きだった――――




