氷と炎2
聖女が落ちるのはギリリアンの王城内。それ故、聖女を受け入れるのはギリリアン本部の仕事となった。そして神託を聞いた自分が聖女を迎えに行くよう命じられた。国との交渉は上層部が請け負う。自分がやる事は、聖女を口説き落とす事。面倒な仕事を押し付けられたものだ。
ギリリアンは、師匠に拾われたあの場所とは違って孤児の少ない国。王が有能らしい。だが有能な王は、甘い人間だと思った。
言葉もわからない落ち人の娘。彼女の能力を聞いた王は引き渡しを拒否したのだ。命を削る力。言葉もわからず、知らぬ場所に落ちた娘に負わせるには重たい運命だと王は告げた。
上層部が王と交渉する間自分は、聖女の側での待機を命じられた。その間に聖女を落とせという指令付き。どうやら王弟の二人も王から似たような命令をされたようで、聖女の側には三人の男が侍り、牽制し合った。なんて面倒な仕事だ。他人へ優しくするやり方などわからない。だから、師匠を真似る事にしてみた。そうして状況が変わらぬまま月日は過ぎた。
遅々として進まない話し合い。一つ決まったのは、賢者と呼ばれる男に頼み、聖女がギリリアンの言葉を理解出来るようにしてもらう事だった。賢者とギリリアンの王が幼馴染だというのは有名な話。その為に上層部は賢者の介入を嫌がったが結局、何にも進まない現状を打破する為に頷いたようだ。
「死にはしない」
だから騒ぐなよと暗に告げた賢者は聖女の額に触れ、術を使った。脳を弄る術。力加減を間違えば、頭が破裂する。危険で複雑なその術は、賢者と呼ばれる彼にしか使えない物。
「我々の言葉がわかりますか?」
賢者が術を掛けた直後に倒れた聖女は半日眠り、目が覚めた彼女にフィオン殿下が話し掛ける。
「わかります」
元々大きな目を更に大きくした聖女は頷き、ほっとしたように笑った。
*
結果として、賢者の介入は神殿側に不利に働いた。でしゃばりな、賢者の弟子である女が聖女の庇護を賢者に頼んだ所為だ。元々面倒だった仕事がより面倒になった。
「レアンディールには、ギリリアンのように平和ではない国も多くあります。満足に食事をとれずに死ぬ者、病にかかっても治療を受けられない者――」
何故自分は城の中で、聖女相手にこのような事をしているのだと何度も思った。レアンディールの事を教え、貴女の力が必要なのだと幾度となく語り掛けた。だが聖女にはピンときていない様子。きっと彼女がいた世界は温かく幸せだったのだろう。
「イグネイシャスなんて大っ嫌いっ」
何度目かもわからない。聖女の持つ力でどれ程の人間が救えるのかと語り掛けていたら泣かれてしまった。時間が経てば経つほど、語り掛ければ語り掛けるほどにこんな事は増えている。私だって貴女なんて大嫌いだ。そう言って投げ出してしまえたらどんなに楽だろう。でもそれは出来ない。これは、仕事だ。
「リリスは、我慢して飲み込んでしまう優しい子です。だからどうか神官様、この子の心を置き去りにしないで下さい」
でしゃばり女に窘められた。その言葉に、鼻で笑いたい気分になった。守られている人間の心を更に守って、守られていない人間は、心なんて育まれる前に死んで行く。
「神官様、シンファの蜜はお好きですか? 安らぎの魔法を掛けてあるので心が落ち着きます」
そう言って押し付けられたのは、まろやかな甘さがある飲み物。不思議と温もりが体に染みた。
*
柔らかな草の上で仰向けになり、頬を撫でる風を感じながら目を閉じた。やってしまった。気付いたら言葉は溢れ出していた。押し込めていた本音を言葉の刃にして、聖女へと突き刺してしまった。
『覚えているのは、痛み、悲しみ、孤独……。人の温もりは、師匠が教えてくれた』
でしゃばり女の言葉の所為だ。記憶を失くして賢者様に拾われ弟子になったらしき彼女。彼女はもしかしたら、自分と同じではないのかと感じた。己の過去を思い出したら余計に聖女の事が腹立たしく思え、言葉は止まらなかった。お前が出来ないのならその力を寄越せ。ただの小娘が持っていても無意味な力。代わりに使えたならどんなに素晴らしいだろう。ゴミのような死でないならば受け入れる。あの寒い世界から誰かを掬い上げて死ぬのなら、怖くはないと思った。
「…………何故ここに?」
人の気配に目を開けると、でしゃばり女がこちらを嫌そうに見て立っていた。短く言葉を交わしてから温室へ入って行く女の背を見送る。見送ってから、腹の中のもやもやした感情に苛立つ。そもそもが全てあの女の所為。もし自分の仮定通りの過去を女が持っているのだとして、聖女に優しく出来るのは何故なのかが気になった。言葉を交わしてみたいと思った。だから、追いかけた。彼女への嫌がらせと己の鬱憤を晴らす目的で賢者の弟子を無理矢理連れ出し、街の酒場で酒を飲む。あわよくば賢者の金で酒を奢らせようと考えていたのだが、彼女は金を持っていなかった。なんて使えない女だ。
「…………記憶は曖昧ですが……そうですね。捨てられたのだと思います」
ある程度酒が入った所で発した、親に捨てられたのかという問い。答えた彼女は睫毛を伏せ、自嘲気味に言葉を落とした。
「……ち」
思わず手が伸びる。だがすぐに握り込み、引っ込めた。
「チカ」
賢者が彼女を迎えに現れたのだ。己の使い魔を常に張り付け、彼女自身にも居場所を把握する為の術を掛けている賢者。異様な執着の仕方は興味深い。賢者と弟子の背を見送り、酒を煽った。彼女がいた席に目を向け考える。チカは使える。そう、思った。
***
思惑通りに事は運び、賢者の弟子に薬師として協力を得られるようになった。想定外だったのは、己が彼女に落ちた事。
「こんにちは、イグ」
穏やかに微笑む彼女に寄り添うのは賢者と呼ばれる男。彼女の首元には、彼女が他人のものである証の青い石。
「こんにちは、チカ。賢者様も」
手に付いた土を払い、立ち上がる。賢者は会う度にこちらを睨んで警戒してくるが、気にしない事にした。たまにからかって遊ぶとチカに怒られる。怒った彼女も、可愛らしい。
「薬草の世話、ありがとう」
「いえ。ここにもあった方が便利ですからね」
薬草を世話する時間は、彼女を想う時間。
「では賢者様、チカをお借りします」
森の家からチカをここまで送って来る彼は、他国を回るチカの仕事には付き添えない。誓いに縛られている賢者様。彼が安易に国境を越える事は出来ないのだ。それをしてしまえば戦争の引き金にもなり兼ねない。無駄に他国の王族連中を怯えさせる事態になる。彼が国境を越える為には秘密裏にか、正式で面倒な手続きを踏む必要がある。一度チカの挨拶回りに同行していたようだが、あの時は手続きを踏まずにこっそりとだった。
「……チカを、頼む」
「お任せ下さい」
転移する間だけ触れる事が許される、彼女の手。転移が終わればすぐに放さなければいけない。彼女の心が誰に向いていようと、決して己の手に入らない存在なのだろうと自分は、彼女を想い続ける。
「イグの髪が長いのは、理由があるの?」
屈んだ時に邪魔で払った髪を見て、チカが呟いた。焦げ茶の瞳はじっとこちらを見ている。
「なんとなく、命の欠片のような気がして……切るのが恐ろしいだけです」
人に話せば笑われるだろう理由。師匠にしか告げた事はない。だがチカは笑わないだろうと思った。
「そう。……綺麗な髪。羨ましい」
ゆるりと笑んで、彼女は受け入れる。
「チカの髪も綺麗ですよ」
「ありがとう」
手を伸ばし、髪の一房でも良い、口付けたい。だがそれをしてしまえば彼女は自分の前からいなくなる。姿さえ、見せてくれなくなるのだろう。友人としてならば彼女に会える。声が聞ける。笑い掛けて貰える。愛してる。喉元まで出かかる言葉を飲み込んで、ただ、側に。
貴女の笑顔を見守る事が己の、幸福なのだ。
「イグネイシャス。やっぱり、お前にぴったりの名だったな」
チカは賢者様と共に二人の家へ帰った。仕事終わりの執務室で、師匠に誘われ酒を飲む。最近は、チカが来る日には誰かしらに飲みに誘われる。
「氷だなんだと散々言われましたがね。……分不相応な名だと、ずっと思っていました」
「ずっと見て来た俺が言うんだ。信じろ。お前を表すのに相応しい名だ」
「名付けた本人に絶賛されても微妙な気分です」
ふっと笑えば手が伸びて来て髪をぐしゃぐしゃに撫でられる。昔は大きく感じたこの手。だがまだ、大きい。届かない。
「チカちゃんにも言ったんだけどよ。想いの形は人それぞれ。愛した相手と添い遂げるばかりが幸福とも限らない。周りからどう見えたって、本人が幸せならそれは、幸せなんだ」
お前は今幸せか。目で、問われた気がした。
「……手に入らずとも、彼女を想うだけで胸は温かく満たされる」
「それも、一つの形だ」
グラスの中の酒を煽り、テーブルに置くと空になったグラスはまた、酒で満たされる。師匠の手から酒瓶を受け取り、師匠のグラスも酒で満たした。
「ビヴァリー様。貴方に拾われた事は幸運でした」
「そうかよ」
「えぇ。笑い方も、覚えました」
「なら次は泣き方だな」
「泣き方も覚えましたよ。でも今は泣けません。幸せですから」
「……幸せでも、人ってのは泣くんだぜ?」
「そうらしいですね」
泣き方を知っていたら、自分は泣いただろう瞬間がある。それは、名も知らない、数回会っただけの命が目の前で消えた時。胸の奥が凍えそうに寒かった、あの時だ。あの頃は泣いている暇などなかった。泣いたって腹は膨れない。体力を消耗するだけだ。
心が凍っていると言ったチカ。彼女の氷を溶かしたのは賢者様。ならこの胸で凍っていた心を溶かしたのは、一体誰なのだろう。
「イグネイシャス」
炎を意味するこの名。
「お前、良い顔するようになったな」
与えてくれたのは、親代わりの男。
「ビヴァリー様こそ、人の心配ばかりしていないで自分はどうなんです?」
「俺は愛がでっかいから、一人の女じゃ受け止めらんねぇの」
明るく笑う師匠が、肌身離さず大事に持っている物を自分は知っている。女物の古びた髪飾り。愛しげに眺めている姿を見た事がある。きっとそんな彼だから、この想いの形を理解してくれるのだろう。
心を覆っていた氷は溶けて消え、今は柔らかな炎が胸の真ん中で、じわりと熱を広げていく。




