氷と炎1
イグネイシャス視点
※暗い。残酷描写あり※
じめじめとした暗がり。鼻を突く悪臭。気付いた時にはもう、そこで泥水を啜りながら生きていた。
同じような境遇の子供達と身を寄せ合い、時には盗み、時には物乞いをして死という得体の知れない恐怖から目を背け、生きていた。自分をこの世に産み落とした存在が恋しいと泣く奴もいたけれど、自分は顔も知らない相手を恋しく思う事などなかった。ただ必死だった。身を寄せ合う子供は、増えたり、減ったり。暗がりの中ガリガリに痩せ細り、冷たく動かなくなっている姿を幾度となく見て来た。死ねば邪魔なゴミ。自分はそうはなりたくない。無意味な死が恐ろしい。願うだけでは冷たい骸になるだけだ。ならば自分は何でもする。他者など気遣っていられない。己だけで精一杯。
最初に使えるようになった魔法は、火を灯す事。凍えそうな寒い夜を、魔法の炎で凌いだ。盗みをする時にも炎を使った。ぼやを起こし、大人が火に気を取られている隙に、盗む。そうして必死に生きる日々の中、仲間と呼べる集団に所属した。魔力持ちの子供が集まり盗みを働く集団。一人よりも効率が良く。毎日食事にあり付けるようになった。時には腹一杯食べられる事もあった。だがその集団は、ミスをした者は助けず見捨てる。協力はするが馴れ合わない。結局皆が皆、己の面倒を見る事だけで手一杯なのだ。他者など気にしていたら死ぬ。そんな、凍えそうな程に冷たい世界。暖かいのは己が起こす魔法の炎だけ。大人達が向けてくるのは無関心か怒り。たまに憐れみ。蔑み。
――助けは来ない。
「……お腹、空いた……」
通りかかった薄暗い路地。助けてと、小さな手が伸ばされる。
「……自分で、なんとかしろよ」
ずっと面倒を見てやる事なんて出来ない。半端に助けて何になる。己で手に入れた食料を分け与えて、その後は? 少し命が伸びるだけ。自分でなんとか出来ないのなら、死ぬしかないんだ。
助けは来ない。助けには、なれない。
「……おい。まだ、生きてるか?」
横たわる体を足先で突つく。小さな体は起き上がる事も出来ず、震えるようにして瞼だけが持ち上がる。
「死ぬのか?」
「…………死に、たく……ない」
「そうか」
凍えそうに寒い暗がり。魔法の炎を灯して、ボロボロで死にそうになっているそいつの側に落とす。これで少しは、暖まる。
「飲め」
手にしていた袋から盗んだ果物を取り出して手で割り、そいつの口の上で絞る。きっともう、こいつに噛む力はない。
「……あまい……」
果物の汁を飲み込んで、そいつはじわりと、笑った。
「……おい。おい。……死んだのか?」
食料を手に入れて、また会いに行った。どうしてそんな事をするのか、自分でもわからない。でもそいつは、死にたくないと言ったから。
「……さむい」
暖を取る為に、魔法で火を灯す。
「食え」
また果物を絞る。弱々しく、喉が動く。
「…ありがとう、おにいちゃん」
じわりと笑みを浮かべ、そいつは静かに目を閉じた。眠るように、動かなくなった。
「死んだ」
伸ばした指先で、頬に触れてみる。柔らかい。温かい。でももう、目を開けないのだろう。
魔法の火を消して立ち上がる。胸の真ん中が、酷く寒かった。
*
盗みの途中で、ミスをした。見捨てられ、捕まり痛めつけられる。怒り狂った男に手首を掴まれ、ぶら下げられ、延々と殴られた。硬い床に投げ飛ばされ、蹴られる。ギラリ光る刃が男の手に握られ、死ぬんだと思った。
無意味に。ゴミのように。お前は不必要な命だと、言われたような気がした。ならば全部、何もかも燃えて消えてしまえ。
こんな寒い世界こそ不要。
意志を込めて睨み付けた先、男が燃え上がる。火だるまの男が転げ回った。火は、周りにも広がる。熱い。でも、寒い。
朦朧としながら進んで、歩いてるのか、這っているのか、それすらもわからなくなりながら体を動かす。寒い路地で動かなくなったあいつの姿が頭を掠めた。他にも、たくさん。見て見ぬふりをしてきた奴ら。あんな風に自分もなるのか。凍えそうに寒い、この世界で。
「……たすけ、て」
伸ばした手は、温かな何かに触れた。
*
目が覚めたら知らない場所にいた。体には清潔な布が巻かれ、ベッドの上に寝かされていて暖かい。
「目が覚めたか?」
大人の男の声に、ギクリとした。
「傷、痛むだろう? 薬飲め。なんか食えるか?」
穏やかな笑み。優しい声。浅黒い肌に坊主頭のその男は大きな手で、頬を撫でて来た。
「もう、怖い事はおしまいだ」
初めて向けられる表情だった。初めて掛けられた言葉だった。
「ほれ、食え」
匙で掬ったどろりとした食べ物。とても、良い匂いがした。口の中へ押し込まれたそれは、温かい。喉の奥が痛いくらいに熱くなる。歯を食い縛って、必死に飲み込んだ。
「……泣き方、わかんねぇのか?」
男の方が、泣きそうに見えた。
「俺が、お前の親になる。泣き方も、笑い方も、ぜぇんぶ教えてやるからな」
生まれて初めて腹が温かな物で満たされた日。親と呼べる存在と、名を与えられた。
「イグネイシャス。炎のようなって意味がある」
名を聞かれ、名などないと答えたら男が名付けると言い出した。今までそんなもの必要なかった。呼ばれる事も、呼ぶ事もない。皆が皆、過ぎ行く存在だったのだから。
「初めて覚える魔法ってのは、そいつの本質を表すんだ。お前は火だったんだろ? ならここにはきっと、炎が宿ってる」
指先で、胸の真ん中を突つかれた。
「俺はビヴァリー。よろしくな、イグネイシャス」
人が浮かべる表情を温かいなんて、初めて思った。与えられた名が、嬉しかった。それに何より、食べ物をもらえた。食料が手に入るのならそこから逃げる必要などなかった。
男を師匠と呼ぶようになり、魔法の扱い方を教わり、文字やいろんな事を学んだ。
師匠は、神殿に所属する神官。彼も孤児で、でもお前よりはきっと増しな生活だったと苦く笑い、大きな手に頭を撫でてきた。師匠の表情は憐れみとは違う。蔑みとも。よくはわからなかったが温かくて、不快ではなかった。
神官になれば生きられる。食べられる。己も師匠と同じ神官になるのは自然な流れ。抗う必要性を感じなかった。仕事をこなしていく中で、いろんな事が見えて来た。神殿に所属する神官に孤児は多いが、そういう人間は現場に出て働く。時に危険な場所へ出向き、死ぬ者もいる。上層部は金持ちや何処かの国の貴族ばかり。師匠が言うには、お偉いさんの金が無ければ何にも出来ないから当然だろという事らしい。
「なぁ師匠。あんた、悔しくないのか?」
みすぼらしい子供だった体は成長して、少年から青年へと変わる頃。神官と成り立てで仕事にも慣れて来た頃に、見た。上の人間に、師匠が馬鹿にされている所を。でも師匠はへらりと笑って受け流した。だからその場では何も言わず、後から聞いてみたのだ。
「馬鹿にしたい奴にはさせておけば良い。俺は何にも恥ずかしい事はやってない。下っ端でも、手の届く範囲で救える者を救う。これは俺の誇りだ」
「……ふーん」
孤児でもある程度までは上がれる。上に行けば給料も増える。だけど出自で、上れる範囲が制限される。これが、人助けをする団体の現実だった。
師匠は気にしない。でも、師匠が馬鹿にされるのを見るのは、悔しい。引き取った子供は粗野で礼儀知らず、弟子が弟子なら師匠の器も知れたもの。そんな言葉を吐かれ、何度となく嗤われた。だから嗤われないように、言葉遣いや立ち居振る舞いを変えた。もっともっと、多くの事を学んだ。元々魔力は人並み以上。己の努力も手伝って、師匠がギリリアン本部の長となるのと同時に己も補佐官という役職を与えられた。
役職を与えられた者の中でも魔力量が多い者は、神託の儀に臨む事が許される。年に一度、神の声を聞く儀式。神殿内でも上位に入る魔力を持つ自分が、その年の儀式を執り行う役目を賜った。そこで聞いた神の声は、聖女の降臨。上の人間達はそう言って騒いでいたが要は、傷や病を癒す稀有な力を持った娘が異なる世界から落ちて来るというものだ。神の言葉で大騒ぎとなる中で自分は、神が残した最後の言葉を反芻していた。
『凍った心に炎を閉じ込めたそなた。その氷、溶ける日も近い』
去り際に囁かれた言葉の意味を考え、一人静かに眉根を寄せた。




