牢獄の森2
カーラットが持って来るのは大抵厄介な仕事だ。
同じ国に生まれ、歳も同じ。家同士の繋がりで出会った相手だが、カーラットは昔から俺を恐れない。もう一人、この国の王となった幼馴染もまた俺を普通の、一人の人間として扱ってくれる。大切な俺の友だ。だが立場上仕事と友人関係はきっちり区別していて、他の国の王と同じように俺に仕事を頼もうとしてくる。だから俺も、友人だからと特別扱いはしない。断る時は断るし、受ける時は受ける。不本意な仕事を断り易い環境を、アービングは作ってくれているのだと思う。あいつは昔から、他人に優しい。
「んでだ、とりあえずその聖女様ってぇ娘さんをさ、言葉が通じるようにして欲しい訳だ」
人好きのする笑みを浮かべて告げられた言葉に、俺はそっと溜息を吐き出した。神殿も関わっている、稀有な力を持った落ち人。その娘にこの世界の言葉を理解させる術をかけるだけでは、仕事は終わりそうにない。本来の目的をカーラットは告げない。という事は、アービングに直接会って聞けという事なのだろう。何を求められているのかは、予想はついているが。
「彼女も連れて行くんだろ?」
カーラットの視線は台所へ向けられている。
「……ここへ残して行く訳には行かんだろう」
むっつり答えた俺に、カーラットは苦い笑みを向けて来た。
「良いきっかけになればと願う。……牢獄のようなここに、彼女まで巻き添えで引き篭もる訳にはいかないだろ?」
牢獄。上手い言葉だと思った。俺は自分の意志でここに閉じ込められている。だがチカは違う。落ちた先が、たまたま俺が結界を張った中だっただけだ。外界から遮断されたここに、俺がチカを閉じ込めている。胸が、じくりと痛んだ。
適当に寝床を確保しろとカーラットに告げてから、俺はチカのもとへ行く。チカは何故か、台所の隅で膝を抱えて蹲り眠っていた。名を呼び揺するとすぐに目を覚まし、不安げに瞳を揺らして俺を見上げて来る。
「明日、ここを発たねばならない。お前も共に来い」
己の声が、酷く冷たく響いた。縋るような表情を目にすると仄暗い喜びが胸中へと広がったが、俺はそれを押さえ付ける。
「お前は俺の弟子という事にして連れて行くが……もし王都で仕事が見つかれば、そちらへ行っても構わない」
チカはまた、静かに受け入れる。そうだ。これが正解なのだと、俺は己に言い聞かせた。
初めから早々に追い出すつもりだった。だから実験的に新しい術を使い、チカには黙って知識を複写し続けて来た。チカがここから出てレアンディールで生きられるよう、薬学を教えて来た。何処の国に行っても困らぬよう、ギリリアン以外の言語も理解出来るようにした。
チカとの日々があまりにも温かで、居心地が良くて、忘れてしまっていた。俺は化け物だ。愛だとか幸せだとかを、手に入れられる訳がない。
*
己がここまで弱い生き物だと、俺は初めて知った。柔らかな体をこの腕に抱いてしまえば、一瞬前にした決意が揺らぐ。手放し難い。他の誰の目にも触れさせたくない。俺のものだ。俺だけのものだ。
不安そうに曇っていた表情が、俺が触れる事で安堵へと変わる。堪らず唇で触れれば染まる頬。恥ずかしげに伏せられる睫毛。本物の笑顔が向けられるのは、俺にだけ。
「あなたにだけです……」
甘美な言葉。触れても拒絶はない。受け入れる。チカは俺を、受け入れようとする。もう手放せない。手放せる訳が無かったのだと、気が付いた。
*
間違った事だとは、わかっている。だがどうすれば良い。外の世界を知ればもう、戻って来ないかもしれない。俺を必要としなくなる。俺はそれに、耐えられそうに無いのだ。
美しい鳥を籠に入れて愛でるように、俺はチカを閉じ込めた。必要最低限の外出だけにして欲しいという身勝手な言葉すら受け入れ、チカは俺の腕の中で微笑んでくれる。そこに、いてくれる。胸に湧く喜び。泣きそうになるような幸福。己の感情を、俺は持て余す。
不快な仕事も、チカがいれば頑張れた。部屋へ戻ればチカがいる。それだけで俺は、堪らなく嫌だった事にすら耐えられた。俺の行動に動揺して頬を染めるチカ。子供のような俺を笑って許してくれるチカ。どんどん、どんどん、チカの存在が俺の中で膨れていく。女達に人気があるアービングにもフィオンにも、チカは誰にも靡かない。当然の事のように、俺へと手を伸ばす。チカの言葉が、行動が、表情が、頑なだった俺の心を解きほぐしていく。
強く真っ直ぐ、俺へと温かな感情を向けてくれるチカはだが、不安定に何かに怯えていた。そんな彼女を守りたいと望んだ。側にいたいと願った。なのに俺は、怖くなったのだ。いや、常に怖かった。だから監視していた。逃げられないように。
「貴方お一人で愛でるには勿体無い女性。だからこそ縛り付けるのでしょうが、果たして籠の鳥とは幸せなのでしょうか? 籠の中しか知らないからこそ、幸せと囀るだけかもしれません」
チカが熱を出して倒れた。看病している間、俺は神官の言葉に頭を悩ませた。チカの容体が安定してから、アービング達に報告するついでに必要な薬草を採りに行く為、俺は部屋を出る。そこにあの神官が待ち伏せていた。
「こんにちは、賢者様。チカの具合はいかがですか?」
「……もう、大丈夫だ」
心底ほっとしたように神官は息を吐いた。冷たい表情のこの男には珍しく、安堵で目元が緩んでいる。
「それを聞きに来たのか?」
神官は、ゆるりと首を横に振る。
「神殿から、賢者様の弟子への依頼があります。それについてのお話をしたく、お待ちしておりました」
聖女から手を引く代わりにチカを差し出せと、神官は告げた。神官の吐く言葉は正論ばかり。そんな事はわかっている。俺の行動が正しく無いのだとは、俺にもわかっている。
「縛り付け続けた末の仄暗い幸福よりも、選び取って貰えた方が幸せではないですかね。それに……見習いが師匠に断りも無く薬を作り人に飲ませた。この件を穏便に解決するには、神殿の依頼という体裁を整えた方がチカを守れると思いますが」
「……お前が、そうするよう仕向けたのだろう」
「えぇ、そうです。何もチカをくださいと言っている訳ではありません。力を貸して欲しいのです」
それは、現状取り得る最良の選択肢だった。チカの体調を整える為と、チカの知識や経験を増やす為の時間を貰った。別れの為の時間。チカを俺だけのものにしておける、最後の時間を過ごす。アービング達に話せば気に病ませてしまうような気がしたから、黙っている事にした。変な横槍が入るのは煩わしいと言って、神官も水面下で準備を進めている。
別れの日の前日。普通に告げてもチカは納得しないだろうと思い俺は、己の罪を懺悔する事にした。だが、勝手に行っていた知識の複写の実験すらチカは何も言わずに受け入れ、怒るどころか嬉しそうにしていた。どうしてこうも、チカは俺の心を救うのだろうか。
チカを送り出した後俺の心はまるで、死んだようだった。
***
顔に押し当てられる柔らかな感触で眠りから浮上する。何度も、何度も、啄ばむように。降り続けるこれは、愛しい女の唇だ。
「起きて下さい、グレアムさん」
耳に心地いい声が囁いて、唇が重ねられる。頬に当てられた手が温かい。何度か啄ばまれ、それでも目を開けないでいると口付けが深い物へと変わる。甘い水音を立てて触れ合って、俺は堪らずチカの腰を抱いた。そのまま体勢を入れ替え吸い付いてから離れれば、俺に組み敷かれたチカはくすくすと幸せそうに笑う。
「……お目覚めですか?」
「あぁ。だがもう少し」
「あなたのお望みのままに」
弧を描いた唇に、噛み付くように口付けた。
チカは自分の意志で、俺のもとへと帰って来てくれた。どうしようもなく愚かな俺を包み込み、穏やかな笑みで、許しをくれた。
チカは、俺以外はいらないのだと言う。それはきっと本心だ。だがそれを鵜呑みにしては、俺はチカを押し潰してしまうのだと思う。己の力で手に入れた物を、俺の為ならば手放せるのだと微笑むチカ。生まれ持った優しさが少ないのだとチカは言うが、そうではない。誰かに優しくしたくとも、やり方がわからなかったのだ。不器用だっただけで、置かれていた環境の所為でチカは、本来の性質を発揮出来なかったのではないかと俺は考える。
ハラハラと舞い落ちるようなチカの優しさは、人の心に降り積もる。俺の心にも温かに降り積もり、じわりと全身に熱を広げてくれる。俺を、化け物と恐れられる何かではない、ただの人間に戻してくれる。降るように与えられる優しさを、俺も全力で返していきたい。
「……愛している、チカ」
「嬉しい。私もです、グレアムさん」
孤独に囚われていた俺達が手に入れたのは、柔らかな幸福と、愛し慈しむ心。




