賢者の弟子と氷の男2
先生が来てから上司の厳しさが和らいだ気がする。仕事の途中で窓の外を見ている時には、その視線の先には必ず先生がいる。賢者様の使い魔である白い神獣を連れて、籠を持った彼女は何処かへ行くようだ。多分庭にある薬草園へ向かうのだろう。庭の薬草園は、彼女が来てから彼女と上司が二人で作っていた。一人で作ろうとしていた彼女の側を上司がうろちょろして無理矢理手伝っていたというのが正しいかかもしれないけど。
彼女の姿を見た後の上司は、柔らかな表情になる。職場の雰囲気も良くなるから、私にとってはとても嬉しい現象だ。前は昼食もとらず仕事の鬼だった上司だが、最近は二人分の食事を持って何処かへ消える事が増えた。何処に行くのかは、みんな知っている。先生の所だ。先生はどうやら、放っておくと食事を忘れるらしい。朝は必ず食堂に現れる。でもそれも最初の頃はまちまちだったようで、上司がその時間を一日の予定確認の場にして連れて来るようになった。夜はほとんど部屋にこもってしまう。だから私も、お茶の時間にお菓子や軽食を持って行って彼女に食べさせるようにしている。餌付けをしているようで楽しいんだ、これが。
「……ゲルダ。いつものお礼です」
躊躇いながら先生が差し出して来たのは、手作りらしきお菓子。
「先生が作ったの?」
聞けば彼女は恥ずかしそうな様子でこくりと頷く。どうやら餌付けへのお礼らしい。なんだかんだで律儀なんだよな、先生って。
「ねぇ、先生って料理得意?」
「得意かはわかりませんが、師匠といた頃は私の仕事でした」
何故だか先生は、賢者様の話をする時は悲しそうに見える。師匠と弟子って色々あるのかな。
「今度食べたいなぁ。イグネイシャス様に自慢したい」
「イグは、私の手作りなど馬鹿にするでしょうね」
わかってないなぁ先生。きっと上司は私に嫉妬する。想像すると楽しいけど、怖くもある。このお茶会だって、上司は羨ましいとか思っていそう。
「……友人に、食事を振る舞うのは楽しそう」
微かに頬を染め、彼女は優しく微笑んだ。最近はよく、笑ってくれるようになってきた。気難しい動物を手懐けている気分。先生って極度の人見知りだと思うんだ。最初の冷たそうな印象も、慣れたら変わって来た。私の同僚達にも、ひっそり先生のファンが増えている。実は私も、その一人。
*
先生がここに馴染むに連れて、上司との仲も噂になっている。上司の恋が実れば更に職場環境が改善されそうで、私にとっては願ったり叶ったり。
朝の薬草園には必ず上司と先生の姿がある。私や同僚達は、ニヤニヤしながらそれを見守っている。顔だけは良い氷の上司が女を口説くのに悪戦苦闘する姿を、みんなで楽しんでいるのだ。だけど先生って鈍いのか、中々実らない。上司と言い合いをしている姿は楽しそうに見えるけど、恋人というよりも友達って感じかな。上司の恋が実る為の道のりはかなり険しそう。
「先生、入りまーす」
先生の部屋へお茶を飲みに行ったら上司と鉢合わせしてしまった。まずいと思って血の気が引いた私に、人差し指を唇に当てた上司が静かにするよう示す。上司の片手にはブランケット。窓辺に置いた椅子で、神獣と読み掛けの本を膝に乗せた先生が眠っていた。ブランケットを先生に掛けてやった上司は右手を伸ばし、さらりと彼女の髪に触れる。その表情に、私の胸が締め付けられた。だって、とても愛おしそうで、だけどどうしても届かないものに焦がれるような表情だったんだもの。どうして上司がそんな表情をしたのか、この時の私にはさっぱりわからなかった。
「…………イグ……?」
人の気配を感じた所為か、先生はすぐに目を覚ましてしまった。私は扉の前で立ち尽くし、息をする事すら躊躇ってしまうくらいに、動けない。
「……チカ、根を詰め過ぎではないですか?」
「そう? 夜は寝ています。日の光が気持ち良かっただけ」
気怠げな様子で上司を見上げ、先生は小さな欠伸をした。上司は見惚れるように、彼女を見つめている。
「……ゲルダも来ていたんですね。ごめんなさい、眠ってしまっていたみたい」
穏やかな笑みを向けられた私を、先生にバレない立ち位置から上司が忌々しげに睨んでいる。私は、上司の姿が見えない時には先生の所へ顔を出すのはやめようと心に決めた。
*
先生の存在は、私達の日常の一部となった。体調を崩せば先生を頼る。女性神官は美容の相談などもするようになった。先生が使っている化粧水って手作りなんだって。とても良い香りで、仲良くなって頼むと肌質に合った物を作ってくれる。人見知りの先生は面倒臭がりでもあるから、仲良し限定という所が良い。手に入れると優越感に浸れる。ちなみに私は作ってもらった数少ない内の一人。
「イグはたくさん食べるのね?」
朝の食堂。人気の席は二人の会話が聞こえる場所。神官連中はみんな、二人を見守っている。鈍い先生は気が付いていないみたいだけど上司は気付いていて、たまに不機嫌な視線で突き刺してくる。
「チカはもっと食べたらどうです?」
「ダメ。私、すぐ肉になるから」
あぁだからお胸がそんなに大きいんですね。
「多少太っても貴女の魅力は変わらない」
「……見た事がないからそう言えるんでしょうね」
「賢者様は見た事が?」
「うん。出会った頃、私はとても太っていたから」
あ、上司が嫉妬した。好きな女のどんな姿でも見たいんだね。しかもそれを他の男が知っているのが気に入らないんだね。先生といる時の上司はとてもわかり易い。恋をすると人とはこうも変わるのか。
「良い生活でもしていたのですか?」
「今よりも悲惨な生活だけれど……食べ物には困らなかった」
「一体それはどんな所ですか?」
「……秘密」
ふっと目元を綻ばせ、先生は口元に人差し指を当てた。紅を引いた唇が綺麗な弧を描き、艶っぽい。不運にも目にしてしまった男性神官はノックアウトされたに違いない。それは上司も例外ではなく……
「……イグ?」
先生に名を呼ばれ、ハッとした様子の上司は俯いて片手で顔を覆い隠した。でもバレバレ、バレバレだよ上司。耳まで真っ赤!
「いつも通り、荷物を取って来ます」
バレバレなのに、先生はそれに突っ込まずに行ってしまった。二人の距離はよく観察すればする程、妙だと思う。その理由がわかったのは、先生が壊れそうな程に、涙を零した日。
仕事へ向かう途中の朝の廊下で、私は先生と上司の口論を目撃してしまった。
「追い掛けて来たら、あなたなんて大嫌い」
いつも物静かな先生には珍しく、感情的な声だった。上司はその場で少し迷い、足を踏み出した。けど――
「イグネイシャス。やめておけ」
執務室から顔を出したビヴァリー様が、それを止めた。
「それをすればこの先永遠に、彼女には手が届かなくなるぞ。恐らく彼女自身が壊れる。あれはそういう女だ」
「……ならば一人で泣かせろと言うんですか?」
「今の彼女にお前が寄り添うのは駄目だ。良い結果にはならない」
長い事、上司は無言で葛藤していた。だけど助言を聞き入れる事にしたようだ。上司は、仕事に戻った。
「……ゲルダ。頼みがあります」
散々そわそわ落ち着かない様子だった上司が、朝食の後で私のもとへやって来た。悲愴な表情だ。
「チカの様子を見て来てもらえませんか?」
「……良いですけど、どうしたんです?」
「それを聞いて、彼女の力になって頂きたいのです」
「これは同性のが良いだろ。ゲルダ、俺からも頼む」
「なんかわかんないですけど、行って来まーす」
向かった先生の部屋で私は、上司と先生の、微妙な距離の理由を知った。どうやら上司は横恋慕の片想いをしていたみたい。だからあんなに切なそうで、届かないものに焦がれる表情をしていたんだね。
泣き崩れていた先生の話を聞いて、先生は相手の――まぁ賢者様だった訳なんだけど、賢者様の事を本当に愛してるんだって事がわかった。なんでこう、人の想いって上手くいかないのかね。私としては出来れば上司の手を取ってもらいたいと思うけれど、先生の性格からすると無理だろうな。きっと彼女は、上司の手を取る自分を許さない。何処までの強さで許さないのかまではわからないけれど、だからビヴァリー様はあの時上司を止めたんだ。先生は自分に厳し過ぎると思う。良いじゃない。慰めて寄り添ってくれる優しい手を取ったって。そんなの、仕方無いじゃない。でもそれは彼女が決める事だ。私がとやかく口出しする事は出来ない。
先生は結局、仕事の目処が立ったらここを去るみたい。上司との距離は変わらないようにも見えるけれど、先生は上司を拒絶している。上司もわかっていて、ただ側にいる事を選んだらしい。見返りを求めない愛。氷だと思っていた上司はもしかしたら、熱い男だったのかもしれない。
***
先生がいなくなった後の薬草園は、上司が受け継いで手入れをしている。彼女は去ったけれど、患者を見捨てられるような人じゃなかった。だから今でも、ここに仕事で訪れる。そんな彼女の為に上司は、薬草の世話をする。もう届かない存在の為に。彼女の笑顔の為に。
ニヤニヤ見守っていた私と同僚達も、上司を見る目が変わった。先生が来て、先生が去った後ではもう、上司はかたい氷なんかじゃない。私達と同じ人間で、冗談で一緒に笑い合ったりもするようになった。時折悲しげにまつ毛が伏せられるけれど、きっと忘れる事なんて出来ない恋だったのだろうけれど、私達は上司に明るく声を掛ける。
「イグネイシャス様、酒でも飲みません?」
「……良いですね。当然奢りですよね?」
「えー、普通は上司の奢りじゃないんですかぁ」
「役職についていても、薄給なんです」
「なら我々はもっとぺらっぺらですって」
仕事仲間で笑い合い、歩き出す。彼女の幸せを見守る彼を、変わらず私達は見守り続ける。
先生の去った隣には、いつの間にか増えた友人達が寄り添った。




