三十六. 鳥が舞う空2
朝は食堂で食事をとる。昼は忙しくて暇がない。夜は……なんだか面倒で悩む。気が向けば行くけれど、今日は気が乗らずに部屋へ戻った。
今日の分の仕事は終わってしまったし、暗い中では薬草探しにも行けない。私は風呂に入り、お茶を飲みながら本を読む事にした。手に取ったのは、町に出た時に買った薬学の本。初めて読む本なのに知っている内容なのは、似たような本をグレアムさんのもとで読んだからか、複写された知識だからかのどちらかだ。膝で眠るティグルの毛を撫でてから、常に身に付けている首飾りの石に触れる。報告の為の連絡はいつもあちらから。私はこの時間になるとそわそわしながら待つ。彼の仕事が終わる時間はまちまちだから、私から連絡をすると取れない時もあるみたい。
薄暗い灯りの中、透明な石がオレンジ色に輝き出す。私は本を閉じ、石を両手で包み込んだ。
「……チカ?」
低くて深い、彼の声。私は目を閉じて、その声を必死に拾う。
「……はい。こんばんは、グレアムさん」
いつも悩む、第一声。彼が帰って来たばかりなのか、それとも少し休んでからの連絡なのか、あちらの状況がわからないから無難な挨拶に落ち着いてしまう。
「今日は、どうだった?」
私は仕事の報告を始める。作った薬、使った薬草、患者にした説明など、グレアムさんの知識と擦り合わせアドバイスをもらうのだ。
「神官の女性からの依頼で、避妊薬を作りました」
「…………教えた覚えは、ないな」
「自分で、学びました」
グレアムさんが黙り込んでしまったから、私は先程と同じように詳しく話す。特にダメ出しもアドバイスもない時は問題の無い時だ。
「……チカ。お前は、子供を………」
「……なんでしょう?」
「いや。なんでもない」
距離がもどかしい。近くにいれば、彼が飲み込んでしまった言葉を聞き出す方法は知っている。だけど声だけだと表情が見えなくて、不安で、踏み込めない。
「体に気を付けろ。何かあれば連絡を」
「はい。あなたも……食事、ちゃんととって下さいね」
「あぁ」
いつも同じ台詞で通信は終わる。もっと声を聞いていたいのに……何を話したら良いのかがわからない。
輝きを失った石を見つめ毎日、私はちょっとだけ泣く。
***
夜眠るのが早いから、朝も早い。神官達も早起きで、朝はお祈りやらなんやらで忙しいみたい。私は毎朝、薬草園で薬草の世話をする。
「チカ、おはようございます」
忙しいくせに、毎朝欠かさずイグネイシャスは薬草園に顔を出す。これではゲルダが怒るのも仕方がないと思う。
「イグ。昨日もゲルダが来ました」
「そうらしいですね。とても腹立たしかったです」
ゲルダが戻った後で、どうやら何かがあったらしい。
「昨夜、食事はとりましたか?」
「……食べてないです。お腹、空かなくて」
「では今は空腹ですよね? 食堂へ行きましょう」
「うん」
夜は遠慮するみたいだけど、昼は軽食を持ったイグネイシャスが私の部屋を訪れる事がたまにある。食べていない事はお見通しみたいで、彼は意外と世話焼きだ。顔も良くて世話焼きだけど、あまり人に心を開けない彼のあだ名は冷血漢。ゲルダがそう言っていた。
「そういえばイグ。昨日ゲルダの様子を見て疑惑が浮かんだのですが……」
並んで食堂へ向かい、食事のトレーを持って席についた所で私は切り出した。じっと、イグネイシャスの表情を観察する。
「転移って、本当に密着する必要はありますか? また自意識過剰と言われそうですが、ゲルダの反応が引っかかって」
イグネイシャスの微笑みは崩れない。彼もかなり、感情を隠すのが上手いと思う。
「チカ。私は常々貴女を抱き締めたいと願っていますが、それは本当です」
「手を握らなくても良いです」
伸びて来た手は叩き落とした。
「……お食事中すみません。参考までに伺いたいのですが、転移の際、魔力の無い人間を共に運ぶ時に密着する必要はありますか?」
私は、私達の一つ空けた隣に座っていた男性二人に尋ねてみる。
「え? いっ……ほん、とうですよ、先生。なぁ?」
「そ、っ……うです先生! 転移とは難しい術ですので、体に触れていないと! 距離は大事です」
「そうですか……ありがとうございます」
それならゲルダのあの反応はなんだったのか謎だけど、今度彼女が来た時にでも確認してみようと決めて私は納得する事にした。イグネイシャスは、ほらねと言う風に肩を竦めてから食事を始める。私もティグルにパンを分け与えながら朝食を食べ進めた。
「ちっかちゃん。おはよっ」
大きな手が乱暴に頭へ乗せられ髪の毛を乱された。犯人はそのまま私の隣へ腰掛ける。
「チカに触れるな馬鹿師匠」
「あぁん? 馬鹿弟子の囀りは聞こえねぇなぁ」
この二人は仲が良いんだか悪いんだか。ギリリアン本部長であるビヴァリーさんはどうやら、イグネイシャスが可愛くて仕方がないらしい。よくちょっかいをかけてからかっては怒られている。イグネイシャスだってビヴァリーさんを嫌いではないくせに、彼はどうにも素直じゃない。
「ビヴァリーさんおはようございます。朝から髪を乱されると面倒です。やめて下さい」
「そうだよなぁ。女の髪を乱すのはキスかベッドの上だよな」
なんだかもう、面倒臭いので最近は聞き流す事にしている。日本でやったらセクハラで訴えられかねないが、どうやらビヴァリーさんの人柄のお陰か許されてしまうようだ。まぁ本当に不快なラインを越えて来ないからこそ、彼はモテるのかもしれない。ゲルダが、本部長は良い男でモッテモテだと言っていた。
「チカちゃん、今日の予定は聞いたか?」
「まだです」
朝食の席は、私の予定確認の場でもある。ビヴァリーさんに促され、イグネイシャスがまるで秘書のように私の予定を口にする。どうやら今日はあちらこちらへ行かないといけないようだ。
食事を終え、乱れた髪を直してから私は立ち上がる。
「イグ、荷物を取って来ます。いつも通りで良いですか?」
「えぇ。転移の間で待っていますね」
イグネイシャスとビヴァリーさんに見送られて、食堂を出る前にゲルダを見つけた。同僚と食事をとっていたゲルダも私に気が付いたようで駆け寄って来る。
「先生!」
「おはようございます、ゲルダ」
「おはよ。今日さ、転移たくさんなんだって?」
「そうですね。……何か?」
「ちゃんとピッタリくっ付かないとダメだからね? 異空間に置き去りになっちゃうよ!」
「え?」
言いたい事だけ言うとゲルダは去って行く。とっても怖い事を言われ、私は益々転移が嫌いになった。
*
「チカ? どうしたのですか?」
荷物を詰め込んだ鞄とティグルをしっかり抱き締め、私は転移の陣の上でイグネイシャスにピタリと身を寄せる。異空間という言葉が、なんだかとてつもない恐怖を煽った。
「……ゲルダが、怖い事を言っていました」
「ゲルダが?」
「うん。異空間に置き去りは、嫌」
「…………チカ。嫌、ともう一度言って下さい」
「イグってたまにとっても変態な気がします」
「貴女はたまにとっても可愛くて困ります」
「やっぱり変わり者の変態です」
私は変態に抱き竦められた状態で転移した。
いつものくらりがして、地面に足が付く。すぐに身を離そうとしたのに、離れない。
「イグ? 放して」
「……転移の影響で、手が張り付きました」
「えぇ? それはどうすれば?」
「貴女のキスをもらえたら」
「は?」
一瞬固まって考え、私はイグネイシャスの脇腹にパンチをお見舞いした。そしたらあっさり手が離れる。
「……チカのキスは、激しいですね」
「命懸けですよ」
蹲ったイグネイシャスへにっこり笑い掛けてから、私は部屋を出た。ここは何度も来ているからわかる。お馬鹿なイグネイシャスなんかいなくても大丈夫。
私を呼ぶ可愛らしい声に振り向けば、子供達がわらわら駆け寄って来た。ここは、初めて私が薬を人に飲ませた孤児院。子供達は私が命を救えた子達。私はたまに、彼らの様子を見に連れて来てもらうのだ。
「チカせんせ、今日はずっといる?」
「ごめんね。今日も少しだけ。みんなに会いに来たの」
「先生はいつも忙しいね?」
「ねぇ先生! ぼく転んだの! おくすりぬってぇ」
この子達に、私は癒される。子供なんて面倒だと思っていたのに、この子達の事は煩わしいなんて思わない。笑顔を向けてもらえると、ほっとする。
「リジィはよく怪我してるね?」
「うん。ぼくね、探検がしゅみなんだ!」
「そう。でもここの先生達に心配掛けないようにね?」
「うん!」
擦り傷に薬を塗り終わり、友達と共に駆けて行く赤毛の少年を見送った。ここは、ギリリアンから少し離れた貧しい国。ここには、親を病気で亡くした子供や口減らしで捨てられた子供が集められている。追い付いて来たイグネイシャスと共に、ここに常駐している神官から子供達の現状を聞き、体調を崩している子の様子を見て薬を処方する。ここでの仕事はこれで終了。
「ほらチカ。異空間に取り残されないようもっとくっ付いて下さい」
私は転移が憂鬱なのに、イグネイシャスがいつも以上ににこにこしているのが、なんだかとても腹立たしかった。




