22 十月 空き教室
放課後に呼び出された場所は、四階の一番端っこの空き教室。二年文系の占拠地三階の上、二年理系の領地だ。四階のほうがどこか物静かに感じた。
残って勉強する人を気にしつつ廊下を歩く。端に進むにつれてひとけがなくなっていく。
目的地に到着し、手鏡で自分をチェック。瀬野くんに勝つために、まず見た目から入ってみた。すなわち、気合を入れてメイクした。髪も可愛くツヤサラにしてもらった。遥菜と野乃ちゃんに感謝しないと。
メイクよし、身嗜みよし、やる気よし。パーフェクトガール、ここに爆誕。
ドアに手をかける。少し震えていたかもしれない。武者震いというやつだ。ええい、頑張れ私。
勢いよく開け放つ。教室の後ろ半分には机と椅子が積み上げられ、前半分は広く空き、不思議と埃っぽくはなかった。
窓際には瀬野くんの後ろ姿。振り返ってイヤホンを外して、にっこり笑った。
「思ったより遅かったな。迎えに行けばよかった?」
「ううん。そんなのいらない」
「……あっそ」
夕暮れに染まる教室は、強い夕日の茜と伸びる影の黒で満ちていた。薄暗い廊下にいる私は、その空間に入っていけない。教室のドアが境界線。
「入っておいでよ、佐藤さん」
「ダメ」
「なんで?」
しばらっくれるでない。彼女がいるくせに。
彼氏が別の女と二人きりだなんて、私が彼女だったら絶対に嫌だ。おそらく桜葉さんも嫌だと思う。
「これが私と瀬野くんの距離だから」
可愛くなって自信をつけた。でも、そばには近寄れない。
「瀬野くん、彼女いるよね?」
「は?」
「桜葉さんと付き合ってるんじゃないの」
初めて訊く。『誰々と付き合ってるの?』という、中学時代によく耳にした構文。瀬野くんの答えは十中八九イエスだった。これは疑問のふりをした確認作業だ。返事がわかりきっていることを訊くのは、すごく苦しい。
瀬野くんはイヤホンを片付け、スマホをいじりながらサラッと言った。
「付き合ってない。そもそも桜葉は彼氏いるし」
え。
「あ、あのデートは」
「彼氏の誕プレ選びに付き合わされただけ。佐藤さんこそ、つーくんと映画デート楽しかった?」
「違う、あれはたまたまで」
「まぁいいや、どうせそっちも付き合ってねえみたいだし。俺と桜葉のことは勘違い? にしては確信的だったな」
「えっと、桜葉さんの彼氏が今は瀬野くんだって、男子が」
瀬野くんが舌打ちした。こわ。そのままつかつかと近付いてくる。こわ。そして、境界線の前で止まって手を上げた。こわ。不良に殴られる。
咄嗟に目をつぶったとき、肩が重くなって耳に息がかかった。
「佐藤さんは、俺の言葉より、俺以外の全然知らねえやつの言葉を、信じるんだ?」
低い声で耳打ちされて全身がぞわぞわした。一瞬見せた隙で教室内に引き込まれる。境界線が。ドアは閉められてカチッと音がした。
肩を組まれた、重い。あと、近い。真横に、瀬野くんが。
「ち、ちか」
「これ桜葉の彼氏」
スマホで画像を見せられた。男女四人が写っている。桜葉さんとよく瀬野くんと話している女子と、瀬野くんと知らない男子。瀬野くん、桜葉さんの彼氏と知り合いなの。
「借り物競争は」
「彼氏他校だからな。観客から見つけるの面倒で、適当に近くにいたイケメン選んだんだってよ」
「ベンチで考えごとしてたのは、桜葉さんたちのことじゃ」
「んなわけ。誰かさんが俺を選んでくれなくて落ち込んでたんですー」
力が抜けてへなへなとへたり込む。私にのしかかっていた瀬野くんもしゃがんだ。
「俺と桜葉が付き合ってるって噂は知ってたんだけど、お互い告白されなくて楽だなーってことで放置してた」
「えぇ……」
「あーあ。佐藤さんはデマとか噂の横流しはしないタイプって中学の女子たちが言ってたから、そういうのには左右されないと思ってたのに」
なんか私が悪いみたいな空気になっているのは何故。混乱で脳みそが過去一フル回転を始めた。テンパりすぎてむしろ冷静になる現象だ。
私はデマや噂に惑わされてなどいない。第三者視点の情報として考慮し、有益だと自ら判断したのだ。
「俯瞰的な視点は大事だと思いまして」
「噂とかいう信憑性がなくてバイアスかかりまくってる情報が、客観的なわけないですよねー」
「で、ですねー」
ぐう音も出ない正論。速攻で完全論破された。私の考えは全て間違っていたというのか。無念極まりない完全敗北。
いやしかし。瀬野くんの言い分には証拠がない。さっきの画像もダブルデート写真の線が捨て切れないのだ。被告人にさらなる証拠の提出を命じます。
「他の実証は」
「気になるなら見ろよ。トーク履歴もアルバムも消してねえから」
私の手にスマホを握らせてきた。画面は瀬野くんと桜葉さんのトーク。こんな個人情報は、証拠といえど、さすがにライン超えてる。
ここまでされたのだ、もう瀬野くんの証言を信じるしかない。瀬野くんは桜葉さんと付き合ってない、と。
瀬野くんにスマホを返す。
「わかった、ありがとう」
「俺の身の潔白証明できた?」
「できたできた、無罪無罪」
「それはよかった」
瀬野くんがふっと笑った。
話も一段落したので解散だろう。立とうしたら、引っ張られた。
「わっ」
「まだ俺の話してねえけど」
私は体勢を崩し、瀬野くんが受け止めてくれた。その結果、私たちはまるで抱き合っているみたいになった。わあ、イケメンは良い匂いがする。
私の下で瀬野くんが息を吐いた。
「……佐藤さんドキドキしすぎじゃね」
日が沈んで茜から紺に変わる外も、電気を点けてない教室も、光源を失って暗くなっていく。表情が見えなくて、手や体に伝わる温かさだけが頼り。
「ち、近いから」
「近いな」
「ぱぱ、ぱ、パーソナルスペースの侵略」
「侵略してんね。どいてくれる?」
「うで、腕が」
「佐藤さんがどかねえならしゃーない。これが俺と佐藤さんの距離ってことで」
冤罪だ。腰にある腕があり得ない重力をかけてくるから離れられないだけ。
「あの、瀬野くん」
「親しいと思っていた人が、黙って急に目の前からいなくなるの、すげえ不安になる」
「え」
腕に力が入ってグッと寄せられる。密着して、耳に心臓の音がダイレクトに聴こえてくた。何度か深呼吸する音も。
「ね、佐藤さん」
ぎゅっとされたまま、しゅんとした声色が耳に届く。
「なんで俺のこと避けてたの。彼女いると思ってたから?」
「や、別にそういうわけじゃ」
「昼休みに変身してるんだっけ。優吾がつーくんと現場目撃したつってた。つーくんは見てよくて、俺はダメだった?」
温かくて、良い匂いがして、包み込まれて安心する。早鐘だった脈が徐々に落ち着いていく。
「言葉にするから、ちょっと待って」
「おけ」
瀬野くんはダメな理由。
私は、瀬野くんのそばにいるときは可愛くありたい。何故か。桜葉さんとの偽デートに遭遇して、桜葉さんと瀬野くんがお似合いに見えたからだ。
自分も瀬野くんの隣に立ったとき、お似合いの存在になりたいと思ったのだ。
「あなたに釣り合う人になりたくて。自分に自信がつくまで会わないように、と思ったの」
「……あぁ、俺のために努力してた感じ?」
囁く声にぞくぞくした。呼応して、背中にある手が腰の辺りをつーっと撫でる。とてもくすぐったい。暗闇で何も見えない分、過敏に反応してしまう気がする。
唇がなぞられたあと、ほっぺたが包まれる。そして、顔が近付く気配がした。
まさか、まさかまさかまさか。
息を止めていたけど、結局何も起こらなかった。
しばらくして瀬野くんはおもむろに起き上がり、スマホのライトで照らしながら教室の電気を点けた。さらに、呆然とする私を立たせて乱れた制服を直してくれた。
さっきまでハグしていたのに、瀬野くんはなんでもなかったように振る舞っている。
「ごめんな。あー、結構シワになっちゃったかも」
「瀬野くん、なんでそんな普通なの」
「俺、普通に見える?」
「うん」
「ならよかった」
結局質問に答えてない。はぐらかされた。わかる、この返事は言う気がないやつだ。
教室に荷物を取りに戻るときも、駅まで送ってくれる間も、自然な流れで手を繋がれた。暗かったせいかもしれないけど、恋人でもない人間にそういう態度をとるの、本当によくない。
だから、瀬野くんがこういうことをしてくるから、私は失恋するハメに……。
いや、失恋してない。瀬野くんが桜葉さんと付き合ってないなら、私は瀬野くんに失恋してない。けど、瀬野くんのことだからすぐさま新しい彼女候補ができたりして。
悩んではうんうん唸る。私は瀬野くんのことばかり考えて、瀬野くんの些細なことに振り回されている。楽しくて苦しくて、それでも、そばにいたい。
掴みどころなかった『好き』を、今更すとんと理解する。
ああ、佐藤絢理は瀬野慧斗のことが好きなのか。




