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神殺しのユラギ  作者: くるい
二章 とある旅人の冒険記
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一話 行方の知れぬ逃亡者

 ――足の裏が痛かった。

 石ころだらけの道をひた走り、小さな身体を精一杯に動かして逃げ続ける。


 何に? 一体何から?

 そんなのは分からなかった。

 背後から湧き上がる強烈な狂気から、一心不乱に背を向けて見ないようにしていたから。


「……怖い! 逃げないと――死んじゃう。それは、嫌だ。いやだ。いやだ!」


 恐怖が過ぎ去るまで、ただ逃げる。

 やがて体力が尽きて、小さな身体はその場へと倒れ伏す。


 そこは、柔らかい感触がした。

 頬を撫でるように、生い茂った草木が身体を包んでいる。

 疲労困憊の身体はそこで限界を迎えた。


 ――既に背後にあった狂気は、どこにもなくなっていた。






 ◇






「……ん、う……まぶしっ」


 目を覚ます。重たげに瞼を開くと、燦々と降り注ぐ太陽が視界いっぱいに入り込んだ。

 焼けるような光量に両手で目を押さえ、横に転がる。

 ちくちくとした痛みで全身を捩らせ、太陽の光にやられないよう細目を開いた。


「いた、いたた……くしゅんっ」


 縦長に伸びる草が鼻を擦ってくる。

 耐え切れずくしゃみをして、そこで目は完全に覚めた。


「ここは、どこ?」


 真っ先に出た言葉は、それだった。

 背の高い草に覆われた一面緑の風景。


 自分はこんもりと盛り上がった上にいるらしい。

 辺りを見渡すようにして視線をやると、どこもかしこも緑一色で。

 見上げた空には、どこまでも澄み渡る青空が広がっている。


「わたしは……あれ? 何してここに来たんだっけ……何を? 長い間、眠っていたような……」


 自分が今まで何をしていたのかを思い出そうとすると、靄が掛かったかのように思い出すことができなかった。

 とにかく、恐怖から逃げるように走っていたことだけは鮮明に思い出せるのだが。

 それ以前の記憶が欠けていた。どれだけ考えても、何も出てこない。


「――わたし、は?」


 何より、自分の事が何一つ思い出せなかった。

 どこで生まれたのか、どこで育ったのか、どうやって生きていたのか、そういう知識だけはあるのに――思い出せない。ぞっとするような寒気が背筋を襲う。

 それに、服を着ていない。草木がちくちく痛いのは、素肌を晒していたからだったのだ。

 足の裏もぼこぼこになって、血の跡も滲んでいて痛い。


 これからどうすればいいのだろう。

 そう考えた時のことだった。


 先程までは明るかった草原が、光が遮断されて一気に暗くなる。

 同時に巻き起こる強風が全身を叩き、髪の毛がぱたぱたと舞い上がった。


「う……ごほっ!」


 突風に砂か何かが混ざっていたのだろう。

 大きく吸ってしまった息で詰まり、咳き込んでしまう。

 それから原因と思しき上へと顔を上げた瞬間――。


 ぎょろりと開く、黒い瞳と目が合った。

 ソレは大きな大きな翼を広げ、太陽を覆い隠す雲のように広がって。

 遥か下にいる小さな――自分を見て、巨大なくちばしをこれでもかと開く。


 くちばしの中に生えた、無数の牙がこちらを向く。

 唾液の垂れる黄ばんだ歯が映る。

 それは自分一人を軽々と噛み砕いて、歯の粕にしてしまいそうで。


 ここで死ぬのだと少女は思った。

 逃げることさえ忘れて、その場でただ座していた。


 何も分からず、何も思い出せず、化物とだけは分かる大きな大きな鳥に喰われて終わるのだと、生きることを諦めた。

 大きなくちばしが――。


「……え?」


 けれど、少女を肉の塊にすることはなかった。

 視界一杯に草原を覆う影が消え、その化物はあらぬ方向へと飛翔していたのだ。


 ずがんと地面を抉り土を削る音と共に、開いたくちばしが草原を深々と突き刺している。

 何故かその化物は少女を狙わず、何もない場所を喰おうと牙を剥いた。


 どうして?

 そう少女が首を傾げるのと同時に、一つの足音が背後から迫った。


 振り向いてみれば、そこに見えるのは自分と同じ少女で。

 ――全身から血を流して、なのに気にも留めない様子でこちらに歩み寄って来る。


「危な過ぎる。間一髪間に合ったからいいものの……どこまで逃げているんだ。私でなければとっくのとうに見失ってたわ。フン、こっちは戦闘できないんだぞあの馬鹿野郎めが……」

「あなた、は」

「いや馬鹿。自己紹介している時間があると思って……ああ、うん。何でもない。あの()()もいつまでも無力化はできない……ごほっ。とりあえず逃げるぞ」

「えっ。いや、でも……血が」

「うるさい致命傷だから気にするのは後にしろ、さっさと行くぞ。あと自分の足で立って走ってくれ、お前をおぶって逃げるとかできないから」

「あ、その……えっと」

「えでもそのでもない! 早く立てって……ああもう! 畜生! どいつもこいつも私を殺す気か、いいさならやってやる――遠隔式:侵入経路(ダイブ)


 その少女が不思議な言葉を言ったその時だった。

 力の抜けていた身体が、自分の意志とは無関係に動き出したのは。


「……ほとんど、反動もないか」


 そう呟いた彼女が化物から遠ざかるのに合わせて、自分の足も動き始める。

 なんだか不思議な感覚で、けれどあまり嫌悪はない。


「いたっ……」


 ちょっとだけ感じたのは、足裏の血豆が潰れた痛みだった。






 しばらく走る――走らされる?

 勝手に動いていた身体が急に止まって倒れそうになる頃には、辺りの景色は草原ではくなっていた。

 とにかく走り回ったせいか、目まぐるしく変化する景色を幾つ抜けたかはちょっと分からない。


 辺りには石造の建物が幾つも立っている。

 地面もごろごろと大きな石が転がっていて、もっと痛い。

 でもここなら化物からは見つからないかもしれない。


 ぜぇ、ぜぇ、と自分で走っていないのに不思議な疲労感を全身に覚えつつ、その場にへたり込む。

 隣の少女もそれは同じようで、血に混じって大量の汗を流していた。

 外傷は見当たらないし、もう新しく血は出ていないけれど……心配だ。


「ふぅ。ここならいいだろ。どこだか分からないということを除けばだが」

「……あの」


 白く細い腕で額の汗を拭う少女へ言葉を掛ける。

 血に濡れる白髪がだらりと垂れ、酷く充血した目がこちらを見据えた。


「……ありがとう。助けてくれて」

「お前にお礼を言われるのは実に奇怪な気分だが、受け取っておこうか」

「え、あ、……ごめんなさい」

「どうして謝る? ……ああ。私を覚えていない事実に後ろめたさは要らんぞ。ていうか私はお前を助けるよう無茶振りされたからそうしたまでだ」

「頼まれ、た?」


 誰に、なのだろう。

 首を傾げて考えるよりも早く、その少女が先に言う。


「ああソイツとお前には面識はないぞ。一方的に解放されたみたいなものだ」

「解放……された?」

「そうだ。その様子だとなんにも覚えちゃいないんだろうが――まぁ、思い出す必要もないか」

「どう、して?」

「失礼。野暮な事を言ったな。だが言葉通りだよ。思い出せないのなら既にお前の過去ではなくなっている。仮に私がその()()をお前に伝えたとしても、だ」

「……え、えっと」

「お前は長い間眠っていた。んで、ソイツがお前を起こした。それだけ覚えておけばいい」


 ふぅ。一息吐いて、彼女は酷く疲れた様子で目元を手で抑える。

 ここまで走ってきたからという以上に別の疲れがあるのだろう。


 きっと、動けない自分の身体を彼女が動かしていたからだ。


 分からないことが多いまでも、少女にはそれだけのことを考える頭は残っていた。

 目の前の白髪の少女は自分を助けてくれた。

 そしてここにはいないけれど、ソイツと呼ばれた誰かも。


「あの、身体は、大丈夫?」

「大丈夫とは言わんが気にするな。その内収まる」

「……私に何か、できる?」

「いいや何もない。強いて言えば、少し休ませてくれ」

「ご、ごめんなさい」


 手伝うつもりが、自分が無理に喋らせようとしていたのだ。

 彼女はその場に腰を下ろすと、「謝られても困る」とだけ告げて口を閉ざした。

 呼吸は先ほどと変わらずに荒いままであったが、次第に収まっていくのが見て取れた。


 自分も休もう。

 少し硬くて痛いけれど、彼女の目の前で座り一息吐く。


 まだ聞きたいことは沢山あったけれど、今は止めたほうが良さそうだ。

 だから、彼女に言われたことについて考えてみた。


 どうやら自分はずっと眠っていたらしい。

 話し方からして、一日や二日というわけではないのだろう、とも考える。


 ……そんなに長く眠り続けられるものなのだろうか?

 途中で起きるとかも、なかったのだろうか。


 考えはそんな浅いところで詰まってしまい、進展はしなかった。

 何も思い出せないのだから仕方ないのかもしれなかったけれど……。


 しばらくそうしている内、彼女がゆっくりと顔を上げる。

 既に目の充血は引いていて、息も大人しくなっていた。


「さて、いつまでもお前を裸にさせておくわけにもいかないが、どうするか……」

「あっ。服、着てなかったね」

「そんな程度の反応に驚きだが。私が男だったら違ったのか?」

「へ?」

「何でもない。倫理の欠如は元からか今だけかは知らんが……子供ではなかった、よな?」

「?」


 何やらぶつぶつと独り言と思われる呟きをした後、彼女はこう言う。


「ひとまず私の上着をやる。血塗れだがとりあえず裸は隠せる、寒さは――無理だな」

「いいの? ……ありがとう」


 彼女が羽織っていた服を投げ渡してくる。

 それを受け取ると、しかし彼女は微妙な表情を作った。


「……急に寒い。血を失い過ぎたかもしれない」

「え。それなら私、大丈夫だよ?」

「いや早く着ろ。アイツが戻って来たらうるさいだろう」

「う、うん。分かった……アイツ?」

「お前を起こした奴のことだ」


 そうして受け取った白い上着を羽織る。

 少しだけ自分には大きなものだったが、裾を少し捲れば手は出る程度だった。

 彼女の血がこびり付いて少しだけ変な感覚はあったけれど、外気から守られて温かい。


 前をどうしめればいいのか悩んでいると、そこは彼女が付けてくれた。

 紐を留め具に引っ掛けて結んでくれたけれど、難しそう。後で自分でできるだろうか。


「ねぇ、あの……聞いていい?」


 下の方の留め具を繋げる彼女に、そう問いかける。

 改めて聞こうとしたのは、これまで丁度いいタイミングがなかったからだ。

 丁度話が途切れていて手持無沙汰だったし、今なら聞けるだろうと。


「あなたの名前は……?」

「そうかまだ言っていなかったな。私のことはレイシスとでも呼んでくれればいいさ」

「じゃあ、私は?」

「――自分の名前、思い出せないか?」


 彼女は目を細める。

 紐を結び終えたのか、屈んでいた身体を起こしてこちらを凝視してきた。

 ほとんど同じ目線に立ってきた彼女、雪のような瞳が真っ直ぐにこちらを見据える。


「うん。私は、誰なの?」


 思い出せなかった。

 名前というものは分かるけれど、自分の名前は知らないのだ。

 けれど多分、目の前の少女は教えてくれないだろう……そんな気はしていた。


「さあな。私は何でも知っているわけじゃない。それに先ほども言っただろ、思い出せない過去は既にお前の物じゃない。もうお前と、過去の存在に関係はないのだと」


 ほら、やっぱりだ。

 それが何でかは分からないけれど、多分彼女は嘘を吐いている。

 名前を知らない、ということはないのだろう。


 何で隠しているのかは分からないけれど。

 目の前にそんな人がいるのに、聞かないで黙っているだなんてことはできなかった。


「ねぇ、教えて? レイシス」

「知ってどうするつもりだ? その記録を得ても、お前は()()()()にはならないぞ」

「ううん。そうじゃないの。えっと……でも、思い出せたらいいなと思うけど。まだ、よく分からないけど。レイシスは、言いたくないの?」

「いいや。どうしても知りたいのなら教えてもいいが、今のお前には不必要だしただの重荷にしかならないだけだ。知って好転するものが一つもない」

「じゃあ、教えて。私は知りたい。だって私、何も分からない。知りたい以外にどうしていいか分からない。どうして、ソイツは私を助けてくれたの? 理由があるんだよね?」

「……」

「ずっと眠ってたって、どのくらいなの?」

「……」

「ねぇ、どうして私には不必要なの?」

「……分かった」


 教えたくないのだろう。言いたくはないことなのだろう。

 でも、知ってもいい事なのだと彼女は言った。

 なら聞くのを止めたくはない。


 ずっと無言だった彼女は、やがては小さく頷いて。


「――お前の名はエクサル」


 最初にそう言って、ぽつぽつと語り始めた。

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