三十二話 便利屋という業務の引継ぎ
この都市には役割が明確な形として存在する。
それは《称号》という名称で付与されており、一般的な人と比べ上位の権限を持つ。
ただし、個々人の力によって権限が左右されることはない。例えば、ユラギのように能力を持っていても《称号》は得られないし、新たに獲得されることもない。
後は引き継がれるものとしてのみ存在する。
そのためユラギは称号があるという認識のみを持っており、与えられた権限については認知すらしていなかった。必要がないから教えられなかった、というのが正確なところであろう。
称号に拡張性がない以上、持たざる者が知ったところで意味がない。
――故にユラギはランシード・ソニアの事を何一つ知らなかった。
彼女がレイシスやアンテリアーゼと同じ立ち位置に居て、便利屋本来の意味は職業ではなかったのだ、ということも。
「アンタは知らなすぎたのよ。最初から知っていたとして、意味なんてなかったかもしれないけど」
モールド・アンテリアーゼは、そう言ってこちらを見下ろす。
「どうしてそんなことに……」
ただ、嫌な予感だけは脳裏を過っていた。
悪い何かが起きそうだと、そんな感情だけが渦巻いていたのだ。
「それを私に言われたって困るわ。とにかく彼女は、今や都市の意志によって私達を殺す機械になっている」
「――なら、俺が」
「行くなと言ったはずよ。外敵の対象として当然アンタも含まれてる」
「それでも、確かめないと」
「あっそう。じゃあ好きにしなさいよ」
突き放すように吐き捨て、彼女はそっぽを向いてしまう。
空を見れば、淀んだ色の奥に霞む塔が見える。
そう言われはしたが、ランシードの状態が分からない。
意識は保っているのか。それとも傀儡になっているのか……。
「でも、その自殺に意味はあるのかしら?」
一歩進もうとすると、背後から彼女は問うてくる。
「自殺……死ぬつもりはありません。止められるなら止めますが」
「無理でしょ。それとも本気の彼女を相手にできる自信があるわけ? それが誰よりもずっと一緒に居たアンタの感想ってこと?」
「いや……」
「――は、気持ち悪いのよ」
それは真横から、耳元で聞こえた台詞だった。
いつの間に移動していたんだと顔を向けたその視界に――銀色が広がる。
機械化した左腕が。
と、認識したと同時に眉間と鼻に強烈な激痛が伴い、大きく身体全体が仰け反った。
脳味噌が揺れ、飛ぶ寸前の意識で受け身など取れず、地面を転がって壁に叩き付けられる。
そこでようやく、盛大に吹っ飛ばされた身体が止まった。
鼻から噴き出した血を右手で押さえ、ユラギは立ち上がる。
「何を……?」
そう叫び、睨み付けるその先で。
振り抜いた拳を引っ込めながら、彼女もこちらを睨んでいた。
ただし今以上の追撃を行うつもりはなかったらしい。構えを解き、彼女はそこへと留まった。
「何も知らないアンタが止められるわけないでしょ」
「だから、それを確かめに行かないと」
「確かめもしない奴が吐ける台詞じゃないわね」
「はぁ……? 意味が、分かりませんね」
手で触れている鼻が激痛を発したまま治らない。
これは……骨でもぽっきり折れたのかもしれない。
ひとまず親指と人差し指で元の位置に捩じって戻し、手を離す。
いくら攻撃されたからって反撃するわけにもいかないが――何が言いたいのか、さっぱり分からない。
「間抜け面ね。自分の行いが正しいと信じて疑わないってのが更に滑稽」
「俺に喧嘩でも売ってるんです?」
「そう聞こえた? じゃあそうなんじゃないの。殴れば?」
「……真面目に答えてください」
彼女は目を細める。
「――そっちが真面目に答えなさいよ。なんで、知らなかったの?」
「それは。聞いたことが、ありません」
「聞かなかった、の間違いでしょう」
「それは、俺から聞くべきことでは……」
「どうして? 一つ屋根の下で共に暮らして、同じ仕事も共にこなして、あれほどの信頼を得て――何も知らないだなんてことがある?」
聞かなかった。
訊かなかった。
ユラギは彼女の立場も、境遇も、何を抱えているのかも――その一切を、自らの意志で話題を振ったことは一度もない。
そこに踏み入っていいのは、向こうから扉を開いた時だけだから。
「敢えてそうしていたと言いたいんでしょ。そうね、絶対心に踏み入って来ないなら警戒する必要がないものね。一定に保たれた距離というのはそれだけで居心地が良い。でも所詮は世渡りの処世術でしかない。そこから先へは進めないわ。人畜無害な傍観者でいる内は、誰かの物語には入れない」
「……随分と回りくどく言うんですね。何が言いたいんですか」
「簡単に言って欲しいの? いいわ、分かりやすくしてあげる」
彼女は見下す視線のまま、ゆっくりと距離を詰めてくる。
「今まで踏み込みもしなかった奴が今更何かしようだなんて、遅いのよ」
「それは……」
うまく、答えられなかった。
けれど自分が決定的な過ちを犯していたのだと、そう言われていることは分かる。
ユラギがランシードに対する接し方は常に一歩引いているものだった。
踏み込むチャンスはいくらでもあったというのに。
彼女が何故あの仕事をしていたのか。どうしてユラギを拾ったのか。そんなことさえ訊いたことがない。
寄せていた好意でさえ冗談めかしてしか言わず、自分の過去さえ彼女にほとんど話したことがない。
それは、聞かれなかったから。自分もまた、聞かなかった。
確かに居心地は良かったのだろう。
そんな日々が続けばいい、と本気で考えていたのも事実だ。
でも、いつかその日常が崩れてしまうことはなんとなく分かっていた。
彼女がどこまで優しい人間でも、依頼があれば当たり前のように人を殺す。誰かを助けられる手は、いつだって誰かを殺す凶器だった。
――当たり前、普通、そんなわけがない。
この世界の死が軽いのは確かだが、彼女の在り方は中でも逸脱したものだった。
当然、その死はいつか同じ形で返ってきてしまうだろう。
碌な死に方をしないと言っていたのは、そんな彼女の言葉だ。
だから自分も力を付けたのではないか? そんな日々を少しでも長く続けるために。
それなのに「どうして?」とは聞かなかったのだ。間違っていると認識できていた自分がいたのならば、形はどうあれ止めるべきだった。
ユラギは何もせず、ただ待っていただけ。
「話は終わり。で?」
「……そう、ですね」
壁伝いに起き上がる身体は、万全に程遠かった。
有象無象を退けるならともかくだ。
彼女を相手にするなら、確かに自殺以外の何物でもないだろう。
――そして、ここで素直に正面突破で確かめるような教えも受けていない。
「アンテリアーゼさんは今、どの区域に住んでいるんです」
「あら? 諦めが早いわね。もしかして女を鞍替えするつもりかしら」
「……ああ、じゃあいいです」
折角聞いたこちらが馬鹿だった。
踵を返して別の方角へ去ろうとすれば、襟首を掴んで引き戻される。
「は? ――冗談でしょうが。しょげるんじゃないわよ」
「いや……しょげてはないですが。冗談交える気分ではないので」
「いつもへらへら笑ってる薄っぺらい童貞がアンタの取り得じゃなかったの?」
「殺しますよお嬢様」
何も取り得ではないしその言い方は止めて欲しい。
今度こそ思ってもいないことで適当に言い返すと、彼女はけらけら笑った。
もしかして今のは励ましの亜種だったのだろうか。敢えて気分を紛らわせるためにやっていたのだとすれば――ふと自分に思い至る事だらけだったので、ユラギは考えるのを止めた。
機械側の手で背中をばしばし叩いてくるのをどうにか回避しつつ、ユラギは呟く。
「……俺、あなたのこと苦手なんですよ」
「でしょうね。それじゃ、着いてきなさい」
全く意に介せず、彼女は顎でくいと示した方向へ行ってしまう。
スラムとも、塔へ行く方角とも違う道。その先に生き残りが居るのだろう。
――事情が全て分かったわけではないが、今は彼女と共に向かうのが最善だ。
そう言い聞かせ、ユラギはもう一度、ランシードが居るであろう景色を見つめる。
どこか灰色にくすんだ世界。知っているようで何も知らなかったこの世界。
――果たして自分は、どうして生きているのだろうか。
心の中はぽっかりと空いていて、嫌な感覚だけがこびり付く。
自分だけが置いてかれたような現在。一体、何をすればいいのだろう。
「分からないことだらけだ。俺、こんなことばっかり……経験してんのかな」
覚えていない――というより、記憶がない。
数百年前は英雄と呼ばれていたらしい。
数年前は異世界に迷い込んでいた少年だった。
今度は記憶と職を失くした……青年?
そもそも数百年前ってなんだ。意味不明過ぎる。
しかして、その答えは何処にもない。
記憶のない自分が何をしていたのかなんて、誰も教えてはくれない。
自分の中の――確かにそこにいたはずの自分も、答えてはくれない。
ただ、不安だった。
自分という存在が分からなかった。
いつか今ある自分が消え去るような――それは流石に勘弁願いたいと溜息を吐き、強く後頭部を掻いて。
それから、見失わないように彼女を追い掛ける。
◇
――その日は、雨だった。
豪雨というわけではないが、とにかく冷たい雨。
暗雲は世界に影を落とし、舗装された道を雨粒が跳ねていた。
その日も、彼は雨に打たれていた。
今の状況と違う点は、その時の彼は生きる術を知らなかった事だ。
少なくとも雷を満足に扱う精神性など備えておらず、当然戦う力もなく、図太く立ち回る気力もない。その時の彼が持ち得る記憶と見た目は、異世界からやってきたごくごく普通の人間と何ら変わりのないスペックをしている。
あるのは学生服らしきボロボロの衣類一着のみ。
できるのは街中を幽霊のように彷徨うことだけ。
それでは煙たらがれるのは当然だろう。
分厚い本の主人公であればどうにか打開したかもしれないが、彼はそうではなかった。
そんな物語性はまだ何処にもなく、しばらくは浮浪者のように彷徨っているだけの日々。
この世界の人間と言葉は通じるが、会話にはならない。
誰も彼の言葉には耳を傾けないし、日に日に相手にされる回数も減っていく。
説明が下手だったのかもしれないし、焦りが先行していたのもあったかもしれない。まぁ、今となっては当時の状況など深く覚えているわけではなかったが。
みすぼらしく、痩せ細っていく身体。臭く汚くなっていく衣類。
けれども脱ぐ気にはなれず。身体を洗おうにも、そもそもどこの建物にだって入れない。
現代社会とは異なるが、極めて酷似した文明社会に於いて――何も持たない少年は、あまりに無力であった。
人々は歩いている。だがこちらを見向きもしない。
仮に接触しようものなら見合った報いがある。避けられるだけならまだ良い方だ。
だから人通りのない狭い路地へ逃げて、身体を縮込めて震えて視線をやり過ごす。
そこで眠り、朝を迎えて、することもできないから少しでも体力を失わないために眠る。
たまにどこかを徘徊し、どうにか打開する術が無いかを探る――。
だからその日は特別だった。その日は彼にとって珍しいことだった。
仰向けになって雨を受け入れるユラギの視界に、人影が映ったのだから。
普通の人間はこんな奥まった道に侵入しては来ない。
それに彼のような不審者が居る道を近道にしようとも考えないだろう。
けれどその人物は違っていた。
――淡く綺麗な緑色の髪を靡かせて、闇に溶けるような黒い衣服に身を包んで、無機質な目がこちらを見つめていた。
当時の彼には考える余裕がなかったため、しばらく雨に打たれていただけだったが。
数十秒経っても離れないその視線にようやく気付いて、ない力を振り絞って顔を上げる。
ああ、通り道の邪魔になっているのだ、とその時ようやく気が付いた。
何日も雨粒以外から栄養を取っていなかったからか、脳が上手く回っていないらしい。
彼女は、見下ろすばかりで何もしては来なかった。
道の邪魔なら退かせばいいものを、ただただ見つめるだけ。
そこには他の通行人にある軽蔑や嫌悪感はなく――だからだろうか。
気付けば、彼は叫んでいた。
「――助け、て。助けて、下さい」
うまく言葉に出来ていたかは怪しい。掠れて声の半分も碌に出力されていなかったかもしれない。
けれど、起き上がって縋りつくように懇願を見せた相手が何を言い出すかだなんて、例え言葉が通じなかったとしても伝わっただろう。
果たして彼女は、無言のままだった。
足元に縋りついたその姿をただただ見下ろしている。
お陰で彼女も雨に打たれてその服を無意味に濡らしていくが、さしてそれを気にする様子もない。
「お願いです。お腹が減って死にそうで、何でもしますから、何か――食べさせて、ください」
「……それは構わないけれど」
彼女は言って、彼の肩に手を置いた。
細く白く伸びる指先は冷たく――なのに温かさを抱いた。
「離して欲しい。悪いが今、食べ物の持ち合わせはないよ」
「そん、な、お願いします」
「今は持っていないのだよ。家に帰ればいくらでもあるが――でも、無償で君を助ける理由もないよ。それとも何かを返してくれるつもりはあるのかい」
「あ……返す、物……ない、けど、何でも、何でもします、から」
腹が鳴る。ずっと鳴っている。
空腹で今でも眩暈がしそうで、なりふり構ってはいられなくて。
「そうかい。それでも別にいいけれど」
思案気な顔をして、彼女はその真っ直ぐな瞳でこちらを見据える。
翡翠に彩られた宝石のような瞳。思わず魅入ってしまいそうになるその目が、瞬いて。
「――きっと、ここでのたれ死ぬより後悔するよ。何故なら私は、人殺しさ」
そう、言い放った彼女の背後に、からんと硬質な音が鳴る。
視界の片隅。銀色に光るそれは、雨に打たれて僅かに赤く辺りを染めていく。
それが誰かを殺めた血なのだと気付くのに、そう時間は要らなかった。
「私と一緒に来てみろ。君も最後は碌な死に方をしない」
どこまでも静謐で、澄んだ瞳が――こちらを射抜く。
それでも頼るのかと。
それでも変わらずに懇願するのかと言いたげで。
正直、恐怖した気持ちはあっただろう。冷静な頭であれば、その場で殺される想像まで広がってもおかしくはない光景だ。
けれど彼にはそんな余裕はない。目の前にぶら下がったご馳走を前にして、飢餓状態で逆える思考は持っていない。彼女が人殺しだとか、そんなのはどうでもいいことだった。
他の誰にも相手にされない中で、彼女だけが会話ですらない懇願に取り合ってくれた。
――その手を取ったのは、今でも間違いではないと思っている。
◇
目覚めた日から約十日が経過した。
アンテリアーゼと共に新設されたギルドに生存報告を行ってからというもの、目まぐるしい日々が続いている。
人手が足りない現状で戻ったユラギをギルドが離してくれなかったというのもあり、しばらくは復興作業や害種殲滅を率先して捌いていたのが理由の大半だろうか。
それとは別に都市内の現状把握をするのに数日掛かり、更に生活地盤を整えるのに数日を要した。
分かったことは、全く生きていけない環境ではないということだ。
元々が人の住む空間だったということもあり、大まかな以前との差は化物が徘徊しているか否かだろう。その化物も敵対行為を取らない種類も存在しており、適宜追い返して安全を確保するのも不可能ではなかった。
尤も、今まで働いていた都市の機能がほぼ停止しているのが痛手である。
まず無条件に流れていたエネルギーが供給されていない。主に電気に代わるそれが全くなくなってしまったため、そのエネルギーを元にしていた大部分の機械系統は使えなくなった。
医療系統の機関もほぼ動いていないし、傷や病を治す術がない。
以前は自動生成されていたらしい食糧関係も絶たれ、自分達で探すか作るしかなくなったのも大きな影響だろうか。
絶えず死者が出ているのも見過ごせない事実であった。
いつまでもその環境を続けるわけにはいかない、と残ったギルド主体で活動を行っているが……あまり良くない状況は続いている。
ユラギは一員としてその手伝いを行いつつ――久々に手が空いた日を利用して、とある場所までやってきていた。
ギルドからはそこまで離れていなかった、というのが幸いだろうか。
害種がうじゃうじゃ蔓延る立ち入り禁止指定区域だったら、休日とはいえ向かうのも厳しかっただろう。
「……ひっどいなこりゃ。いやまぁ、残ってるだけマシってものか」
そう呟き、古びた建物を見上げる。
――便利屋アリシード。二階事務所だった場所だ。
誰の姿も見えない装飾品店横の階段を上がり、目的地の扉を開け中へ入る。
がらんと空いたそこは埃臭く、しかし以前と変わらぬ姿のままであった。
ちょっとした廊下を抜ければ奥に長めの応接間。来客応対用の木製の机とクッションソファが見える。
そこは同時にリビングとしても扱っていたこともあり、生活雑貨もちらほらと並んでいた。
最奥にはランシードが使っていた事務机と本や資料の束が。
箱詰めに放置されていた物品などもこの辺りに纏められており、少し懐かしさを覚える。
「……あ」
左側奥、窓際の方へ視線を巡らせて、ユラギは小さく声を洩らす。
そこは料理をする際の簡素な調理台として設置していた場所だ。
端っこの方でぽつんと放置され、一際存在感のあるそれが目に入ったのだ。
温められたままになっていたのか、黒くこびり付いたコーヒーメーカー。
隣には逆さ吊りにされた白磁のカップが二つ。
「……こうして放置されてるの見ると、時間が経ったってのを実感させられるなぁ」
コーヒーはランシードが良く愛飲していた飲み物だった。
本格的な豆から挽いて抽出していたが、そんなにおいしくはなかったことを覚えている。
基本的に味がやたらと濃かったのだ。
かと思えば、ぽろっと感想をこぼしてしまった次の日はやたらと薄かったり。
分量や抽出時間が適切ではなかったのだろう。
――なら君が作ってみたまえ。
と、言われてそれより酷い出来を提出してしまった次の日からは濃い味で統一されたが。
これが案外ずっと飲んでいると癖になるもので、休息の日はそのあまりおいしくはない一杯で安らいでいた節はある。
「っと、思い出に浸るのは今度にしよう。こうして外出ができる時間も無限じゃない」
手に取っていたカップを置き、意識を切り替える。
そして目的の――彼女の事務机へと目をやった。
そうだ。この場所へ訪れたのはただ感傷に浸るためではない。
彼女とのやり取りを、過去の物へと置いて行ったわけではない。
あの日、ユラギが外の世界を彷徨っていたどこかの時間で都市は滅んだ。
正確には一部を残して切り離されたというべきか。
そして、ランシード・ソニアは外の人類の敵となった。
害種も人も区別はなく、一部に入り込もうとする外敵を排除する機構として。
だが原因が彼女に持たされた役割だというのであれば、それは彼女の意志ではない。
「文字を勉強しといて良かったよ。まぁ全部は読めないけど……これだ」
彼女の事務机周りを片端から漁り、棚から引っ張り出したそれを手に取る。
彼女のことについて纏められている書類。彼女の力について記されたものだ。
彼女ならば、自分の意志以外で何者かに動かされているなら記録を残すはずだと考えた。
そして、その媒体が紙に記されているとも。
そう予想ができたのは、よく彼女が紙に書き留めている姿を見ていたからだ。
別に機械音痴ではなかったのだろう。少なくとも戦闘に用いる装備には最新鋭の物が使われている。
紙に記す、という行為が当たり前であったユラギの視点では違和感は抱かなかったが――。
リシュエルやレイシスが最新機器を使う中で、筆と紙で情報の全てを処理していることに疑問は抱くべきだった。
彼女は紙媒体を好んでいたのではない。
情報を抜かれないように紙媒体に保存しているのだ、と気付いたのはごく最近のこと。
「ランシーを呪縛から解放するなら、その前に彼女のことを知らないと」
目的の資料を纏め、持ってきた鞄に詰めていく。
悲しいかな、量が多すぎて全ての資料は確保できそうにない。仕事に関わる情報も大量に残されているはずだから、いつかは全て持って行ってやりたいとは思っているが、まずはこれだけ。
目的の物を手に入れたユラギは最後に置いて行く資料を一塊に纏め、事務所を後にする。
一応は害種が出没する区画なため、流石にここで読み耽るわけには行かない。
「……紙、ね」
帰路につく間、そう呟いた。
特にランシードを意識していたわけではないが、それはユラギも意識的に行っていたものだったからだ。
あまりその行為が役立ったことはなかったが、軽いメモを取ることはやっていた。
自分の記憶力が信じられないから、外部に残すことで物忘れを防止する程度の意味合いであったが――。
あの時、目覚めた時に着ていた黒づくめの服の中を改めて漁ると、中に知らないメモが挟まっていることに気が付いた。
うっかり服ごと捨てなくてよかったとメモを見れば、短い文章が血文字で書かれていたのだ。
『忘れるな。お前はお前だ』
それ単体では意味の分からない文章。
ただ、それを自分の知らない自分が書いていたというのであれば、嫌でも考えさせられる。
結局、文章の意図を掴み切ることはできなかったが……。
それでも、これまで通りにメモ癖は続けて行こうと思う。
自分と言う存在を見失わぬように。




