二十話 記憶の廻廊
どこか朧げな意識の中にユラギはいた。
ぼんやりと流れゆく光景は、灰に染まった建物と、空と、揺らめく赤い炎。
「――揺樹よ、貴様はこれで本当によかったのか?」
聞いたこともないのにどこか懐かしいような呼び声が隣から聞こえてきて、ふとそちらの方へ振り向けば――そこにはやはり、見慣れぬ横顔が映っている。
それは大人びた女性だった。深紅の異装を身に纏い、背中まで伸びる長い黒髪が特徴的な長身の女性だ。彼女の目元に僅か掛かった前髪が、その表情に憂うような陰を落としていた。
女性はもう一度「揺樹」と口にしてから、つりあがった眦で睨むよう視線を合わせてくる。燃え上がるような緋色の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
「どう、でしょうね。結末としてはまあ及第点……と言えたらよかったんですが」
それに肩を竦めて返事をする――揺樹と呼ばれる少年。
ああ、そうか、これは今の自分の話ではないのか――と。霞掛かった意識の中で、ユラギはようやくそれを認識した。
彼は、続けて女性へ言う。
「けどこれしか方法もなかったので。いいんですよ」
「貴様がいいと言うならば……妾は今更口など挟まんつもりじゃが」
「優しいんですね」
「――黙れ。感傷に浸る時間などもうない。行うならばとっととやるぞ。貴様の身体は、もうそこまで来ている」
女性はぎりぎりと奥歯を噛み締め、その手を揺樹の頭に乗せた。その時、わしゃわしゃと乱雑に撫で回される灰色の髪が、僅かに視界に見えて。なんだろう――ユラギは気になって彼の身体を見やると、彼の肌もまた髪の毛と同じ灰色に染まっていた。
生気の欠片も感じぬ肌にはところどころひびが入り、控えめに言ってもボロボロな姿になっている。
そんな揺樹は言う。
「はは、そうですか。あぁ、やっと此処まで来れたのになあ……後は、あなたに託します」
「黙れ。妾がしてやることなど何もないわ。そも勝手にこのようなモノを救おうとしたのは貴様じゃぞ、妾に関係などあるものか」
揺樹は言う。
「でも付いて来てくれたじゃないですか」
「貴様が妾に付いて来ただけじゃろうが。勝手に纏わり付いて勝手にずけずけと入り込んで、要らぬお節介を焼き続けたのは貴様だ。逆だったことなど一度もありはせん」
「なのに拒まなかったんですね。本当は振り払えば羽虫みたいに蹴散らせたのに」
「それは、貴様が――」
「だから、今回もそうだと……嬉しいです」
揺樹は言う。灰色に染まった身体を女性に支えられて、今にも死にゆく蚊のような声で。
「俺を――……」
最後まで言い切ることはなく、その言葉はぷつりと途切れた。彼は崩れ落ちるように女性の腕の中へ抱き抱えられ、そのまま動かなくなってしまう。
女性はしばらく彼を抱いたまであったが――やがて一人、吐き捨てるように宣言する。
「……貴様との短き旅路、決して嫌いではなかったぞ。じゃから――今更自分勝手に死ねるとは思うなよ。大馬鹿者めが」
そこで、ユラギの景色は真っ暗になった。
――ふと、次に目を開ける。
そこは雷が絶え間なく降り注ぐ世界。
漂う闇と落雷だけが全ての、常世の光景。
そこにユラギは倒れていた。
虚ろな目をどこへともなく向け、闇を貫く雷を朧げに見続ける。
まるで夢のような光景。
しばらくそれを見続けていたユラギは重い腰を上げ、ゆっくりと立ち上がった。
「ここは」
ぽつりと呟く言葉は乱れ落ちる落雷に掻き消されてしまったが――しかし、その言葉には応えるかのように視界が開けていった。同時に意識も鮮明になっていく。
意識が完全にはっきりすると、次は闇の中に一筋の道が架かった。
赤い、赤い、絨毯の一本道。それがユラギを始点として現れると、どこまでも奥へと敷かれていく。変わらず雷は降り注いでいるものの、丁寧に敷かれたその道だけは避けて落ちているらしい。
地面という概念があるのかどうかは知らないが、そこで初めて雷がどこまでも下方へ突き抜けていることを知る。
――果たしてこれはなんなのか。さっきの記憶は一体なんの記憶だったのか。あの女性は誰だったのか。今は何をしていいものなのか、何をするべきなのか。それすら分からぬまま、ユラギはたどたどしい足取りで敷かれた道をただ歩く。
まるでそうしろと言われたみたいなノリで敷かれたのだ。だったら、歩いてみるしかないだろう。
さて……道の先に終わりはあるのだろうか。
歩けども歩けども景色は変わらないが、それは唐突に終わってしまいそうなほど不安定なのもまた確かである。
当然、行き着く先に何があるのかも全くの不明だ。
歩きながら四方へ注意を向けていると、どうやらこの暗闇の世界に降り注いでいるのが雷だけではないことにも気が付く。
それは、文字だった。到底読み取ることは不可能だが、確かにそれは文字だとしか言えない灰色の何かがぱらぱらと、粉雪のように舞っている。常闇と雷の合間を縫うようふらふら、緩やかに文字が舞い落ちている――。
一言で感想にすれば意味不明であったが、しかし同時にユラギはこの光景が何を意味しているのかを徐々に理解し始めていた。
「これは、俺の精神世界みたいな……アレね、多分」
……思い出してきた。
ここに来る前、というか――意識を失う前だろう。アリムに何かをされたことで、ユラギは己すら知らないブラックボックスを強制的に開けてしまったのだ。それがこの精神世界。
記憶のない空白の己が歩んできたのであろう――これはそういう話なんだろう、きっと。六百年前とアリムは言っていたっけ?
ならあの光景は……あの会話は……彼女は。少なく見積っても、最近の話ではない。数百年前、もし自分が本当に英雄などと呼ばれる類の奇跡を起こしていたのなら――アレはそういう会話だったのだろうか。
イマイチ己が身として実感が湧かないのは何故だろう。記憶を覗いた今でさえあれが自分だとは思えない。とはいえ他人の空似でもないだろうし、単に己の無意識とやらがこの記憶を拒絶しているのかもしれないが。
……見てしまった以上はもう、なかったことにできるわけもない。
レイシスの言葉が頭に蘇る。
記憶を引き継いだ次の私が、私であるかという話だ。記憶の転写という形で何度も転生を繰り返す彼女は次の自分が自分であるかは分からないと言う。それは何も未来に限った話ではなく、過去の自分が自分であるかも分からない、ということになるわけだが……。
「そういうことなら、先に進むだけか」
相場は大体決まっているものだ、とユラギは一人笑い飛ばす。ここがそういった世界なら直接的な危険が及ぶわけではないのだ。焦る必要はどこにもない。
意識もしっかりしていて、自分が何をされて此処にいるのかも正確に把握している。
なのに意識が現実へと戻らないのは、目の前の光景が原因だろう。
天から降り注ぐ雷に見覚えがあるわけではない、けれど直感は己の雷とそれを同一と言っている――アレが、この世界に降る雷が、能力の鍵だと己の中の何かが叫んでいる。
だから先に進めば何かは得られる。
レイシスの話を聞く限り今それを得ることは必ずしも良くはなさそうだが、その辺りは考えても仕方ない。
ここに叩き落したのはアリムの仕業によるものだし、来てしまったのに何もせずに帰るはずがない。
「読んでみようか、まずは――」
絨毯の上をゆっくりと歩きながら、ユラギは雷と共に宙を揺らめき落下する文字――その一つを掴み取った。灰色の文字。触ったところで感触はなく、ただそこにあるという概念だけが手の内に伝わっている。
手の内を開く。そこに書かれている文字はやはり読めないものだった。少なくともこの世界の文字ではない。元居た世界の文字でもない。見覚えのない、何らかの記号。
「……ぁ――なん、だ――! これ、は」
だがそれを認識した瞬間、脳味噌が焼かれるような激しい痛みがユラギを襲った。
全身が燃えるような、内側から灼かれるような痛み。
――視界が灰色に染まり、また、別の光景が展開される。
――ぽつり。ぽつり。降り頻る雨の中、少年が地面を這いつくばっている。
濡れた地面に爪を立て、傷と泥に塗れた身体は赤い染みを下に作っている。
炎ではなく、その赤は血の色だった。
ここはと見渡した視界に映っているのは――高い、高い、ビル群。マンホールに滲む血の筋が雨に打たれて消える様を見、ここが元居た世界の光景だと思い出す。
なぜ今、そんな記憶が思い起こされる――? 少年は、ユラギは、顔を上げた。
先程まで右手に握っていた文字はなく、そこにあるのは夥しい血だけ。
記憶だからだろうか。不思議と痛みはない。
「……ああ。俺、ここで……死んだっけ」
ここで立つ記憶はなかったが――不思議と、普通に地面に立ち上がった。
どうやら場面の再生であっても記憶の再生ではないらしい。
腹部を見やるとそこは目も当てられないほどに抉れていたけれど、別に痛くはなかった。
「そうだ。君は此処で死んだ」
どこからか声が聞こえる。
そう、ユラギ――いや、揺樹という少年は、ここで確かに死んだのだ。死因はなんであっただろうか。今となっては何故そうなったか記憶に薄いが――事故ではなかった。自殺でもなかった。病気でもなかった。
場所は路地裏。そして夥しい量の血と、身体の傷と……まあそんな、下らない死だったのは言うまでもない。
「そして異世界……あっちで俺は目覚めたんだっけ」
「そうだ。此処で死んだ君の魂は転生を果たした」
「――で、誰だよお前?」
振り返れば、路地裏の狭い通路には黒い影がただ存在していた。
そいつがユラギに笑う。そいつが喋り掛けて来ていた人物か……見覚えはないが。
「おいおい。口調が生前に戻っているじゃないか」
「うるせぇな……こんな場面を切り取りやがって。何だって俺の墓場で会話をしなくちゃいけない」
「それを再生したのは君自身だからね。そんなこと言われても知らないよこっちは」
「――それも、そうだ。ああ、そうだ。そうだった……取り乱した。俺はもう、あの頃の揺樹じゃないことを思わず忘れそうになっていたよ」
「あの頃の君は喧嘩ばかりしていたからね。本当、どうしようもないロクデナシだったな」
「――うるせぇな」
「ほらそういうとこだよ君」
まぁでもこれは場面が悪いね。そう黒い影は肩を竦める。
「さて。君は何か大事な事を忘れているね」
「それは分かってるよ。あの女性だって……きっと」
「そういうことじゃない。君が転生した理由と生きている理由をさ、綺麗さっぱり忘れちゃってるもんだからさ」
「転生した……理由? それは」
「いや君が知らない事はこっちも知らないよ。でも困ったな」
「俺だって覚えてたら困らないし苦労はしないけどね……ここで死んだことまでは覚えてるよ。でも、その後のことは――ランシーに助けられるより前のことは、何も覚えちゃいない」
「六百年前の英雄とか言われてたね。そういえば」
「そうだね、記憶にないけど。じゃあ俺は何、世界でも救ったの……? 六百年前? 流石に冗談か間違いか何かじゃないのかね」
「ロクデナシに救える世界じゃないよね。普通に考えて」
「だからうるせぇって……なんでもない」
吐き捨てようとして、しかし途中で踏み留まる。
こんなところで叫んだって仕方ないのだ。今会話をしているのは――というか自分以外に何がある。こんな恥ずかしい自問自答があるとは思わなかったよ、本当に。
黒い影は路地の壁に体重を預けやれやれといった仕草を取った。
やかましいわ。
「だからどうしろって話なんだけど……」
「それはそう。君は事実をただ伝えられただけだしね」
「本当に事実かも怪しいけど。六百年って、俺死んでるでしょ」
「ここで死んだ君がそんなこと言うんだ」
「……分かってる。きっと何かあったんだろ、俺にも色々さ。知らないけど」
「えぇ、そんな他人事みたいに言わなくてもいいじゃないか。しょげないで英雄くん」
「お前さては俺じゃないだろぶっ飛ばすぞマジで」
「はは」
何笑ってんだこいつ。
「でも色々見えてきたね。普通の人間はさ、こんな精神世界とか持ってないからね」
「いや……知らんけど」
「持ってないんだよ」
――珍しくそいつは断言する。
ユラギの知らないことは知らないと言った、その口で。
「君の記憶は喪失しているんじゃない。封印されているだけだ」
「……もしかして、あの女性?」
「君自身がそうするよう頼んだ」
「何故?」
「そうする必要があったから」
「……必要、ねぇ。覚えていることがいけないと思ったのか。その俺は」
ならやっぱり――過去の事を知りたがらなかったのは、自分自身が原因なわけだ。
何故か知ろうとしなかったんじゃなくて、それはさせないように自分自身で細工したのだ。きっと。
「いやそれにしても君は酷い奴だね全く。好意を寄せてくれた女性に自分の記憶を消してくれって頼んだんだからさ」
「……んなこと、俺に言われたって」
「そうだよ仕方ないことだ。言われなくたって彼女はそうしたさ。でなきゃ君はあそこで消滅してたんだから」
「死ぬんじゃなくて、消滅する?」
「うん。君は知らないけど、だから君は酷い奴だよ」
「……何をしたんだ、本当に。俺は」
「だから知らないって」
「嘘吐け、お前は知ってるだろ。この中にいる俺なんだろお前。だったらお前は知ってる俺だ。知らせちゃいけないから、俺に言わないだけで――」
「はは」
再び黒い影は笑う。しかし今度は乾いたような、どこか感情を意図的に失わせたような――軽薄で取り繕ったような笑み。
「目が覚めたら、いやごめん。あの雷の世界に戻ったらとにかく前に進むんだ」
短い間の後、黒い影はそう告げる。
「元よりそのつもりだったけど」
「流石は俺。いつでも覚悟完了しちゃってる系男子だね」
「お前うざいな……」
「よく言われる。君もよく言われない?」
「言われない」
「そっか。じゃあ周りに恵まれてるんだね。その絆は大事にした方がいいと思います」
「なんで自分と自分で面接染みた会話をさせられているのか分からないけど調子狂うから心底止めて欲しい」
「いや実は俺も恥ずかしいんだよね」
「お前さ……」
「真面目な話に戻ろう。行き止まりに行ったら、そこの雷に触るんだ。それで現実へ戻れるからね」
「戻れるだけか?」
「そんなわけないでしょ」
ぴしゃりと言い切ると、その影は跡形もなく消失した。
どこからともなく、その声は上の方から続けて。
「触ったら君の雷は強くなる。具体的に言えば回数制限がなくなるよ。でも忠告しておくと――日に一発以上は絶対打つな」
雨が止む。
晴れた世界はやがて徐々に色を失い、灰色に覆われて――泡沫のように消え去った。
「……全く、忙しい世界なことで」
そうして気付けば、既に目の前には降り注ぐ雷が。
どこまでも続く赤い道。そこに戻ってきたユラギは、己の右手へ視線をやった。
「回数制限……きっかけはアレだよな、多分」
遺産の力で無理矢理二回ぶっ放した時のことを思い起こす。あの時は外部の力を頼ったわけだが――そんな言い方をされちゃ、嫌でも理解する。
やはりレイシスが言っていた台詞は正しかったのだ。この雷はユラギ自身で使いこなした結果のもの。決して力が弱いとか、制御できないから一発しか打てないんじゃない。
制限は恐らく敢えて自分が自分に課した結果――あの自分が言っていた忠告は、ならばそういうことだ。
どうしようもない代償があるのだ。
恐らく、何発も打つと発生するような代償が。
一言も教えちゃくれなかったがこれはそういう類の能力なのだろう――そんなものをどこで覚えてきたんだか知らないけれど。
「こんなしょぼくれた能力で代償かよ……いや、そうじゃないか。そうじゃないんだな。しょぼくれた能力に落とし込んだから、今は代償がないんだ」
己自身に言い聞かせるように言って――ユラギは、強く拳を握り込んだ。
その手の内に、ばちり、雷が迸った。
「……嫌なモノを知ってしまったよ。本当にね」




