十二話 共同業務、初めての
「こんなことがありまして」
便利屋アリシード二階事務所。
応接間のソファに深く腰を沈めるユラギは、本日の出来事をランシードに報告していた。
彼女は薄手の黒いニット系の服に灰色のパンツスタイルという完全なオフの恰好で、その話をうんうんと聞いている。因みに今更ではあるのだが、この都市の服装は雑多なだけで普通に洋服紛いの服が存在している。洋という概念がないだけだ。
ランシードは片手間に本を読みながらユラギの話を聞いており、全てが終わったタイミングでコーヒーに口を付ける。ごくりと小さく喉を鳴らして、それからこう言った。
「そうかい。それは大変だったのだろうね、ユラギ」
「まあ……服はなんとか、今乾かしてますが」
ユラギは首飾りを弄りつつ、新しく着替えたシャツへ視線を落とす。
「そっちの話ではなくてね。秘境の方だよ」
苦笑を浮かべるランシード。
彼女は本を閉じて傍に置くと、顎を手の平に乗せて肘をつく。
「まあもっとも、君にとっては女性と戯れるほうが重要だったらしい」
「……えっ? あ、いや、違いますよ」
予想外からの刃にユラギは狼狽える。まさかランシードがそんなことを言ってくるなんて、流石に動揺を隠せない。
「お、俺はランシーだけですから!」
「はぁ、何を言っているのだか……非難したつもりはないよ。ともかく、おめでとう」
これで立派な冒険者の一員だ、と。ランシードの表情は特段変わりはしなかったが、素直に褒めてくれているのは確かだった。
まだ最低辺の人級とはいえど、冒険者であることに違いはない。実力を保証された、という証明があること自体が便利屋にとっては大きいのだ。
「しかし、全部私に話してよかったのかい。秘密の話なんだろう」
「ランシーに隠し事をしても意味なんてありませんからね」
「私は何も知らなかったぞ? 世界とやらに興味なんて無いが、それでもキースレッド・ブルームについては伏せた方が良かったと思うけどね」
細目で軽く窘めてくる。
彼女の言う通り、本当なら黙っていた方がいいのだろう。
けれど相手がランシーなら話は別だ。彼女を前にして隠しておきたいことなんて、その胸に埋もれたい衝動以外に一つとしてありはしない。
「ランシーだから俺は話すんですよ」
「……ああそうかい。分かったよ、君の信頼は充分に分かってる」
溜息混じりにそう言って。
「人と人の繋がりは大事だからね。ちゃんと仲良くしてあげるんだよ」
彼女はコーヒーを飲み干すとカップを机の端に置く。その後少しだけ椅子を引いて、傍に積んである資料の束から一番上に乗っている紙束を引ったくる。
それらを机に並べ、ちょいちょいと手招きをしてきた。
「――さて、依頼の話をするよ。一人前になった君にも手伝って貰うからね」
「……お、俺ですか?」
「なんだ、嫌かい。嫌なら私一人でやるけれど」
「ああいえ! そうじゃなくて……俺も、ランシーと一緒に行っていいんですか」
「だからそう言っているじゃないか」
ランシードは中指で机を何度も叩いて催促してくる。いや、まさか本当に一緒に仕事ができるだなんて。
慌ててユラギはソファから離れ、机にかじりつく。
そして並べられた紙面に目を通すものの、当然書かれてある文字の九割は理解できないものだらけだった。分かるのは単語くらいなものである。
その内読めるようになるための勉強は続けているつもりなのだが、如何せん会話が通じてしまうため、そこまで必死になれないというか。
ランシードが指でなぞりながら説明を付けてくれる。
「依頼主は都市の最東端に住まう館の主、モールド・バレルという《機械技師》の貴族だ」
「その機械技師っていうのは?」
「《科学者》と同じような称号だよ。彼は戦闘用の自動人形制作を許されている人物だね」
「それはまた凄いところからの依頼ですね……一体どんな内容なんですか?」
「そうだね、話すと少し複雑になるけれど――」
依頼の内容を簡単に言えば、モールド・バレルの娘であるアンテリアーゼという少女の仕事を手伝うことである。
「つい先日、モールド家に仕事の取引が持ち掛けられたそうなんだ。《機械技師》として最高級の自動人形を造ってくれ、とね」
「……あれ? 娘さんがやるってことなんですか?」
「ああ。モールド・バレル本人が隣国の都市へ出張しているらしいのさ。それで娘に任せるということなんだが、仕事については問題ないよ。娘のアンテリアーゼもつい最近《機械技師》の称号を取得している……ただ、少し性格に難があるらしくてね」
ランシードは紙束の下から一枚引き抜き、机に置いた。そこに写っているのは少女の写真だ。
ドレス姿の金髪少女が仁王立ちで映っている。
上がり気味の眉尻に意志の強そうな紫紺の瞳、開かれた口からは犬歯が覗き、それが彼女に強気なイメージを与えていた。
背景にある豪華な建物は彼女の住む館だろうか。
「この子がモールド・アンテリアーゼさんですか」
「そうなるね。普通に可愛らしい子だとは思うのだけれど……壊滅的に、社交性がないらしいのだよ」
「ああ、なるほど……そういう」
写真だけで判断するのは失礼だが、言われて納得する程度には理解が出来てしまった自分がいた。貴族の娘にしては無邪気過ぎるというか、じゃじゃ馬のような雰囲気があるような。
「どの程度なんですかね」
「壊滅的と言われるくらいだから、初対面の仕事相手に喧嘩を売るくらいはするのではないのかな」
うわ。キースの顔が頭に浮かんできた。
「……で、俺とランシーはこの子と相手の富豪との仕事が取り消されないように補佐をする、と」
「いいや――私がモールド・アンテリアーゼに変装して、直接取引を行う。富豪が見えるのは明日だそうだ」
「……………………え?」
思わず写真とランシードを二度見してしまった。
「何だい。言われずとも分かっているよ、私はこの子みたく可愛くはないよ」
「え? 間違いなくランシーの方が可愛いですよ」
「……全く。君は軽々しくお世辞を吐いてくれるけどね」
そう彼女は謙遜するが、ユラギはそうは思わなかった。
確かにこの子の容姿は整っているし可愛いのも認める。貴族の娘だからか上品な気質はあるし、育ちの良さは写真の中にも垣間見えていた。
けれどランシードの方が絶対可愛い。それは断言できる。
「いや? 俺はランシーの方が好きですよ」
「分かった、分かった。君の気持ちは十分に受け取った。今はそういう話じゃないだろう……」
はて何の話だったか。確かモールド・アンテリアーゼに変装を……はっ。
「ああ、胸の問題がありますね」
「そうだね。ただアンテリアーゼは機械技師になってから日も浅い。容姿の方は世間に浸透していないみたいだから、多少の差異は誤魔化せるはずだよ」
無視されてしまった。
けれどこれ以上突っ込もうものなら鉄拳が飛んでくること間違いなしなので、ユラギは大人しく黙った。
全く、ランシードは少し自分の容姿に自信がなさすぎる。それを本心から思っているのは色々と宜しくない、とユラギは考えてしまうのだ。余計なお世話だけれど。
例えば女の可愛さは時として凶悪な武器にもなる。強い可愛いクールで優しい巨乳のお姉さんだなんて全世界の男性が一瞬で落ちてしまう可能性さえあるのに、なんて勿体ないことを。
「何かくだらないことを考えているね、君は」
「ま、まさかそんな……ランシーが少女に扮するのは分かりましたが、俺がやることってあるんですか?」
疑問はそこだ。ランシードが少女の姿をするのは可能だろうが、それだとユラギが出る幕などどこにもないような気が。
「うん、何を言っているんだい? 君には《機械技師》の助手、もとい付き人をして貰うんだよ――本物のね」
「……ランシーの付き人をするんじゃなくて?」
「当たり前だろう。私がアンテリアーゼの代わりをするということは、その間彼女を自由にして貰っては困るということでもあるのだよ。彼女の傍について、私が代わっている事実を上手く誤魔化すのが君の仕事だ」
ランシードは書類を纏めて紐で縛り上げた。どうせユラギでは文を読めないと知っているから、じっくり読ませるつもりもなかったのだろう。
ランシードの説明により依頼内容は理解したので、それはいいのだが。
「俺、またお守りみたいな役回りをするんですね」
「またとはなんだい、立派な仕事だよ。それに女たらしの君には丁度よいのではないかな。相手は可愛いご令嬢だよ」
「女たらし!? すごい不名誉な誤解なんですけど俺そんなんじゃないですからね、本当ですからね? ランシーだから言うんですからね」
「君は誰を前にしても可愛いと言いそうだけど」
「俺そんな風に見られてたんですか……」
ランシードは顎に手を当てた。
「だって君、私と出会ってから私に何回好きだとか可愛いだとか言ったか覚えてもいないだろう」
「覚えてますよ、それはもう星の数ほど」
「それは覚えていないというんだ。まあ、その。あまり軽々しくそういうことを言ってはいけないからね」
軽々しく言っているつもりはなかったんだけど。
ランシードは深い溜息を吐いた。
「――君、背中から刺されて死んでも知らないよ」
◇
依頼の決行日がやってきた。
それまでにユラギは燕尾服を整え、新品のぱりっとした正装に身を包んでいる。珍しく髪も整えたのだが、ワックスのべたついた感覚はあまり慣れないものだった。
とはいえ外見的には執事らしくなったのかもしれない。これで一日ご令嬢の相手をするとなると既に疲労が見えてきそうだった。
社交性皆無の相手に社交性ばりばりの服で挑むのはどうかといった気持ちはあったのだが、館で雇われた本物の執事から送られてきたとあっては着用以外の選択肢などなかったのだろう。
これでラフなシャツなんかで行ったら舐め切っている。
そして隣のランシードはといえば、
「さっきからなんだというのだね、ユラギ。そうまじまじと見ないで欲しいのだけれど」
「先に言っておきますが、冗談ではなく似合っていますよ」
同じく送られてきたドレスに身を包んだランシードが、若干顔を俯かせてユラギから視線を外していた。アンテリアーゼと同じ金色の髪を被った姿はとてもよく似合っている。横顔から覗かせる長い睫毛が、すらりと伸びた鼻筋が、細くすぼめられた唇がとても可憐に見えた。薄く延ばされたチークやルージュも相まって、彼女の女らしさをより一層高めている。
クリーム色のお洒落なドレスも引き立てに一役買っていた。それはもう美術館に飾られる絵画のように美しいと言えるだろう。
「……嬉しくはない」
「今からランシーは富豪と取引をするモールド・アンテリアーゼなのですから、それらしく振舞って下さいよ」
「き、君に心配される謂れはないよ。君こそ失敗しないで上手くやるんだ、分かったかい」
「承知致しました。アンテリアーゼ様」
右手を胸に当てて頭を深く下げる。それっぽい恰好が決まったな――ちらりとランシードを見やる。
「そういうところだよ」
細目で言うと、彼女はすたすた先を歩いて行ってしまった。
置いてかれないようにユラギも付いていく。今の台詞は一体、なんだろう……そんなに出来がよくはなかったのかもしれない。気を付けよう。
開かれた門を潜ると、そこは別世界だった。
写真の背景にあった館の周辺には沢山の自動人形が徘徊しており、二人を見つけると各々視線を浴びせてくる。
しかしそれらは数秒で終了し、自動人形は再び徘徊を始めていった。
さて、侵入者を迎撃するシステムでも組まれているのだろうか。自動人形の大群と過去にやりあったユラギは生きた心地がしないのだが、襲ってこないことが分かっていれば大丈夫だ。
「お待ちしておりました――《便利屋アリシード》のお二方。こちらへどうぞ」
館の入口で出迎えをしてくれたのは老齢の執事だった。白髪交じりの頭髪を後ろに流した貫禄ある燕尾服で、とても似合っている。ユラギのそれがコスプレに見えてしまいそうなほどに。
「ユラギ、ここで別れるよ――いいえ、お出迎えご苦労様」
あ、演技が始まっ……な、なんてクオリティだ。言われなければ誰もランシードがランシードであるなどと気付けないのではなかろうか。
老齢の執事がこちらへ会釈をし、ランシードと共に奥へと消えていく。
「こちらも――宜しくお願いします。本日はアンテリアーゼ様の付き人を務めさせて頂きます、《便利屋アリシード》のユラギと申します」
その背を見送った後、ユラギは入口で構えていたもう一人の人物へ頭を下げた。執事ではなく、メイド服の使用人である。
メイド服の彼女は金色の目を少し驚かせたようにして、それからくすりと笑む。目の上で切り揃えられた漆黒の髪が、少しだけ左右へ揺れた。
「あー、ごめん。キャラ作ってくれたなら申し訳ないけど……それ、やめた方がいいかも」
そして、右手を顔の前に持ってきて片目を閉じるなど、メイドらしからぬ謝罪を行ってきた。こちらは老齢の執事とは違って、そういった風格はない――いや。わざと無くしていたのか。
「……やっぱり? 一応、練習だけはしておいたんですけどね」
けれどそちらの方がやりすい、とユラギは安堵した。付け焼き刃な上に想像した執事像だったので慇懃無礼な可能性も大いにあったからだ。
「あははーごめんね。聞いてるかもしれないけど、アリアにそういうことしたら殴ってくると思うからさ」
「あー……そんな感じなんですね……分かりました。その《アリア》ってのは、彼女の愛称ですか」
殴るというランシードの予想はほとんど的中したようなものだった。ユラギはただただ苦笑いをしながら、メイドへそう返す。アンテリアーゼの略でアリア、ね……。
「そうだけど、最初だけはフルネームで呼んであげてね。そう呼べって言われてからそう呼んであげないと……怒るかも」
それだけで怒ってしまうのか。
いや、最初から愛称なんかで呼ばれたら怒るのは当然か。勿論愛称で呼んだりなどしないけど。
「私も自己紹介しておくね。私はメイドのシルヴィ、さっきの執事が執事長のジョゼフさん。まあ私も仕事があって、ユラギくんとは一緒に行けないんだけど……」
申し訳なさそうに彼女は謝る。
「いえ、大丈夫です。彼女は館のどこかにはいるんですよね?」
「アリアは自室にいるよ。今日は仕事を手伝ってくれる執事が来るって言ってあるから」
「分かりましたシルヴィさん。後は任せて頂ければ……というか信用出来るんですか? ご令嬢に相手に、俺男ですけど」
ああ、と彼女は再び笑んだ。心配ご無用とばかりに、何故か逆にこちらを不安げな目で眺めてくる。
「大丈夫。むしろユラギくんが大丈夫かな……の、呑まれちゃだめだよ?」
「なにそれこわい」
さっそく不安になってきたけれど、今更引き下がることなどできやしない。
さあ、業務開始だ。
シルヴィに部屋の手前まで案内され、そこで別れることに。本当は一緒に同行したいという気持ちが溢れていたご様子だったが、しかし我慢するように去っていった背中姿が嫌に記憶にこびりついている。
彼女に言われた台詞が気になる。気にはなるが……ユラギは扉に手を掛けた。
ノックをする。返事はない。
が、ここで黙って待っているわけにはいかないので。
「失礼します」
一方的にそう言って、中へと入った。
「――遅かったじゃない。あんたが仕事の手伝いね? 何突っ立ってんの、早くこっち来なさいよ」
「……え。それは、その」
そこに居たのは、間違いなく写真の彼女であった。
しかしユラギが入室を躊躇うのも無理はない。
まるで今か今かと待ち構えていたかのように真ん中に設えた椅子へ座り。
大きく足を組んで。ばらばらに乱れた金髪が目に映る。
それだけなら躊躇いはすまい、想定の範囲内だ――ただ、そいつは真っ白いキャミソール一枚で、何やら機械を弄っていやがった。
いや、普通、なんで?
折角ノックしたんだからそんな恰好なら『ちょっと待って』とかあるんじゃないの。なんで全然気にしてないの、普通に機械弄ってるのこの人。
「早く扉閉めなさいよ、寒いんだけど」
「寒いっていうか……その恰好をお嬢様がしているのは如何なものかと」
「はぁ? 私の部屋なんだからどんな格好してようと私の勝手でしょうが。何? じゃあアンタは人様の部屋にいきなり上がり込んでおいて、ドレスでも着て着飾って待ってろって説教すんの? はーめんどくさ」
少女はそれまで弄っていた機械を放り投げる。球体状のそれは放物線を描いてベッドの中心へと転がった。
そいつはまじまじとユラギを見つめて、不敵に笑う。
「何? 目のやり場に困ってんの? へぇ」
「……いや」
はっきり言ってしまえば――彼女の言う通り、目のやり場には困っていた。
困らないわけがない。
普通に下着が丸見えの現状で堂々と彼女を直視していられる男が存在するとすれば、枯れ果てて興味のない老人か同性愛者かのどちらかだ。
けれど。それ以上に彼女が挑発的な態度を取っているのがわざとだと、直感で何となく感じていた。だからだろうか、ユラギは顔を歪める。
「じゃ別にいいじゃない。てかいい加減そこ閉めて」
言われるがままに、ユラギは後ろ手で扉を閉めた。きぃ、と言う音がして部屋が密室になるのを実感する。目の前には煽情的な恰好をした女が一人。頬杖をついて、ユラギの反応を楽しむかのように片眉を上げている。
「あの、アンテリアーゼ様」
「その呼び方はうざいからやめなさいっての。シルヴィから聞いたんでしょ? だったら……ああ、うん、そうね。いいわ、アンタはそのまま呼びなさい」
組んでいた足を戻して、彼女はすっと立つ。ユラギが一歩後退るのと同時に、ずんずんと距離を詰めてきた。
背中にひんやりとした扉の感触がして――遂に彼女は、ユラギを追い詰めた。
視線すらどこへも逃げられない状態。彼女の細い指先が顔の横を通過して壁に押し当てられる。
彼女の顔が視界いっぱいに映る。お互いの息遣いさえ意識してしまうそんな距離で、そいつは言う。
「で。今日は何の仕事を手伝いにきたのかしら?」
「……お嬢様の、仕事の手伝いと」
「それは嘘でしょ。お父さんがアンタ呼ぶくらいなんだから、どうせ今日来る富豪と上手く行くように用意された交渉役、なんでしょ?」
「そう、なりますね」
「――嘘ね」
冷ややかな台詞にユラギの呼吸は一瞬止まってしまった。ただその一瞬だけで今回はまずかった。そいつは口端を歪める。覗かせた犬歯が、妖しく牙を剥いた。
「今本当の事を言えばぜーんぶ許してあげる。ほら、なんか言いなさい。言い訳でもなんでも、さあ」
「――っ」
シルヴィがあんな表情をしていた理由をたった今理解した。
この女、常識がないとか社交性がないとかそういうことでは全くない。
最初に想像していたモールド・アンテリアーゼという少女は癇癪を起こしやすいキースみたいな奴を想像していた、でも違う。こいつは、そんなに生易しい女じゃない。
狡猾に獲物を取って喰らう捕食者のように――紫紺が愉快げにユラギを見つめていた。
こいつはちゃんと分かっている。自分の立場を。自分の有用性を。そして自分の武器を正しく認識している。
全く、何がじゃじゃ馬だ――。
ユラギとてしっかりとプランは練ってきている。
完璧な理由付けも納得の行く説明も用意してきたのだ――けれど一つも言葉にすることができない。何を言っても見透かされそうな気がして、ユラギはごくりと息を呑む。
と、とにかく。このまま黙っていては駄目だ。
ユラギの仕事は誤魔化すこと。そうだ。焦る必要はない、いますぐ乱された呼吸を整えて。
「ねぇ。なあんにも言わないんだ」
「嘘は、言ってませんからね」
「へぇ、そう。嘘ね」
「どうして、そう思うんです」
彼女は舌をちろりと出して、上唇を舐める。
そして首を傾げた。
「おかしいわね、私が二人いるだなんて」
「――な」
「でもそれは私じゃないわ。ああ、アンタと一緒に来た私がきっと、富豪とやり取りをするのね。さしずめアンタの役割は、上手いこと私を言い包めて騙して誤魔化して乗せて――そういうことなんでしょ? 何でも屋さん?」
更に顔を近付けてくる。
これ以上誤魔化せない、というか何にも出来ていない。シルヴィが呑まれてはいけないと忠告までしてくれたのに、最初から彼女のペースに呑み込まれて――全部、晒された。
いや、それ以前だ。なんで知ってる。
「な、なんでそれを」
「あはっ。やっぱりそうなのね」
――しまっ。
ここで初めて自分が口を滑らせたことに気が付いて、ユラギは硬直した。思考が上手く回らない。ああ、そうか。こいつは始めから見てなんかいなかった、きっとそうであろうと当たりを付けた上で、ユラギを動揺させてカマを掛けた。
でも、どうしてそんなことを。
「あーあ、やっぱり嘘だったんじゃない。嘘吐きね。私は今まさに悪人の毒牙に引っかかろうとしていたのね」
「ま、まて――ちょっと待って、なんで」
「なんでそんなことをするかって? 上手く行くならいいんじゃないのかって言いたげね? それとも私がお馬鹿さんじゃないって分かったなら、癇癪を起さないって分かったから、今度は取引の有用性でも語ってみせる? 私を納得させてみる?」
何も、言えなかった。そんなユラギの胸倉を彼女は掴む。扉に押し付けるようにして上へ持ち上げてくる。
「――ふざけんじゃないわよ。あのクソ親父、いつまで私を馬鹿にすれば気が済むのかしら。私が従わないと分かった途端に最低な手段ね、でも最初からそういうことしてくるって分かってたとも、ええ」
「……お、まえ」
「違うでしょ? 私の事はアンテリアーゼ様と呼べって、言ったのよ。お前じゃない」
「――っ?」
それは一瞬の出来事だった。
ユラギが動揺して何も考えられなかった、ということもあろう。目の前の彼女が力は無力だと考えていた誤算もあったろう。
けれどそれは簡単に覆された。あまりに綺麗に――背中から床へと叩きつけられる。
彼女に投げ飛ばされたのだ。
その程度痛くもなんともないけれど、けれど、仰向けになってきたユラギの上に彼女が乗ってきたのは更なる誤算。
――別に、倒そうと思えば倒すことはできる。
でもそんなことに意味はない。そんなことしたって逆効果でしかない。
完全に優位に立たれてしまった。見せびらかすように、彼女に見せつけられた胸――ユラギだって男だ。目を逸らす。それを、無理矢理両手で戻される。
「ちょ、待った、何がしたいんだ、お――」
「お前じゃない」
「あ、アンテリアーゼ……様、は、何故。理由だけでも」
「そう、いい子ね。素直な子は私、好きよ」
言って、再び顔を近付けてくる。でも今度は違う。
もう駄目だ、ユラギ自身が――違う。全くそんなつもりはないのに、心臓が早鐘を打っている。舌舐めずりをして、彼女は耳元に問い掛けてくる。
「――キスしたことは、ある?」
「は……?」
その言葉の意味がまるで分からなかった。しかし彼女はそれで分かったように口端を歪め、
「そう、シたことないのね」
ゆっくりと唇を近付けてきた。
「――ま」
顔を逸らそうとする。だけど両手でがっちりと塞がれて動けない。彼女は嗤う。
「嫌なの? そう、好きな人がいるのね。一途なのね……可愛いわよ、そういうの」
でも、妖艶な唇が、ひしゃげる。
「じゃあ、尚更だめ。ここで逃げるなら――私は全部をぐちゃぐちゃにしてやるわ。貴族のデブを殴り倒して取引ぶっ壊して、そしたらどうなる? 何でも屋さんは依頼に失敗しちゃうわね、お可哀想に」
どうすることもできなかった。何故だか分からないけど、身体が震えていた。怖いわけじゃなくて、理由は分からないけれど。
「――ねぇ、好きな人は誰なのかしら。私にだけ教えなさい」
ユラギは何も答えない。
「――そう、例えば一緒に来ている私とか」
ユラギは何も答えない。
しかし、身体はしっかりと反応してしまった。ポーカーフェイスなんて決め込めない。ユラギはそんなに経験豊富じゃない。
彼女は満足に、こう言った。
「最初は好きな子としたかったんだ――? でも、だめ」
唇と唇が、触れ合う。短い吐息が止まって乱れる。
舌が――ユラギは、何も出来なかった。何も出来ないまま、為すがまま、今自分が何をしているのかも、何をされているのかも分からないまま、忘我の時間が進んでいく。
やがて。
唇が離れて、彼女の顔が少しだけ離れた。
ユラギは力が抜けたまま、思考を停止させていた。
ランシードが脳裏に浮かんで、彼女の言葉が脳裏に反芻されて、今自分が何をされたのかを――やっと理解する。
「――私の言うことを聞きなさい。そうすれば、私はアンタに従ってあげる」
――ああ、自分はなんて。
あれだけ女性に軽薄なことを言っていた自分が、気取って立ち回っていた自分が、何事もないかのように振舞っていた自分が。
いざ直接迫られたらこんなにも脆かっただなんて。知らなかった。
彼女の言葉は、何も、耳には入ってこなかった。




