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第八十一章 馮異と趙匡

「さ、三方から囲んでこんなにボロ負けするなんて、さすがに思わんわぁ」


「親分、走りながら喋ると舌噛みますよー!」


延岑えんしんと従者の屈狸クズリは、追撃してくる漢軍から全力で逃走している。

赤眉が消滅して後、劉秀が鄧奉の討伐に赴くと、長安周辺は雨後うごたけのこのように生えてきた自称将軍、自称王が互いに潰し合う混沌の大地と化した。

その中を回遊魚のように動きまわり、他の勢力を時には叩き、時には仲間に加えて勢力を増したのが、延岑である。

漢軍が長安周辺の正常化のために南部の上林宛じょうりんえんに集結したと聞き、延岑は即座に周辺の群雄と結んだ。長安北部の張邯ちょうかんこう任良にんりょうである。

補給が滞っているとの情報があり、数も数千に満たない漢軍は、この包囲網の前に砕け散るはずだった。

しかし、実際に砕け散ったのは延岑ら三勢力による包囲網のほうだった。

彼らの誤算は、漢軍の指揮官が劉秀の懐刀である馮異ふういであったこと、補給が直前に回復していたことである。

頭一つ抜きん出て有力だった延岑が漢軍に惨敗して失踪した事で、残る小群雄の中には身の危険を感じて庇護者を求める動きが出てきた。

陳倉ちんそう呂鮪りょいは、蜀郡にある成の国、白帝はくてい公孫述こうそんじゅつに接近した。


 馮異は長安に入城すると、補給線を秘密裏に復活させた援軍の将を労うために宴を催した。宴は万歳から始まった。


趙匡ちょうきょう殿万歳!皇帝陛下万歳!」


右扶風ゆうふふうの趙匡は更始政権で活躍し、その滅亡と前後して劉秀陣営に降った将である。劉秀は、自身が王郎と戦っていたとき趙匡が信都城しんとじょうを鮮やかに奪還してその勝利に貢献したことを覚えていたので、その遅い帰属時期にも関わらず彼を右扶風に抜擢していた。

右扶風は長安周辺の行政権を有する要職である。


「いやはや、難民に偽装して敵の目を欺いた趙匡殿の作戦には驚かされました」


「そんなのは瑣末なことです。それよりも、馮異殿の鮮やかな指揮、あの延岑を軽く捻ってしまうその手腕、感服させられましたよ」


馮異に言わせれば延岑を取り逃がしたのは痛恨事で、この戦闘は戦略的には失敗である。延岑の才能は負けても再起不能に陥らぬ内に諦めて逃走する思い切りの良さにある、というのが馮異の見方だった。


「彼が強力な兵を手に入れたら厄介ですよ。手がつけられなくなるでしょう」


「例えば公孫述、あるいは隗囂かいごうの兵でしょうか」


馮異は趙匡が隗囂を引き合いに出したことについて、聞き直した。隗囂は劉秀に帰属を表明しているはずだからだ。


「地理をよく見なければなりません」


趙匡は膳に乗った焼き魚を箸で指した。趙匡は、左を向いた魚の頭を公孫述、胴体を司隷部、尾を長安に例えた。

隗囂のいる天水郡はといえば、胴体から頭の上に置いてある青菜だ。

馮異は意図するところを察して返す。


「長安から司隷部を超えて蜀を伐つ側も、蜀から司隷部を超えて長安を伐つ側も、双方が天水郡の隗囂によって側面を突かれる危険性があるわけですな。どちらにとっても味方につけたい人物です」


「その通り。その事を最もよく理解しているのも、隗囂その人でしょう。洛陽の陛下と公孫述、より高く自分を買ってくれる相手はどちらか。表面上は陛下についていても、内心ではそのような計算を働かせているのではないでしょうか」


趙匡自身、隗囂が更始帝をあっさり見限ったとき少なからぬ衝撃を受けた。親族を売ってまで忠誠を示した相手を、ああも簡単に放り捨てるとは思っていなかったからだ。あの男がすんなりと主上の配下に収まるとは思えない、と趙匡は言った。

天秤の一方にかけられる公孫述は、領土の広さでは劉秀に遠く及ばないものの、巨大な軍船を建造するなど、「天府の国」と讃えられる蜀郡の富を活かした軍事力の強化に余念がない。

彼はあの手この手で隗囂の抱き込みに走ることだろう。

馮異は趙匡との話が盛り上がり、時間が経つのも忘れてしまった。万事控え目な馮異には珍しいことで、馮異自身が一番驚いていた。


 同じ月、数万の軍勢が司隷部に向けて侵攻を開始した。一様に白を貴重とした軍装に身を包んでいる。公孫述が放った成の軍は、程烏ていう李育りいくという二人の将軍を指揮官とし、呂鮪が案内を務めていた。


「白帝よ、復讐の機会を与えてくれて感謝するぜ!」


李育はかつて劉子輿りゅうしよの政権で大司馬を務めていた武将である。長い逃亡生活の末に入蜀した李育は、公孫述にその経歴を評価され、一軍を任される将となった。

程烏は蜀の名族で、弟の程凡ていはんも将軍として公孫述に仕えている。

彼らが指揮する成軍に対し、迎え打つ漢軍は特異な陣形を成していた。


「あれはなんだ?盾、 盾を掲げているのか?」


馮異は相手に騎兵が少ないとの情報を得て、兵士達に亀甲の陣を取らせた。前面と上面に盾を掲げた状態での行軍は、敵の弓矢や投石による攻撃を無効化する。

程烏は見たことのない陣形に少なからず心を乱されたが、李育は全く動じない。


「ふん、編成がばれていたか。まあいい。盾を持っている兵士は白兵戦に素早く移行できない。無駄な矢を射ることなく、接近してから捻りつぶせ」


成軍は漢軍に肉薄すると攻撃を始めた。応戦するためには盾を開けるか、あるいは放す必要に迫られる。

しかし、その時成軍の頭上に豪速で岩石が降り注いた。予期せぬ出来事に成軍は混乱し、その間に盾を投げ捨てた漢軍は一挙に攻勢に及んだ。

趙匡が戦闘地域を事前に測量させ、陣地地域のはるか後方から大掛かりな投石機による攻撃を行ったのである。失敗すれば味方に血の雨を降らせることになる。しっかりと敵に着弾した岩石を見て、馮異は胸を撫で下ろした。

正面からぶつかり合う両軍、趙匡は車輪のついた投石機を前進させると、今度は敵軍の後方に向けて投石を行わせた。

李育は降り注ぐ岩を紙一重で避けると、お返しとばかりに流星鎚りゅうせいついを漢軍に投げつけた。

程烏、呂鮪も辛うじて踏みとどまっており、成軍は勢いを失わない。

両軍が互角の戦いを続けるその時、新たな動きがあった。

砂塵を巻き上げ、歩騎数千あまりが横あいから現れたのである。


「漢の忠臣、西州大将軍の隗囂かいごうである」


戦車に乗って朗朗と名乗りを上げる隗囂は、将軍というよりも上古の王侯を思わせた。

配下の勇将である王元おうげんは、大斧だいふを振るって敵陣を切り裂いていく。その前に、程烏が長槍を手に立ちはだかった。


「我が名は程烏、名を名乗れ!」


「王元、お前を殺す者の名だ」


程烏が槍をしごいて気声と共に突き出した。


「一の太刀」


王元は槍の穂先を上から大斧の一撃で打ち飛ばした。

そのまま斜め右上に斬り上げるように斧を一閃する。


「二の太刀」


程烏は馬上で仰け反ってこれをなんとか避けた。

王元は程烏の横を駆け抜けながら言った。


「三の太刀」


王元は斧を返して振り向きざまに程烏の背中を割った。

程烏は背中から血飛沫を上げて、長い絶叫を放つと事切れて落馬した。


「り、李育殿、これは」


呂鮪が歯をがちがち鳴らしている。

隗囂の軍は勢いに乗って成軍を蹴散らしている。劣勢は明らかだった。


「止むおえん。撤退だ」


李育は敗軍を纏めると自身が殿となって撤退していった。


 隗囂は陛下によしなに、と告げると趙匡、馮異と別れて本拠地の天水郡へと戻っていった。

二人の隗囂に対する疑念はひとまず杞憂に終わったことになる。

祝勝の宴を終えた後で、馮異は趙匡を呼んで更に二人で酒盛りをした。

あの大樹将軍がそんなことをするなんて意外だと兵士達は囁きあった。


「笑わないでほしいのですが、私はこれ程話の合う人に今まで会ったことがない。嬉しすぎて、いつもの私を保てていない気がします。馴れ馴れしいと感じたら言ってください」


馮異は何時になく酔っている。顔が赤くなるほど飲んだのがそもそも初めてだった。


「私も同じ気持ちですよ。あなたと馬を並べて戦えたこと、今までの一生の中で一番楽しく思います」


趙匡はその梟のような大きな目を瞬いた。二人は戦闘のあれこれや、今後の群雄の動きなどについてお互いの考えを話した。二人の会話は一種の思考遊戯と言ってよかった。話の区切りがついたとき、馮異は緊張のほぐれた顔で言った。


「天下は遠からず治まっていくでしょう。我々のような軍略家の出番は減っていく。その前にあなたと出会えて本当に良かった」


「ええ……本当に良かった」


言葉とは裏腹に趙匡の表情は不満気だった。馮異がそれを訝しんでいることに気づき、趙匡は言った。


「欲を言えばですね。もっと、もっと強い敵と戦いたかった。孫呉の術を極めた、韓信かんしん白起びゃっきのような強大な敵と」


馮異はつまみを飲み込むと返した。


「そんな化け物が敵に現れたら、天下はまだまだ荒れ続けるでしょう。個人的な力試しの不満が解消されても、民草が困る。それはいけない」


趙匡はぐいと酒を呑む。


「大人ですね、馮異殿は。私はね、最近その事ばかりを考えているのですよ。民草のことなど頭の片隅にもない」


「ははは、悪い酒ですよ。今日はこのあたりでお開きにしましょうか」


趙匡は盃を揺らす。


「……違いない。では、今日の勝利と我々の出会いに、乾杯」


二人は乾杯すると、同時に酒を飲み干した。


数日後、趙匡は行方をくらました。

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