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第八十章 鄧奉

 南陽郡に劉秀が親征してきた。弟の鄧終とうしゅうからその報をもたらされた鄧奉とうほうは、狼狽えるどころか増々意気盛んになった。


董訢とうきん殿、あんたにやって貰いたいことがある」


いきなり話を振られた董訢の目には不安の色が浮かんだが、鄧奉によって窮地を脱したばかりの彼には拒否権はない。ここ、堵陽とよう堵郷ときょうの西にあり、現在は鄧奉と董訢両軍の集結地となっていた。董訢は鄧奉からの依頼を聞くと、慌てて準備をはじめた。

 北から葉県を経由して堵陽を目指す劉秀、しかしそこには鄧奉の姿はない。

銅馬軍の東山荒禿とうざんこうとくが報告する。


「陛下、進行方向の間道に木石等の障害物が山と積まれています」


「足止めをしている間にえんに攻め入るつもりだ。宛を押さえて、荊州けいしゅう田戎でんじゅう黎丘れいきゅう秦豊しんほうと結ばれたら厄介だな。急がねばならぬ。撤去作業の所要はわかるか」


荒禿は表情を曇らせる。彼の見立てでは二、三日はかかりそうだ、ということだ。

しかし、そこで馬蹄が響き砂塵を巻きあげて漢軍の騎兵が現れた。

岑彭しんほうが一部の部隊を率いて駆けつけたのだ。


「陛下がお出でになるまで苦戦するとは、面目次第もございません」


「今まで持ちこたえているのはひとえに卿の指揮の賜物である。恐縮する必要はない。それよりも、この道を啓開してもらえないか」


岑彭は兵士に命じて、道を塞ぐ瓦礫類の撤去に取り掛かった。岑彭とて只出迎えに来たわけではない。別働隊に任務を付与しており、そちらと並行して北上したのである。


 「むじな狩りは得意ですよ」


耿弇こうえん劉嘉りゅうかにはにかんだ。耿弇の背中にしがみついている愛犬、シボが元気よく一声吠える。このしわしわの犬は、平時は猟犬として活躍しているようだ。

二人の乗る馬は名馬という程ではないが、上谷突騎の優れた馬である。二人は上谷突騎を率いて董訢を追っていた。

足止め用の障害物を設置した董訢は堵陽へ後退しつつあったが、上谷突騎の機動力は彼らの逃走速度を上回った。皺が激しく吠え立てる。

南陽の歩騎を率いた董訢は、左右に分かれた突騎に挟まれる格好となった。


「むざむざ捕まってたまるかよッ!」


董訢は脇に差した刀を抜くと、耿弇を見定めて馬に鞭を打ち急接近してきた。董訢が手にしているのは雁翅刀がんしとうと呼ばれる細長い刀で、鳥が翼を広げたように見える事からその名がある。

耿弇も愛用の三尖両刃刀さんせんりょうじんとうでこれに応ずる。董訢が雁翅刀を振り下ろせば、耿弇は両刃刀の子翼しよくに絡めて返す。耿弇が突けば、董訢は刀背とうはいでこれを受け流す。打ち合うこと数合、決着が着かない。意外な剣客の出現に、突騎達も任務を忘れて見惚れていた。この観客たちの中から拍手の音が響き、拍手の主はゆっくりと進み出て言った。


「腕を上げましたね、董訢」


「げぇッ、お前は……劉嘉!」


劉嘉の姿を認めると、董訢ははたと動きを止めた。


「会うのは何年ぶりでしょう。いや、本当に感心しました」


董訢は傍目にもわかるくらい震えている。


「どれ、久しぶりに手合わせしましょう。今のあなたの腕前ならば、火事場のなんとやらで突破できるかもしれませんよ」


劉嘉が剣を抜いて構えると、その周囲だけが異質な空気に包まれた。近づけば死ぬ、見る者に本能的な恐怖を呼び覚ます不穏な気を纏っていた。

董訢は刀を降ろすと、ゆっくり手を上げた。


「腕を磨いてわかることもある。俺はお前には敵わん……降参するから、同門のよしみで助けてはくれまいか」


こうして二人は董訢を捕縛することに成功した。宛に向かって侵攻していた鄧奉は、作戦の変更を余儀なくされ、夜陰に乗じて育陽への後退を試みた。


 「兄貴、敵が追ってきている。このままじゃあ、小長安で追いつかれるぜ」


鄧終の目には焦りの色が浮かんでいる。

小長安は劉秀、そして鄧奉にとっても多くの親族を失った因縁の地だった。

鄧奉は唾を吐き捨てると辟邪へきじゃの剣を抜いて構えた。


「反転して迎え撃つ。南陽の怒りをクソどもに見せてやれ」


岑彭の率いる歩騎は小長安で鄧奉の軍と接触した。

睨み合う両軍、はじめに仕掛けたのは鄧奉だった。

影も追いつけぬ程の速さで駆ける鄧奉の馬、目を剥き、口角から泡をふいて走るその胡馬は、蹄鉄につけられた刺で兵士を踏み砕く。骨の砕ける音に悲鳴が重なる。大剣を振るえば、その一振りで四五人の兵士が腰から両断され、仲間の血飛沫に染まった周囲の兵士は恐慌状態に陥った。

二三十人をたちまち殺戮した鄧奉は豹の外套を翻し、部下達を一瞥した。

南陽の兵士達は鯨波げいはの声を轟かせて、漢軍に襲いかかった。

漢軍は岑彭の指揮のもと、隊列を再び組み直したが、それも南陽軍の突破力の前に砕け散るのも時間の問題と思われた。

その時、南陽軍の背後で異変が起こった。はじめは小さな悲鳴が響いただけだったが、やがて混乱は拡大し、ついに南陽軍全体にその動揺が広がった。

岑彭はその機を逃さず、攻勢をかけるよう全軍に命令を発した。

南陽軍の背後では、凶風が吹いていた。聖櫃せいひつから放たれた死をもたらす風のように、それに触れる者は次々と命を失っていく。

風の中心にいるのは、時龍じりゅうに跨る劉秀その人である。時龍は氷の上を滑るように走る。劉秀はただ天禄てんろくの剣を横に構えているだけだった。しかし、この最小限の動きがもたらす死は鄧奉のそれと同様か、それ以上であった。

劉秀が天禄の剣を血振りすると、兵馬をかきわけて目前に来た、かの宿敵と目が合った。


「久しいな、鄧奉」


「やっと“ボク”のお出ましか。待ってたぜ」


劉秀の裏地が赤い黒の外套、鄧奉の豹の外套が互いに風にはためいて音を立てた。

二人が剣を構える。劉秀は両手で、鄧奉は右手のみで。

人馬一体となった二人の姿は、その剣格に刻まれた二頭の幻獣のように、ある種の畏怖を見るものに抱かせた。

二人は同時に駆け出す。先に剣を振るったのは鄧奉だった。劉秀が首を屈めて避けると同時に時龍も馬首を下げてこれを避ける。馬首を押さえて下げようとした劉秀に、時龍はまるで抗議するように鼻を鳴らした。

気遣いは不要、ということか。

名馬に感心している暇もなく、第二撃が迫る。劉秀は背に剣を構えてこの一撃を防いだ。

上体を起こして剣を返し、鄧奉の肩口に向かって振りぬいた。剣は鄧奉の銅鎧を掠めたに過ぎない。

鄧奉は柱天から剣を振り下ろした。劉秀はこれを受け止める。天禄の剣、辟邪の剣、二振りの剣で激しい鍔迫り合いが起きる。互いに譲らず、金属の摩擦音だけが静寂に響く。


「何故だ。こんな事をする前に何故一言言ってくれなかった。掠奪の件も、訴え出ればよかったじゃないか」


「言ったら何か変わったのかよ?見えるようだぜ、涼しい顔して、“こらえよ、これは天下の事である”なんて返すお前がな」


鏡面のように光る剣に互いの姿が映り込む。


「南陽だけが不利益を被っているわけではない」


「てめえは今や皇帝だろ。あちこちの顔色をうかがって地元やダチや麗華を苦しめる意味が、南陽を蔑ろにする意味が、俺にはわからねぇ!俺達の天下だろうがッ!」


鄧奉は自由な左手で拳を作ると、劉秀の顔めがけて繰り出した。劉秀は右手を柄から外すと、鄧奉の左拳を受け止めた。目を見開いて驚く鄧奉に、劉秀が吼える。


「いい年の大人が……拗ねてんじゃねぇよ!」


劉秀は兜で鄧奉の顔へ頭突きをかました。


「むおッ」


鄧奉は仰け反った。劉秀はすかさず左手で突きを放ったが、鄧奉は剣を翻してこれを弾いた。


「てめぇ、その剣、片手で持てるんじゃねえか。騙しやがったな!」


「両手で持ってるから片手では使えないって?いちいち思いこみが激しいんだよ!」


劉秀は半身を逸らして鄧奉の突きを躱す。右頬が熱い。僅かに掠ったようだ。

鄧奉が剣を引くのと同時に劉秀も突きを放つ。

鄧奉は左の肩口から血を噴き出した。浅いが、当たった。

しかし、突いた剣を劉秀が引く前に、鄧奉は渾身の力でこれを跳ね上げた。

手に強い痺れが走る。天禄の剣は回転しながら上空を舞っている。

鄧奉は辟邪の剣を振りかぶった。

劉秀はその刹那、両手で鞍を掴み、これを支点にして両脚で飛び蹴りを放った。

呻きをあげて落馬する鄧奉。同時に飛び降りた劉秀は回転して落ちてくる天禄の剣を引っ掴むと、起き上がろうとする鄧奉の左脇から右肩にかけてこれを振りぬいた。

血飛沫が上がり、鄧奉は地に沈んだ。

鄧奉は横臥したまま言った。


「強くなったじゃねぇか……いつの間に……やれよ、殺せ……お前の勝ちだ」


「鄧奉……私は……私は」


劉秀は歯を食いしばって、剣を握り直した。

劉秀は臥した鄧奉にその剣を振り下ろさんとした。


「やめろ!陛下、いや、劉秀、もう止めてくれ!」


叫んだのは捕らわれていた朱祜しゅこである。傍らにいる鄧終が、旗色悪しと見て、交渉のために連れてきたのだ。


「俺達は……俺達は一緒に立ち上がった仲間じゃないか」


劉秀は顔を強張らせ、剣を持つ手を止めて、朱祜を振り返った。その目からは殺意が消えてしまっていた。

その瞬間、鄧奉は脚を絡げて劉秀を転倒させた。

起き上がった鄧奉は、辟邪の剣の切っ先を倒れた劉秀ではなく朱祜に向けた。


「邪魔を、邪魔すんなぁッ!」


鄧奉は一つ跳びに朱祜への距離を詰めると、大きく横払いでその胴を薙いだ。

いや、薙ごうとした。

鄧奉の胸を、背後から天禄の剣が深々と貫いていた。

劉秀は鄧奉の後方で、腕を前に伏している。

朱祜は、劉秀が鄧奉にこの大剣を投げつけたことを知った。

鄧奉はがっくりと膝をついた。


「やっぱり……わかって……ねぇな……俺がこいつを殺すわけ……ないだろ」


鄧奉は劉秀の方を振り返ろうとしたが、叶わないようだ。


「これで……終わりでいいだろ……みんなは俺に……煽られただけ……頼む……」


鄧奉は口から血の混じった泡を吹くと、斃れた。

劉秀は起き上がると、ゆっくり鄧奉に近づいた。

南陽の兵達は、無敵の大将の死によって完全に戦意を失い、その場に立ち尽くしていた。

劉秀は鄧奉の背中から天禄の剣を引き抜く。夥しい量の血が流れ、地面を赤黒く染めていった。


「わかったよ。鄧奉」


劉秀は舌唇を噛むと、天禄の剣を構え、鄧奉の亡骸に向けて一閃した。

鄧奉の首が湿った音を立てて転がる。

首を丁寧に拾い上げたのは岑彭だった。


「英雄視されては困るんだ。捕らえて誅したことにする。細かい筋書きは卿にまかせる」


劉秀は南陽の兵達を睥睨すると強い口調で言った。


「鄧奉との約は、汝らが口をつぐむことを条件に果たされる。心得よ」


劉秀の横に時龍が音もなく近づいてきた。天禄の剣を収めた劉秀は、時龍に跨った。朱祜が自分の衣を剥いで、鄧奉の亡骸に被せている。鄧奉の馬が後ろ脚をたたんで主人の手を舐めていた。

夕陽に照らされて、地に刺さった辟邪の大剣が、まるで墓標のようにその影を伸ばしている。

劉秀は、岑彭が抱える鄧奉の首を一瞥した。


「お別れだ、鄧奉。私は君の屍の上に王道を拓く。それまでは死ねない。……黄泉あのよでいくらでも殴られてやるが、それが終わるまで待っていてくれ」


時龍が、細く長くいなないた。

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