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第七十八章 樊崇

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 建武三年、夏のある晴れた日の午後。東海郡臨沂県の小ざっぱりとした屋敷では、男二人が談笑していた。


「そうか、楊音よういんは関内侯に封じられたのか。一番の勝ち組はあいつだな」


徐宣はそう言ったが、その口振りに嫉妬の色はない。故郷に戻った彼は、僅かな禄をもとに慎ましい生活をし、その心には平穏が訪れていた。


「あなたと同じように故郷に帰るところを、劉良りゅうりょう殿に呼び止められたのだそうです。命を救ってくれた御仁に恩返しがしたいと。情けは人の為ならず、というやつですね」


諸葛稚しょかつちの受け答えは、戦場で金砕棒を振り回していた悪鬼のような男とはまるで違う。何か心境の変化があったのだろうか?


「私はその劉良殿にご先祖がいかに偉い人だったか教えて頂いて、自分が馬鹿やっているのがだんだん恥ずかしくなったのですよ。それに脚がこうなってしまったもので、生き方を変えようかな、と」


諸葛稚は失った左脚に据えられた木をポンと叩いた。

崤底の戦いで赤眉軍が大樹将軍に大敗したとき、彼は左脚を失いながらも何とか生き延びた。赤眉軍が完全に降伏するまで生死不明だったので、ひょっこり現れた時は皆が大いに喜んだ。

二人は夕暮れ近くまで話し込んだ。諸葛稚は帰り際、振り返って思い出したように言った。


「この間、禄をはたいてたくさん書物を買ったんです。俺は間に合わなくとも、子や孫は立派な人になるかもしれませんからね」


「今のお前は十分立派だよ……達者でな、諸葛」


遠ざかっていく諸葛稚を見ながら、徐宣は思う。誰もがみな生き方を変えられるわけではない。荒んだ生活に慣れすぎた仲間の中には、帰農できないものもいるのではないだろうか。

それでも……生きているだけでも儲けものか。奇しくも、あの女の予言通りになったという事か。劉氏の皇帝を立てよ、その者が汝らの命を救うであろう。お告げをする時の神がかりの不思議な顔、そして自分をからかう時の悪戯っぽい顔。遅昭平ちしょうへいの顔を思い出して、なんだか甘酸っぱい気分になっている自分に気づき、徐宣はかぶりを振った。あの女は樊崇はんすうと一緒になって暮らしているはずだ。もう忘れろ。

徐宣は茶を淹れると、赤眉の終焉に思いをはせた。


 数ヶ月前の出来事に遡る。

崤底で馮異に敗れた後、赤眉軍は、澠池めんちの山中を抜けようとした。暗い森の中で仲間の悲鳴が聞こえる。


「大樹将軍だけが漢の将星ではないぞ。この賈復かふくがお相手しよう!」


猛将賈復はずっと潜んでいたその鬱憤を晴らすかのごとく、赤眉に嬉々として襲いかかった。疲労から進行速度にばらつきの出ていた赤眉軍は各個撃破を許すこととなった。


「無視しろ!東だ!走れ!」


血走った目で命令する樊崇に、それでも赤眉はついて行く。その姿は一つの本能だけに従って動く僵尸キョンシーのようであった。

多くの仲間を失いながら、賈復の猛追をかわして赤眉軍は山中を抜けた。澠池の山中を抜けると、そこには洛陽へと通ずる宜陽ぎようの大平原が広がっている。

広がっているはずだった、というのが正しい表現だと言う向きもあろう。

大平原は確かにあった。しかし、その大平原は漢軍の兵士達によって埋め尽くされていた。

山の裾野のその両翼に騎兵が配置されている。先端には異様な殺気を放つ鉄騎、烏桓突騎うがんとっきが配されていた。

両翼の中心にいるのは大司馬の呉漢ごかんである。

騎兵の途切れたその後ろに、密集隊形を作る歩兵の大部隊が位置している。皇帝への忠誠心に厚い銅馬軍どうばぐんだ。

背後には賈復率いる奇襲部隊が追いついていた。

あまりの大軍による包囲、そしてその威容、疲れきった赤眉軍は完全に呑まれてしまっていた。

幹部達までもが呆然とする中、樊崇は銅馬軍の中心を、劉秀のいる一点を見つめていた。

やがて、樊崇は大きく長く息を吐いた。そして、大钯だいはをおもむろに地になげうつと、仲間たちに振り返った。いささかの寂しさを湛えた笑顔がそこにあった。


「今までよく付き合ってくれた。ありがとよ」


誰かが武器を捨てる音が聞こえた。そして、嗚咽。がらがらと続いて武器を捨てる音が響き、啜り泣く人々の声が森の中に満ちた。彼らの戦いが、赤眉の十年間にも渡る長い戦いが、終わった瞬間だった。

建世帝こと劉盆子りゅうぼんしが樊崇に駆け寄ると、はにかんで言った。


「おじさん、僕に任せてよ!」


 赤眉の降伏を見越していた劉秀は、近隣の県から料理人を集めていた。劉秀は降伏の交渉を押しとどめると、女子供から順に温かい料理を振る舞った。

あくる朝、樊崇をはじめ赤眉の幹部達は肌脱ぎをして降伏した。降伏に際して、彼らは劉盆子を伴い、更始帝から奪った七尺の宝剣と玉璽を携えていた。

劉秀はこれら献上の品を検分したが、皇帝の証たる玉璽よりも、宝剣のほうが感慨深くあった。


「兄上の剣だ、これは」


分厚く長い刀身は顔が映るほど磨かれている。剣格には美しい角のある獣の彫金が施されている。

更始七尺の宝剣とは、すなわち更始帝が劉秀の長兄劉縯から奪った天禄てんろくの剣であった。

この大剣をひとしきり眺めると、劉盆子が前に進み出ていた。劉秀は剣を置くと言った。


「私はお前たちをどうすると思う?」


「われらは死に値しますが、陛下はとても慈悲深いかただと聞いています」


劉秀は笑う。


「ちゃっかりした子だ。宗室には愚か者はいないようだな」


劉秀は赤眉の幹部達を見回して言った。


「降伏したことを悔いてはいないか。お前たちを陣中に戻し、決戦をしようともこちらは構わん。強いて降伏させようとは考えていない」


徐宣は張り付いたような笑顔で、揉み手をしながら返す。


「いえいえ、まさか。私共は虎口を逃れて慈母の元に帰り着いたような心地でございます。思い残すことなどございません」


「そなたは、いわゆる鉄中の錚錚そうそう、傭中の佼佼こうこうというものだな」


徐宣のへつらった態度に嫌味を言うと、劉秀は咳払いをした。


「お前たちは通るところ老幼を構わず殺し、神域を汚して、天下を荒らしまわったが、なお三つの善がある。天下をいくら荒らしても、女を奪って元の妻を捨てなかった。これすなわち第一の善である。君主を立てるにあたって、漢を尊び劉氏から皇帝を立てたこと。これすなわち第二の善である。最後に、賊軍は君主を立てても、降伏するときはその君主の首を取って、それを手柄として降る浅ましい奴らが多いものだが……」


劉秀は劉盆子の頭に左手をおくと、その髪をくしゃくしゃと撫でた。


「そなた達だけは君主このこを守って降伏してきた。これが第三の善である」


劉秀は微笑んだ。劉秀は、赤眉軍の幹部と兵卒、全ての降伏を受け入れて、これを害する事はなかった。

赤眉軍が武装解除されると積み重なったその鎧兜や武器は宜陽城の西から熊耳山ゆうじさんまで並ぶほどの量となった。

赤眉の幹部達は洛陽に小さな邸宅と田畑を与えられて住むこととなり、やがて希望者は帰郷まで許された。

中国史上、最大級の農民反乱「赤眉の乱」はこうして終結した。


 茶を飲みながら一連の顚末を振り返った徐宣はしかし、劉秀の傍らに佇んでいた男の不気味な目を思い出して不安になった。決戦をしても構わないと劉秀が言ったとき、その若い男は一際目を見開いて自分たち幹部を見つめていた。吸い込まれるような黒々とした瞳だった。

いつの間にか外はすっかり暗くなっていた。梟の鳴く声だけが静寂の中に響く。その時、突然戸を叩く音がして、徐宣は大いに驚いた。

戸を開けるとそこには徐宣が仄かに思いを寄せた、その女、遅昭平が立っていた。

徐宣は無言で立ち尽くす遅昭平を邸に招き入れた。


「樊崇のやつ、突然離縁だなんて言い出してさ。追い出されちゃった。一人で大丈夫って思ってたのに、なんかすごく寂しくなって……来ちゃった」


哀しげに笑う遅昭平に取りあえず茶を淹れる。徐宣は彼女を労りつつも、不気味な目のことが頭から離れなかった。

なぜ劉秀はあの時挑発するようなことを言ったのだろうか。反応を見ていた……あの若い男は皇帝の目、そんな役割の男だったのではないか。奴はなぜ目を見開いたんだ。誰かがあのとき劉秀に敵意を向けた。“皇帝の目”はそれに気づいたのでは。

嫌な予感がする。樊崇は、樊崇はなぜ遅昭平を遠ざけるような事を?


樊崇はその年の夏、旧友の逄安ほうあんとともに謀反を起こした。右将軍となった鄧禹とううは事前にこの計画を掴んでおり、謀反は拡大することなく迅速に鎮圧され、樊崇らはその命を失った。樊崇には“妻子がいなかった”ため、連座して処罰されるものはなかった。

この事件を期に、帰農できずに暴走する一部の元赤眉に対して、軍役をもって年貢に替える制度が設けられた。これは世襲され、こうした赤眉の家は代々兵士を排出する家柄となった。彼らは後漢王朝の言わば常備軍として機能することとなったのである。


劉盆子は劉秀に目をかけられ、趙王の郎中として出仕した。後に病により失明したが、劉秀は盆子のための定期市を開き、彼はその収入で生涯を全うすることが出来た。


徐宣は妻を娶り、平穏にその生涯を終えたという。

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