第六十八章 暗転
建武二年、洛陽では郭聖通の立后と、劉彊の立太子の儀が厳かに執り行われていた。
真定王の劉楊が滅んだ後は冀州の豪族は大人しくしているが、働き手となる多くの若者を軍に送り出しているにも関わらず報いられるところが少ないと不満を抱く者は少なくなかった。
この不満を解消する有効な手段として考えられたのが、郭聖通の立后と劉彊の立太子である。
皇帝の正妻である皇后や次期皇帝を輩出したとなれば、蔑ろにされるようなことはこれ以上ないと、誰もが安心できる。
劉秀がこの事に中々踏みきれなかったのは、ひとえに陰麗華のことを慮っていたからであるが、彭寵の乱の発生を受けてついに踏み切った。
不満を抱く者を放置することが大きな災いを招く、と痛感したからである。
しかし、誰かを持ち上げば誰かが不満を抱く。八方美人は土台無理な話なのだ。
「麗華が可哀想じゃねぇか。先に結婚したのはあの娘なのに。あんまりだ。これぁあんまりだ。こんな情のねえ話は許せねえ」
陰麗華の叔父、劉秀の友人でもある鄧奉は不満を隠せない。
「叔父上、私は気にしてない。だから、荒れるのはやめて」
陰麗華自身が止めようとも、陰麗華の兄である陰識が敢えて誰よりも立派な祝辞を読もうとも、鄧奉の気持ちは収まらないのだ。
鄧奉はついに劉秀達のもとへ向かってしまった。
「今すぐやめろ」
劉秀は儀式への闖入者を見据えた。
「何の話かと思えば……これは国事だ。覆らない」
「お前はそんなやつじゃなかったはずだ。目を冷ましてくれ」
参列者の中から朱祜が出て鄧奉を遮る。
「鄧奉、お前が大騒ぎすることで陰氏はよけいに苦境に立たされるんだ。それがなぜわからない!」
「朱祜、てめぇ麗華を盾にして俺を脅そうってのか!見損なったぜ」
郭聖通は泣き始めた息子を背後に隠し、言った。
「誰かと思えば、陰貴人の叔父ですか」
郭聖通が皇后に立てられることによって、陰麗華はそれに次ぐ皇帝の妻の称号である貴人となることが決まっていた。
「ああ、そうさ。あんたと後ろのお子様のせいで皇后になりそこなった、可哀想な娘っ子の叔父だよ。俺は」
「私のことはともかく、この子のことまで悪し様に言うとは……衛兵!この慮外者を捕らえなさい!」
郭聖通が怒りのあまり仰け反って鄧奉を指差すと、衛兵が二名飛び出してきた。鄧奉ほどではないが、どちらも屈強な体格をしている。
鄧奉は笑って指をゴキゴキと鳴らす。
「やめとけ。お前らは数秒後には腕がおかしな方向まで曲がったり、小便漏らしたりすることになるぜ。女子供の見ている前でかっこ悪いだろ」
衛兵はこれを挑発と受け取った。一人が槍を片手に鄧奉に突進していった。劉秀は叫んだ。
「やめろ!鄧奉!」
鄧奉は左手の手刀で戟の柄を叩き折ると、足払いと同時に右手で衛兵の左腕を掴んで背後に回った。肩が外れる不気味な音がして、衛兵は絶叫とともに地に沈んだ。もう一人の衛兵は戟を振りかぶった瞬間には肉薄されており、脛を蹴られて膝をついたところを裸絞を決められて気絶し、失禁してしまった。
劉秀は鄧奉の前に進みでた。
「いい加減にしろ、鄧奉。これは、妻や息子には何の責任もないことだ。あくまで私の決定で、私の責任だ。どうしても気に入らないというのなら、私自ら君を誅することとなる」
劉秀は気絶した衛兵の手から戟を取ると、ゆっくりと構えた。
鄧奉は劉秀を睨んでいたが、急に悲しげな目をして周囲を見渡した。
「みんな俺がおかしいみたいな顔しやがって……おかしいのは、おかしいのはてめえらの方だ!」
鄧奉は叫ぶやいなや参列者を押しのけて飛び出してしまった。
「あれは頭に血が上っていただけだ。追うな」
劉秀は重臣達の声を退けて、鄧奉の追跡を押し留めた。




