第五十九章 劉玄
1
ここでは一度時間を巻き戻し、更始帝劉玄の運命について述べる。
劉秀が盗賊を征伐し、馮異が朱鮪と対峙し始めた一月、鄧禹は解の地で比陽王の王匡と戦っていた。王匡は整然と並ぶ鄧禹の軍を嘲笑った。
「ずいぶん規律正しく兵を並べていらっしゃるなぁ、お坊ちゃんよう。張りぼて感が半端ないぜ」
王匡は弟を亡くしてから横暴を働き周囲の信頼を大きく損なっていたが、緑林時代から引き連れた軍団は親分子分の関係であるから別である。王匡は虎の子の軍団に総攻撃を命じた。
行く先で略奪を絶対に行わない“綺麗な軍隊”を率いている鄧禹は、この荒々しい王匡の兵に抗しえず、大敗を喫することとなった。
その翌日は六甲窮日と呼ばれる不吉な日であった。験を担ぐ癖のある王匡は、一日待って再度攻撃を仕掛けることとした。
しかし、鄧禹は驚異的な速さで敗軍を立て直すと休憩している王匡の軍に奇襲をかけ、大破することに成功したのである。
王匡退却の報に接した更始帝は激怒した。朝堂には諸将の他、側仕えする劉恭がいた。
「肝心なところで縁起なんぞ気にしおって!いつまで盗賊気分でいるんだ!」
その更始帝の発言に大笑いする者がいた。張卬である。
「ははは、はぁはぁ、ああ苦しい。あんたこそ、“いくら略奪できたんだぁ?”とか言ってたじゃあないですか。思い出しちまってどうにも笑えちまう。いやぁ、失敬失敬」
「あんた、だと?貴様、正気か」
張卬は唾を吐き捨てると周囲を見回して言った。
「もう、言っちまうぜ。茶番は終わりなんだよ。赤眉と銅馬帝に挟まれてもう勝ち目はねぇ。俺らもあんたもどうせ盗賊止まりの器だったのさ。金目の物を略奪して、宛にでも逃げようぜ」
呆気に取られた更始帝に、申屠建も薄ら笑いを浮かべて言った。
「まぁ、情勢は流動的です。宛で再起を図るというのも有りでしょう。悪くはない話です」
「くそっ、揃いも揃って朕を馬鹿にしおって。隗囂、こいつらをひっ捕らえろ!」
隗囂は静かに微笑んだ。
「やれやれ、こんなところで切り出すなんて話が違いますよ、張卬殿。困りますな」
更始帝は怒りに蒼ざめた。
「お、お前がこの企てを言いだしたというのか。お前は自分の叔父を誅殺させてまで、朕に忠誠を誓ったではないか」
隗囂の顔には微笑が貼り付いたままだ。隗囂にとって、叔父や兄は邪魔な目の上の瘤でしかなかった。叔父達の謀反の計画は、二人を始末したい隗囂にとって渡りに船だったのである。
「陛下が天意を失われたこと、臣隗囂は哀しみに堪えません。ここは命まで失う前に、劉良殿に譲位なされるというのは如何か。劉良殿は銅馬帝の育ての親。赤眉はともかく、銅馬帝は攻撃を躊躇するでしょう」
劉恭はこの邪悪な男を見て慄然とした。これまで恭しくへりくだっていたその態度の全てが偽りだった。絹の靴下に入った糞のような男だ。
更始帝は口角から泡を散らして叫んだ。
「みな上辺だけだ!みなが朕を陰で笑っているのだ!」
「この劉恭は断じて違います!私めは陛下に助けられた御恩を、決して忘れておりません」
「黙れ!黙れ黙れ黙れ!」
更始帝は盃を劉恭の顔に投げつけた。劉恭は顔も拭かず主君の顔を見つめた。
一触即発の危機に丞相の李松が、諸将を解散させた。更始帝は劉恭に気付け薬を飲まされて、退いた。
2
数日の後、退位についての相談をしたいという更始帝の召還に応じた申屠建は、朝堂に入るなり扉の陰に隠れていた更始帝に斬られ、呆気無い最期を遂げた。張卬は呼び出しに不穏な気配を感じ取り、応じなかった。
その頃、隗囂の屋敷を執金吾の鄧曄が禁軍を率いて包囲していた。
「謀反人隗囂、大人しく投降しろ」
「謀反ねぇ。あの盆暗に本気で忠誠を誓っている奴がいるとしたら、それは相当の阿呆だぜ」
「ふふふ、口が過ぎるぞ王元。そういう忠義の人が現にお見えになっているのだからな」
隗囂は脚を引き摺りながら戸口に現れた。
「お勤めご苦労様です。鄧曄殿と言ったかな。相棒がいないと、いささか鼻が利かぬものと見える」
隗囂が目配せすると王元は高く大斧を掲げて叫んだ。
「隗王の他に王は無し!」
すると禁軍の兵は一斉に漢の旗を投げ捨て、鄧曄に剣を向けて呼応した。
「隗王の他に王は無し!隗王の他に王は無し!」
「そ、そんな馬鹿な。禁軍を取り込んでいたというのか」
その時、馬蹄が鳴り響き騎兵の一団が現れた。騎兵は剣を振るって禁軍を薙ぎ倒した。
「鄧曄、乗れ!」
「う、于匡か!恩に着るぜ!」
鄧曄の相棒たる于匡は、鄧曄を自分の馬に乗せると風のように去っていった。侍中から兵変の噂を聞き、自身の侠客を集めて旧友を助けに来たのだ。
追跡しようとする王元を隗囂は制止した。もう彼に対して力を割くのが無駄だという風だ。
「やれやれ、劉氏を操って春秋の世を再現しようと思っていたのだが。上手くいかぬものだなぁ」
隗囂は漢の皇帝を春秋時代の周王のような権威だけの存在に据え、諸国の分立する時代を現出させようと考えていた。故に長安にも、劉玄にもこだわる必要はなかったのだ。
「そんな回りくどいことをせずとも、貴方が涼州に君臨すれば、自ずと群雄割拠の世になりましょう」
隗囂は涼州に帰還し、事実上の王として振る舞う事となる。
3
長安に疑心と混乱の嵐が吹き荒れた。赤眉の建世帝が劉恭の弟であることが判明すると、劉恭はこれを恥じて自ら入獄した。
孤独を深めた更始帝は半ば正気を失い、陳牧、成丹といった無実の者まで疑って次々と誅殺した。帰還した王匡はこの事を知り、張卬と兵を合わせた後に宮中へ侵攻した。殺られる前に殺れというところだ。
趙萌と李松は趙匡の活躍でかろうじて張卬・王匡を退けたが、進退窮まった二人は長安に接近していた赤眉に投降してしまった。
「王匡らが案内を買って出ているようですな。思ったよりも到達が早い」
趙匡は梟のように大きな目で城門に近づきつつある赤眉軍を眺めていた。
「他人事のように言うな、趙匡!何とかせい!」
趙匡は趙萌を冷然と見つめた。宮城を守るべき禁軍は隗囂に持っていかれてしまった。残るわずかな兵数では、赤眉の大軍に抗し得ないことは明らかだった。
「我が軍法をもってしても、もはや何ともなりませんな。私はここを脱出して鄧禹に会い、銅馬帝に降ります」
「そ、それでもいい。案内しろ」
趙匡は周囲に人のない事を確認すると、おもむろに抜剣して趙萌の喉を斬りつけた。趙萌は喉を押さえ、ゴボゴボと血の泡を吹きながら後ずさり、城壁から落下していった。
「貴方のように好き勝手をやった奸臣が一緒では、心証が悪いのさ。再見」
城壁の上で変事が起きていた時、李松は城門の前に残り少ない兵を率いて陣を敷いていた。
李松の脳裏をよぎるのは従兄弟達の事だ。既に李軼は裏切りが発覚して朱鮪に消された。李通は劉秀の妹を娶り、上手くこの動乱を乗り切ってくれるかもしれない。
翻って自分はどうか。自分にも逃げる機会はあった。しかし、敗亡が自明のものとなっても、更始帝が仕えるに足る器でなくとも、彼は更始帝やこの政権を見捨てて逃げることが出来なかった。
「人は、私を時流を見定めることの出来なかった愚者だと嗤うだろう。嗤わば嗤え。この選択に悔いはない」
李松は赤眉軍と一昼夜に渡る激戦を繰り広げた後、討ち死にした。
赤眉の右大司馬である謝禄は、李松の死体を丸太に縛って生きているように見せかけると、李松の助命と引き換えに城門を開けるように勧告した。
城門を守っていた李松の弟、李汎は欺かれて城門を開いてしまった。
異変を感じ取った劉恭は脱獄し、放心状態の更始帝を伴って高峻に逃亡した。
こうして、長安は赤眉が押さえるところとなった。
4
赤眉と鄧禹の双方から降伏勧告をなされた更始帝は、劉恭が建世帝の兄であることから仲介を頼んで赤眉に降った。
更始帝は伝国の玉璽、劉縯から奪った天禄の剣などを赤眉に献上した。更始帝はただの劉玄となった。
平伏する劉玄を見て、樊崇は彼を殺そうとした。
「約束が違うぞ!陛下を殺すのなら、先に死なせてくれ!」
劉恭は短刀を抜いて自らの喉を突き刺そうとした。周囲の者が止めるが、劉恭は半狂乱で短刀を振り回した。それを見て建世帝劉盆子が叫ぶ。
「樊のおじさん!僕の兄さんが死んでしまうよ!約束を守ってあげて!」
仮にも自分達の皇帝の兄を自殺に追い込むわけにはいかない。樊崇は劉玄を助命し、かつて劉盆子に命じていた放牧の仕事をさせる事とした。
ある晴れた日、劉玄は青空の下、大の字になって寝そべっていた。
全てを失って、ただの人に戻った劉玄は、ほっとしていた。
宮中のきらびやかな生活も、美女も、贅沢も、彼の心を満たすことはなかった。
農業はからきしだった自分だが、この放牧の仕事は自由な時間が多く、なんだか好ましく思えた。
今、劉玄は初めて満たされていた。
ーー劉恭に恩返しをしていなかったな。なんにもないが……そうだ、搾りたての牛乳を持っていってあげよう。喜ぶと良いんだがーー
暖かな日差しの中で、劉玄は眠りに落ち、そのまま二度と目を覚ますことはなかった。
眠っている劉玄を絞殺させたのは、張卬にそそのかされた謝禄である。赤眉に加わった張卬は遺恨のある劉玄が生き残ってしまったことに危機感を抱いた。
長安の人々が赤眉の暴政に嫌気がさし、更始帝の世を懐かしんでいるらしい、張卬はそんな事を謝禄に耳打ちしたのである。
しかし、張卬もまた程なくして命を失った。酒宴の席でこの顚末を知った樊崇は、自身の判断をふいにされたと立腹して彼を打ち殺した。
劉恭は弟達を守るため赤眉に身を置いたが、天下が平定されて後、謝禄を殺して主君の仇を報じた。
平時の事とはいえ、劉秀は劉恭の忠心に免じて彼を赦免した。
さらに時を経て、劉玄の子の一人である劉鯉は、劉恭の仲介で赤眉に降ったのが父の死の発端だったとして劉恭を逆恨みし、彼を殺害した。




