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第五十四章 李軼

 新たに孟津将軍もうしんしょうぐんに任じられた馮異ふういは洛陽の朱鮪しゅい李軼りいつと黄河を挟んで睨みあう構図となった。廬生ろせいが報告する。


「洛陽の軍勢に動きあり。討難将軍の蘇茂そぼうを長とする部隊が温県の方角に集結中、渡河の準備をしています」


蘇茂もまた長安の不穏な情勢を感じ取り、朱鮪のもとに身を寄せたようだ。馮異は報告を聞くと書簡を書きはじめた。


「蘇茂に送られるのですか?」


「いや、李軼あてだよ。降伏を勧めてみる」


廬生は思いもよらない答えが返ってきたので啞然とした。李軼は蕭王しょうおう劉秀の兄である劉縯りゅうえんの殺害に主導的に関わった。そんな因縁のある相手が助命を期待して降伏するなどあり得るのだろうか。


「李軼殿の今までの行状を聞くと、あまりに軽挙妄動が目立つ。真実ではなく、自分の信じたい事を信じてしまう人だと私は見ている。それに中々の猛将だと言うから、出来れば矛を交えず倒したい。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものさ」


馮異が李軼に送った書状は以下のようなものであった。


ーーよく、“明鏡が形を照らすためにあるように、故事は今を知るためにある”と人は言います。

その昔、微子は殷を去って周に入り、項伯は楚に背いて漢を助けました。周勃は文帝を迎えて少帝を退け、霍光は孝宣を立てて小邑王を廃しました。

これらはみな天の定めた世の興廃を見極めたが故のこと。さればこそ彼らは偉人として名を竹帛にとどめているのです。

まだ更始殿に望みありとして愚図愚図しておられたとしても、もともと疎遠だった貴方はいつまでその王位を守りぬくことが出来るでしょうか?

長安は今や危うく、赤眉は迫り、王侯は亡命し、大臣は離反し、異姓の首領が並び立っています。

蕭王が霜を踏みしめて河北を領有することになったのも、天下が乱れたためです。今や蕭王のもとには英俊が集い、民の慕うことは周の古公のようです。

古の偉人に習って時流を見定め、禍を転じて福となすのは今をおいてありません。

猛将が長駆して貴方の城を十重二十重に囲んでから後悔しても、後の祭りですよ。ーー


舞陰王ぶいんおうの李軼は馮異の見立て通りの男である。李軼は既にこの時、朱鮪が言うとおりに事が運ぶのか不安になってきていた。その矢先に届いた書簡は彼を激しく動揺させた。寝返りも古人に擬せられれば、英雄的行為のように聞こえる。それが彼の耳である。兄の仇だから許されないと思っていたが、そもそも劉縯は自分の従兄弟を殺したではないか。都合よく物事を歪めて見えるのが彼の目である。

李軼は馮異に対して返答をしたためた。


ーー私は昔、蕭王と親しく交わり、義兵を興して共に昆陽を駆け抜けました。不幸にも今は敵同士になってしまいましたが、本意ではありません。ここで馮異殿とやり取りが出来ましたのも何かの縁と思います。私と断金の交わりを結びませんか。貴方から蕭王にもよしなにお伝えください。ーー


馮異はこの書簡を読んで、少し笑ってしまった。進んで劉縯を謀殺したくせに、こんなことがよく言えたものだ。仲良くしたいと言いつつ具体的な協力内容を何一つ書いていないのも、実にこずるい。

馮異は李軼に対して更なる返答はせず、突如として天井関から洛陽方面に侵入した。

李軼は既に書簡を送ってしまった手前、即座に応戦することが出来ず、二つの城と十三県を瞬く間に失った。蘇茂はこの状況の急変により、渡河を見合わせた。


 更始の河南太守である武勃ぶぼつ士郷しごうのほとりで泥濘に膝をつくと慟哭した。


「何故だ!何故来ない!李軼ぅぅぅ!」


馮異に奪われた城を奪還しに向かった武勃は、苦戦に陥ると李軼を頼った。しかし、李軼は助けには来なかった。李軼は武勃を見殺しにしたことを功績として、馮異に降れないかと企んだのである。

馮異は武勃を敗死させると、陣容を整えた。また、この時になって、劉秀に李軼の書簡を伝送した。李軼の処遇について、劉秀の判断を仰ぐためである。


――明確な裏切りをしたわけではないので味方への言い逃れはできるし、いよいよ寝返るというときには自分の手柄だと強弁することも可能だ。――


李軼の頭の中ではそんな歪な計算が成り立っていた。

馮異は堅く陣を築いたまま動かなくなった。

そのまま一週間が過ぎ、朱鮪が李軼の居城を訪れた。


「お前に是非見せたいものがある」


警戒する李軼は、朱鮪の持ち物を改めさせた。いつも持ち歩いている佛塵ふつじんのほか、書簡を一つしか持っていない。李軼は執拗に持ち物を改めたことを謝った。


「何、こんな世の中だから用心するのは当然だ。悪く思ってはいない。それより、見せたいといったのはこの書簡だ。開いて見てくれ」


李軼は封印を解いて書簡を開くと、目を見開いた。


「お、お、お前がどうしてこれを!」


「蕭王から送られてきたのさ。この風見鶏め!」


李軼が目にしたのは李軼自身の書簡だった。事が露見した以上、朱鮪を始末するしかない。

李軼は腰に手をまわすと飾り帯から腰帯剣ようたいけんを引き抜こうとした。

しかし、李軼の手や指は言うことを聞かず、痙攣し始めた。指を見ると、どす黒く変色している。

李軼は変色が指から腕へと波のように広がっていく様を最後まで見る事が出来なかった。書簡の内側に塗られていた猛毒が彼の瞳孔を収縮させてしまったためだ。

床に倒れた李軼が口から泡を吹いて息絶えると、朱鮪は冷たい目で佛塵を一振りした。


こうして舞陰王李軼は滅んだ。

劉秀にとって、残る仇敵は朱鮪その人である。

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