第五十章 銅馬帝
1
恐るべき大勢力を誇る銅馬軍を前に、劉秀の部将達は苦戦を強いられていた。
清河郡の清陽で銅馬軍と交戦した銚期は、期せずして背水の陣を強いられることとなった。
その救援に駆けつけた蓋延もまた、一時は優勢に立ったものの、次第に小部隊に分散して襲撃を繰り返す銅馬軍に翻弄され、遂には清陽城へ籠城を余儀なくされた。
遅れて二人に合流した鄧禹は、常山太守の鄧晨からもたらされた多数の弓兵と兵站物資をもとに再戦を図った。
居並ぶ漢の弓兵を見た銅馬の渠帥、東山荒禿は冷静に部下に命じる。
「お前たち、相手が弓に矢を番えたら、盾を捨てて力の限り走れ」
かくて、弓の一斉射撃を躱した銅馬軍は漢軍に肉薄し、奇声をあげて踊りかかってきた。
「恐れるなッ!陣を崩さず迎え撃て!」
鄧禹は声を枯らして兵士達を鼓舞するが、頼みの弓兵で削るはずだった敵はほぼ無傷で突進してくる。またも銅馬軍に決定的な打撃を与えることはできず、戦局は膠着することとなった。
2
遂に清陽に劉秀が到着した。劉秀は道中で募兵を終えた呉漢と合流していた。
呉漢の後に続く幽州の兵を見て、諸将は息を呑んだ。
異民族との争いで鍛えられた彼らは、佇まいに隙がなく、丹念に研がれた刃物のようだ。
「これほどの兵を手にした呉漢はどう出るか。まずいんじゃないか?」
こんな声が囁かれた。呉漢が精兵を手放さず、これを出汁にして発言力を増すのではないか、というのである。
しかし、呉漢は諸将の前であっさりと兵士の名簿を劉秀に献上したのである。
「呉漢が名簿を献上した途端に、疑っていた者達まで兵をわけてくれと殺到してきたのは少々滑稽だったな。しかし、お前の言うとおり呉漢に任せたのは正解だった」
劉秀の賛辞に、鄧禹は得意になる。
「そうでしょう。呉漢の、私心のないところも気に入っています。さて、兵を諸将の部隊に編入したところで反撃ですね」
「いや、しばらくは何もしないよ。筑でも奏でて時を待つ」
劉秀は不敵に笑った。
3
銅馬の渠師、荒禿は焦っていた。
――もうすぐ、食糧が尽きる――
乳飲み子や女性、家族を連れて移動する銅馬軍にとって、食糧の不足は共同体の解体に繫がりかねない深刻な問題だった。
野戦であれば相手から食糧を奪う事が可能だが、籠城されてしまってはそれがかなわない。
荒禿は偵探を出して、近隣の邑落には無防備な所がいくつかあるということを掴むと、夜陰に乗じて食料を奪うということに決した。
食料を奪いに行った部隊は、しかし二度と戻ってくることはなかった。
劉秀は昼間は無防備な村を作為し、夜間に弓兵を潜ませて銅馬軍を殲滅したのである。
荒禿は翌日、二倍の兵力を投入したがこれも失敗に終わった。二度目の襲撃は大規模であることを予期した劉秀が、陳俊の率いる弩弓手を潜伏する部隊に加えて増強していたためだ。
事ここに至って銅馬軍は清陽を離れようとしたが、弱りきった家族を抱えた大集団は蝸牛もかくやという鈍足でしか動けない。
幽州の突騎に追いつかれた銅馬軍は、精も根も尽き果てたといった様子で、遂に降伏したのである。
4
降伏した銅馬軍と劉秀の軍の間には不穏な空気が流れていた。その理由は、勝者と敗者の数的不均衡にある。銅馬軍の方が漢軍よりも圧倒的に数が多いのである。こんなとき何が起こるのか。
秦の名将、白起は四十万の捕虜を持て余し、一夜にして皆殺しにした。楚の重瞳こと項羽は、鉅鹿の戦いで降伏した秦の将軍を快く迎える一方で、暴動の気配を見せた二十万人の捕虜を尽く坑にして殺した。降将は助けられても、一緒に降伏した兵士は多すぎれば殺される、というのが世の習いであった。
こういった歴史的背景もあって、お頭は俺達を売って地位を手に入れたのではないか、殺される前に叛くべきではないのか、兵営に残された銅馬軍の兵士はそんな事を囁きあった。
この気配を感じ取ると劉秀の部将達も、叛かれる前に坑にでもしてしまえ、と考える者達が出始めた。まさに悪循環である。
劉秀は荒禿を呼び出すと一度兵営に戻るように告げた。
「良いのですか?頭目を返してしまっては、いよいよ謀反を起こすかもしれませんよ」
朱祜が心配そうに言う。ようやく傷が癒えた様子だ。
「なあ、朱祜よ。項羽が秦の降兵二十万人をそのまま味方に付けていたならば、高祖は果たして勝つ事が出来ただろうか」
項羽の残虐な振る舞いは、秦の人々の憎悪を招いた。章邯ら三秦が倒れると彼らはみな高祖に心を寄せた。類稀なる武勇を持ちながら結局は敗亡したのは、その狭量な器によるのではないか。
「………歴史にもしもはありません。仮定の話はきりのないことです」
荒禿は兵営に帰ると部下達にもみくちゃにされた。
無事を喜ぶ者もいれば、謀反の時期を問う性急な者もいた。荒禿は彼らを押しとどめるのでやっとだった。
人の波がようやくおさまった頃、兵営には別のざわめきが起こった。荒禿は訝しんで、人の波をかき分けて渦の中心に向かっていく。
「おう、荒禿か。様子を見に来たんだよ。みな、息災か?」
渦の中心にあったのは、劉秀その人であった。その姿を見て、荒禿は腰を抜かした。
「あ、あんた正気か。俺達の前に、そんな格好で!」
劉秀は鎧兜や剣を一切身に着けていなかった。例え体術の心得があっても、銅馬軍が変心したらひとたまりもないだろう。劉秀はフッと笑って、馬から降りた。
「おいおい、最近では味方の前でも武器がいるのか?」
銅馬軍の兵士は誰が合図するでもなく、一人一人がゆっくりと跪いていった。人々の波の上に一人、劉秀が揺蕩っている。多くの者は単純に劉秀が自分達を信用してくれたのだと解釈して平伏しているが、荒禿はさらに深くこの事を理解していた。この場に非武装の劉秀がいたら、劉秀の部下達は決して自分達に手を出すことが出来ない。劉秀は銅馬軍を守るためにここにいるのだ。
荒禿もまた地に伏して、絞り出すような声でいった。
「蕭王は真心をもって我らに接してくれた。命をかけて、お仕えしようじゃないか!」
こうして、劉秀は銅馬軍十数万人をそのまま自軍に併呑することに成功した。
関西の人々はその軍の強大な事を畏怖し、劉秀を“銅馬帝”と呼んだ。




