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第四十四章 南䜌の戦い 其の二

 南䜌に広がる平原の西には海かと見まごう巨大な湖、大陸沢たいりくたくが鎮座している。黄河の流れ込むこの途方もない大きさの湖は、悠久の歴史の中でやがて跡形もなく消失することになるのだが、湖を西に対面する両軍の誰にその事を言ったとて信じる者はいないだろう。黒雲の下、大陸沢は暗く淀んだ水を湛えていた。

漢軍の鄧禹とううは、陣の前面と側面に手押し車を並べて即席の盾とした。移動可能な馬防柵であるが、これは突騎がもし邯鄲勢についた場合のことを考えての策であった。

対する邯鄲勢は弓兵をずらりと並べる。陣太鼓が打ち鳴らされ、弓が引き絞られた。

一斉に放たれた矢は前衛の兵の頭上へ正確に降り注いだ。

兵士達に動揺が走る。流矢ながれや、大陸で言われる流矢とは、盲に射かけられた膨大な量の矢のどれかに運悪く当たってしまうことを言う。これが、狙いが正確であったなら、対象にされた兵士の恐怖はいかばかりのものであろうか。朱祜しゅこは劉秀に言う。


「大司馬、相手はこれまでの敵とは違う。厳しい戦いになるぞ」


敵の槍兵は車に怯むことなく、どんどん近づいてくる。槍兵の間から腰に刀を差し、藤牌とうはいつまり藤の盾を構えた兵士が飛び出し、車をどかしにかかる。僅かに開けられた車の隙間から槍が突き出され、漢軍の隊列は崩れていった。その時、槍を戟で叩き折りながら、大声で割って入る者があった。


「態勢を立て直せぇッ!貴様ら、しっかりせんか!」


戦場に響き渡る大声の持ち主は銚期ちょうきである。崩れつつあった隊列はすんでのところで持ち直し、反撃が始まった。

邯鄲勢は防御の薄くなった場所を的確に見抜き、攻撃を集中させていく。敵の攻撃が集中した場所に銚期や朱祜が救援に周り、一時的に持ち直す。ぎりぎりの戦いが続いた。


「手緩い、いつまで手こずっている。お前らは名にし負う上谷の勇士ではなかったのか?」


苛立ちを隠せないのは邯鄲の副将である劉奉りゅうほうだ。


「ふん、もうすぐですよ。御覧じろ」


馬上で不敵に笑ったのは孫倉そんそう、そしてその隣には衛苞えいほうが馬を並べていた。二人は共に主である耿弇こうえんと袂を分かち、邯鄲勢に身を投じた上谷の将であった。

孫倉と衛苞は胡馬に鞭打つと最も深く斬りこんでいる部隊に加勢した。

そこには馬上で鉄鞭を振るって奮戦する朱祜の姿があった。

孫倉は群がる漢兵を馬蹄にかけて踏み殺すと朱祜と対峙した。朱祜も孫倉を見据える。


「私の名は朱祜しゅこ。名のある武将とお見受けした。いざ、尋常に勝負!」


孫倉の戟が閃くと朱祜の鉄鞭がこれを的確に受け止める。朱祜が鉄鞭で打ち据えようとすれば、孫倉は巧みに距離を取る。勝負は全くの互角だった。朱祜が一気に馬を寄せて大きく振りかぶったその時、背後から戟が一閃された。


「ひ…卑怯だぞ」


兜を割られ激しく流血した朱祜が落馬する。


「一騎打ちを受けるなんてこちらは一言も言っていないぞ、間抜けめ」


孫倉と、背後から朱祜を襲った衛苞が哄笑する。

二人は朱祜を捨ておいて、本陣に向かって突き進んで行った。


 頭に頭巾を巻いた銚期が荒い息をしながら戟を振るっている。その頭巾には血が滲んでいた。


「無事か、銚期!」


馬の手綱を引き寄せて止まった劉秀が銚期に呼びかける。その背後から敵兵が得物を振りかぶっていた。銚期は危ない、と叫ぼうとしたが喉が枯れ声が出ない。

ところが、劉秀は銚期を見据えたまま背後に向かって剣を一閃した。敵兵は喉笛を押さえて崩れ落ちた。――神人か!――と銚期は驚いた。


「わだじだらがずりぎずです……しかし」


「押されているな……強い、こいつらは」


自陣の背後に突如どよめきが走った。その騒ぎの中心には一両の戦車があった。


「賊将劉秀は既に討ち取った!無駄な抵抗はやめろ!」


見れば、劉秀の指揮車が敵兵に奪われていた。指揮車に乗った二人の敵将は劉秀とは似ても似つかぬ首を掲げて降伏を説いている。しかし、劉秀の顔を知らない末端の兵士の間には激しい動揺が広がっていた。劉秀は接戦を拱手傍観できずに飛び出してきてしまったことを後悔し、歯噛みした。

指揮車を追おうとした劉秀だったが、混乱する自軍の兵士に阻まれて取り逃がしてしまった。

劉奉率いる前軍は攻撃の手を強めつつある。


「ここで、ここで私は負けるのか?………いや、まだだ!」


劉秀は再び剣を握り締める。しかし、空には暗雲が垂れ込めていた。


 十分に漢軍の防御を破砕したと見るや、倪宏げいこうは主力部隊に攻撃命令を発した。


「小細工は必要ない。力任せに揉みつぶせ」


虎の子の重装歩兵が崩れつつある漢軍に襲いかかる。次々と漢兵は倒れていった。戦局は明らかに邯鄲勢に傾きつつあった。

さしもの劉秀にも疲れが見え、敵兵に囲まれてしまった。敵兵はじりじりと輪になって距離を詰めつつある。


「御免!」


一人の敵兵がぐらりとよろめいて倒れた。背後には手を血塗れにした大男、賈復かふくが佇んでいた。劉秀を取り囲んでいたその他の敵兵は怯えつつも賈復に踊りかかったが、すぐに血飛沫をあげて地に塗れることとなった。


「我に利あらず。撤退しましょう」


「まだだ。敵に突騎がついていない。救援の望みがあるということだ」


賈復の表情は強張っている。


「後から突騎が来たとして、それが敵の増援でないとどうして信じられましょう。あんな小僧の何をそんなに信頼なさっているのです」


「あいつは来るさ……わかるんだ。上手く言えないが……」


その時、雲間に光が射しこみ、太陽が空に輝いた。

僅かな音が徐々に近づいてくる。それがやがて馬蹄の響きだとわかり、そこから本当に馬蹄の響きなのか疑わしくなるほどに猛烈に、雪崩のような轟音となった。


「上谷の突騎これに有り!漢軍を助け、賊軍を討ち払うために、上谷郡の突騎が参りましたぞ!」


突騎を指揮する壮年の将軍は上谷の副将である景丹けいたんであった。日の光が降り注ぎ突騎の鉄甲をきらきらと光らせる。

突騎は迷いなく戦闘の中に突入し、邯鄲勢を蹴散らしはじめた。

邯鄲の劉奉は兵士を律し、横合いから突撃する突騎に対して防御の態勢を築いた。しかし、突騎はその防御の陣を紙切れか何かのように切り裂いていく。


「くそッ!怯むな、隊列を、ぐがっ………」


馬上の劉奉を景丹の戟が貫いた。呆気なく事切れた劉奉の首を掻くと、景丹は戟にその首を掲げる。

今度は邯鄲勢に恐慌が走り始めた。


 孫倉と衛苞は劉秀の指揮車に乗って漢軍に矢を放ちながら、自軍の恐慌を鎮めようと走り回っていた。

聞き覚えのある犬の声に気がつき、孫倉は隣に乗る衛苞を小突いた。しかし、反応がない。衛苞は額に矢を生やしていた。


「若、いや糞餓鬼め、邪魔立てしにきたか!」


孫倉の睨みつける先には、胡馬に跨り弓を手にした耿弇こうえんがいた。耿弇の愛犬であるシボが敵兵を躱しながら吠え立てている。

耿弇は弓を納め、三尖両刃刀を構えた。


「上谷は郡を挙げて劉秀様にお味方した。そういう事にするためには、お前をここで倒さねばならないんだ」


孫倉は指揮車を引く馬に飛び乗り、戟で車から馬を切り離した。孫倉もまた戟を構える。

孫倉の戟は耿弇の三尖両刃刀を打ち据える。耿弇はこの斬撃を受けるだけで精一杯という風だが、徐々に距離だけを詰めていった。苛々した孫倉が戟を高く跳ね上げると耿弇の三尖両刃刀は宙に舞った。

しまった、という表情の耿弇を見た孫倉は笑みを浮かべて戟を振り下ろす、はずだった。

耿弇は袖の中に隠していた矢で孫倉の首を貫いていた。孫倉は何事か呟こうとしたが、血の泡を口角から吹いたに留まり、どうと崩れ落ちた。

耿弇は馬からゆっくり降りると、孫倉の亡骸を見つめた。


「孫倉…お前には肩車をしてもらったこともあったのにな」


皺が悲しげに鳴いた。


 景丹率いる上谷の突騎が脱兎と化した邯鄲勢を追いかけ死体の山を築いていく。倪宏は残った重装歩兵をまとめ徹底抗戦の構えを見せたが、これを打ち砕いたのが遅れてきた漁陽郡の烏桓突騎であった。呉漢ごかんは悔しさを滲ませる。


蓋延がいえんの奴がのろのろしているから、完全に出遅れた。獲物はたったのこれだけだ、まったく」


構えられた槍など存在しないかのような勢いで突撃していく烏桓突騎を見て、味方までもが恐怖した。彼らは兵士と言うよりはむしろ、巻き込まれた者に確実な死をもたらす天災の一種のようであった。

乱戦の中で倪宏は斬り刻まれ、敵の大将であるにも関わらず、遂にその首は発見されなかった。

夕暮れ時、遂に南䜌の戦いは終わった。

劉秀は敵兵の屍の山を見て、肌が粟立つ思いがした。


「幽州の突騎は天下の精兵と聞いていたが、まさかこれ程までとはな」


河北の戦役は決着の時を迎えようとしていた。

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