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第三十一章 邯鄲の天子

 馮異らに伴われた耿純こうじゅんが劉秀の宿舎に訪れると丁度玄関から出ていく男があった。

男は三人を睥睨へいげいするように見ると、挨拶もなしにすたすたと通りすぎていった。真っ黒な着物を着たその男の表情は、険しくどこかうらぶれた印象があった。

劉秀は鄧禹を同席させて耿純と会った。耿純は李軼りいつから節を持たされた経緯を話した後、深々と頭を垂れた。


李軼りいつ殿は私を閣下にぶつけて邪魔をさせようと考えたのでしょうが、そんなことをしていても民を困らせるだけです。この節をお渡しします。そして、願わくば私も閣下のもとで働かせて頂きたく思います」


劉秀は微笑んで言った。


「喜んで迎えよう。あなたは私と似た考えの持ち主のようであるし、このまま邯鄲の鎮撫をやってもらおうと思う。なあ、鄧禹、君もそう思うだろ?」


しばらく黙って聞いていた鄧禹だが、目を見開くと耿純に尋ねた。


「あなたが来る前に大司馬が面会していたのは、趙王ちょうおうすえを名乗る劉林りゅうりんという男だ。彼は黄河を堰き止めて赤眉せきびが来たら決壊させ、彼らを溺死させるという策への協力を求めてきた。君はこの策についてどう思う」


「愚策ですな」


耿純は即答した。元々、黄河の決壊により発生した赤眉をまた決壊で葬るなど、成功したところでまた農地を流された別の農民が新たな賊になるだけだ、と耿純は続けた。


「あるいは、何かの罠かもしれませんが…」


「そう、私も罠かも知れぬと疑っている。…明公との、私も明公の意見に賛成です。耿純殿には一度邯鄲に帰って頂き、鎮撫をしつつ劉林が何か企みをしていないか探ってもらいたい」


 邯鄲の中心街から裏路地に抜けるとぐねぐねとした薄暗い道が続く。劉林は糞尿やゴミの入り交じった悪臭に耐えながら奥へ奥へと進んでいく。

ついに行き止まりまで来ると、正面の壁には龍のような怪物の顔が墨で描かれている。

劉林はしゃがみ込むと足下の鉄格子を外し、地下へと続く暗闇の階段を降りていった。

松明にぼんやりと照らされた部屋はどこまでが壁なのかも曖昧である。そのさらに奥には黒衣に身を包んだ人物が机の上に置いた水晶球を両手で撫でていた。顔も黒布で覆い、目だけが不気味に輝いている。


「計略は不首尾に終わりました」


劉林の短い報告に、水晶球を愛でる黒衣の男が応じる。


「黄河に誘い出せれば容易すく殺せると思ったのだがな。できれば、邪魔者は先に消しておきたかったが…」


「しかし、既に機は熟しております」


劉林は告げた。その声には熱がこもっていた。


「良かろう…計画を実行に移す」


水晶球に怪しい光が宿り、そして消えた。


 耿純は邯鄲に戻ると劉林の動向を探った。劉林とその手下達は、数ヶ月前から“赤眉が黄河の近くまで来ている”という根も葉もない噂を流しているという。

邯鄲には劉秀一行を追ってやってきたという傅俊ふしゅんがいて、耿純が劉秀の命を受けて劉林を追っていると聞くと、耿純のことをしきりに羨ましがりながらも熱心に手伝ってくれた。


「昆陽の戦いの時からいた俺に声かけずに行ってしまわれるし、そのくせ会ったばかりの人に大役を任せてるし、傷ついちゃうなぁー」


傅俊は邯鄲で流布されているもう一つの噂を掴んできた。それは“成帝の落胤が生きている”というものである。成帝は世継ぎが無かったために皇統が移り、そのことが王莽の付け入る隙となった。もし成帝の子がいるならば帝位の正統性で言えば、最も相応しいと言える。

宿で傅俊から報告を受けると、耿純は言った。


「成帝の御落胤といえば、そんな事を言って回って王莽に処刑された狂人がいましたな。たしか、劉子輿りゅうしよとか名乗ったという…」


「殺されたのは影武者で、本物の劉子輿は生きてこの邯鄲に潜伏しているのだ、というのがその噂です」


まさかそんな与太話を信じるやつはいまい、と耿純が笑うと傅俊は真面目な顔をして言った。


「それが、信じている奴はけっこういるらしいです。劉子輿を奉じる奴らはこんな模様をお互いの目印にしているとか。これは龍か何かの紋様でしょうか?」


竹簡に描いてある龍の顔は不気味に二人を睨みつけている。


「魔除けなんかによくありそうですな。湯呑とか小物についているような」


そう言って耿純が湯呑を見やると、そこにはそれこそ似たような紋様が描かれていた。いや、それは似ているというよりも、はっきりと同じ紋様だった。二人が顔を見合わせていると、がちゃがちゃという金属の響くような音とともに、扉の前に人の気配がやってきた。


「…お茶のおかわりを持って参りました」


耿純は声を殺していった。


「鎧を着て茶を淹れる仲居がいるものか。傅俊殿、窓から逃げますよ」


耿純と傅俊が宿屋から命からがら逃げ出していたそのとき、邯鄲城は黒衣の集団三百人余りに襲撃され、あっさりと陥落した。


 邯鄲城を押領おうりょうした黒衣の集団は、劉子輿を名乗る人物を戴いて華々しく即位の儀を執り行った。


ちんこそは大漢帝国皇帝、劉子輿である。朕の母は成帝の歌伎かぎであり、やがて御手がついて朕を産むこととなった。皇后が嫉妬を逞しゅうして朕を殺さんとしたために、大臣の一人である李曼卿りまんけいが他人の子と朕を取り替えて、蜀の地に避難させたのである。蜀の地で二十余年、雌伏の時を経て朕は戻ってきた。朕はまた、密かに柱天大将軍の翟義てきぎに命じて逆臣王莽を誅した。王莽倒れて後、南陽の劉玄は私の生存を知らなかったばかりに帝位を称したが、漢王朝の復興はこの地、朕のいるこの邯鄲から始まるのである。朕は既に詔勅をくだし、翟義と劉玄を共に行在所へ召している。劉玄が大人しく帝位を返上しなければ、逆臣として征討する所存である。河北の地で勝手な命令を下して民を混乱させた行大司馬劉秀は、罪重きゆえに直ちに誅することとする。その首を挙げた者には萬戸侯ばんここうの位を授けよう」


即位後、劉子輿はすぐにこのような檄文を河北中に飛ばした。王莽に抗った英雄翟義はまだ死んでいない、この噂は劉林が流した訳ではなく彼を慕う百姓達から自然に発生した噂であったが、これを利用したのである。劉子輿はまた、丞相に劉林、大司馬に李育りいく、大将軍に張参ちょうさんといった趙・魏の大豪を任じて政権を樹立し、各地に将軍を派遣した。

かねてより赤眉の到来を恐れていた河北の人々は事の真偽を確かめることもせず、響の如く応じ、風の如くなびいて、加わり来たる者は後をたたなかった。俄には信じがたい速度で、河北はその多くの地域が劉子輿の支配圏となったのである。

劉秀にとってこれは非常に危険な状況を意味していた。自らのいる場所が急に敵地のど真ん中に変わってしまったのだ。

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