第三十章 鎮撫
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劉秀一行は黄河を渡るといよいよ州郡の鎮撫に取りかかった。
鎮撫の仕事には、囚徒の平遣、官吏の考察、官名の復旧等がある。
囚徒の平遣とは、冤罪を晴らし、過小な罪で獄に繋がれている者を解放するなど、過去に遡って公正な裁きを下すことである。また、王莽の政治に反発した政治犯の解放等もその内容に含まれた。この仕事では、元獄吏の王覇や、再び一行に加わった朱祜が精力的に活動した。朱祜が賈復と陳俊を伴って現れたとき、劉秀は大喜びで朱祜を元の役職、護軍につけた。
官吏の考察においては、劉秀は県令等の役人の一人一人と面接し、勤務評定を行った。度を越した汚職役人を罷免し、清廉な者をその後任につける等、これらの判断は元役人の馮異の助言を受けつつ進められた。
官名の復旧は、ここでは官職の名前を漢王朝の時代に戻すことである。王莽は官職の名前を自分流にころころと変える悪癖があり、新王朝の時代には聞いた者がわからない官職名が横行することとなった。改名の頻繁なこと、担当の役人が記録を放棄してしまう程であったという。劉秀は漢の官制に明るい銚期等を用いて、これらを民衆の慣れ親しんだ漢王朝の官職名に戻した。
この他、新王朝の時代に出された現実に則さないお触れの数々をばっさりと廃止する、祭遵に陣頭指揮を執らせて犯罪捜査を進展させる等をしたところ、劉秀の施策は官民ともに好意的に受け取られた。
一行の泊まる宿舎には、劉秀一行の鎮撫を喜んだ地元の有力者が付け届けを持って引切り無しに訪れたが、これらの贈り物を劉秀は決して受け取らなかった。
その理由は、一つには陳情を公平に聞き届けるため、もう一つは「賄賂を受け取った」という風評は朱鮪に粛清の口実を与える、という馮異と鄧禹の建言であった。
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劉秀は鎮撫の道中、王覇の供の者がいないことに気づき、彼に声をかけた。王覇はばつが悪そうに答えた。
「みんな逃げました。大司馬に兵隊がほとんどつけられなかったもんだから、これは実質左遷なんだと判断したらしいんです。現金なもんですな」
劉秀は王覇の肩に手を置くと囁いた。
「それでも、君は残ってくれたんだな」
王覇は当然のことをしているだけです、と言ったが、劉秀は感嘆して言った。
「当然なものか。頴川から付いてきてくれている者はもう殆どいない。疾風が吹いたとき、初めて勁い草がわかる。君がそれだよ、王覇」
王覇は顔を紅くして、父から受け継いだ剣の柄を堅く握りしめた。
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数少ない勁草の一本、すなわち頴川から従っている者の一人である臧宮は困っていた。拐かしの下手人を捕まえたところ、これが鎮撫の一行に加わっている劉秀の遠縁の少年だったからである。
「乱暴目的で少女をさらうなど、何の情状酌量も出来ないが…どう思われる祭遵殿?」
蔵面に顔を隠した祭遵は、取り調べを任せてほしい旨を臧宮に伝えた。
「君は大司馬の身内なのだから、評判を下げるようなことはしてはいけないでしょう。なぜ、こんなことをしたのです」
少年はにやにや笑って答えた。
「大司馬の身内だから、だよ。俺に縄なんかしていいのかよ。さっさと解かねえと劉秀のオジキに言いつけてやるかんな」
祭遵はかたかたと震えだした。臧宮は何事かと訝しんだが、どうやら怒りで震えているらしい。少年は気づいているのかいないのかべらべらと続けた。
「あ…あんた、祭遵さんだっけ?可愛い顔してるらしいじゃん。オジキのお気に入りだって聞いたけど、そっち系?男同士ってどうやんの?教えてよ、ギャハハハ」
「黙って聞いてりゃ良い気になりやがってこの糞ガキャァ!一遍死んでやり直せぇぇぇ!……なーんてね。危ない危ない。思わずやってしまうところでした」
目を瞑ったままブツブツ言う祭遵に、臧宮は恐る恐る声をかけた。
「祭遵殿、やってしまっている」
祭遵は目を開くと、血塗れの右手と左手に吊るされてぐったりしている少年に気づいた。少年の顔は鬼灯のように紅に染まり、赤黒い血が耳からしたたっている。死んでいるのは誰の目にも明らかだった。
事の次第を聞いた劉秀はさすがに祭遵を罰しようとしたが、これに異を唱えたのが主簿の一人である陳副である。
「閣下は常に命令が整然となされることを欲されていました。閣下の一門に対してさえ厳しい姿勢で臨んだ祭遵殿の態度は、命令が行き届いている証拠であります。罰するのではなく、むしろ賞賛すべきではないでしょうか」
劉秀はしばし考えたが、祭遵をお咎め無しとし、軍中の監察を行う刺姦将軍に任ずることとした。劉秀は折にふれて言った。
「みんな祭遵に気をつけろよ。私の一門の子ですら法を犯せば叩き殺してしまうのだから、君たちを大目に見ることはまずないぞ」
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鄧禹はその目に異能を宿し、優秀な人物を次々と推挙するので、劉秀は人事に関して彼に全幅の信頼を寄せるようになった。
賈復や陳俊も到着するやいなやすぐに彼の建言で重職に用いられた。また、馮異や銚期を先行させて鎮撫を行わせる等の建言も受け入れられ、二人は先に河北最大の都市である邯鄲に至ることとなった。
「逃亡農民に恩赦を出すなんて、まこと我らが大司馬は優しい方ですなぁ」
銚期の言に馮異は冷静に返す。
「自分の土地に戻った場合のみ、でしょう。生産を回復させたい、逃亡農民の流賊化に歯止めをかけたい、というのが大きな理由で、ただただ善意で命じられたわけではないと思いますよ。…よし、街の中心部にある広場にこの立て札を立てましょう」
馮異らが広場にやってくると人集りが出来ていた。
人々はみな広場の中心に立てられた立て札を見ている。もちろん馮異達の立てたものではない。
「馮異殿、誰かが既に恩赦の立て札をここに。なんともはや、自分の土地に戻った場合のみ、などと但し書きまで一緒です。末尾に耿純と署名がありますな」
これは何が起こっているのか、馮異が思案をめぐらせていると後ろから声がかかった。
「なるほど、やはり劉秀殿は同じような策を考える方であったか。評判通り、これは期待できそうです」
にこにこと笑って背後に佇んでいたのは、耿純その人である。その手には節が握られている。
「顔を潰すようなことをして申し訳ない。許していただけるならば、あなた方の主に取り次いで頂きたいのだが」




