第十六章 劉伯升
◇一◇
劉伯升はその日、更始帝の催した酒宴に招かれていた。
しきりに隣席を勧める更始帝こと劉玄に不審感を抱きつつも、伯升は勧められるがままに酒を飲んだ。
時折、繍衣御使の申屠建が更始帝の顔を見ながら衣の玉玦を手に握って振った。
更始帝の額には汗が浮かんでいる。
「そ、それにしても大司徒の佩いているその大剣は見事な物だな。ひとつ、手に取って見せてはくれまいか」
更始帝は伯升の腰から大剣を引き抜くと重そうにしながらしげしげと眺めている。
申屠建は顔を赤くして玉玦をぶんぶん振り回している。伯升は言う。
「剣格に施された意匠は天禄と呼ばれる聖獣です。邪心を持つ者を退けると言われています」
更始帝は俄かに剣を取り落とした。その顔は蒼ざめていた。
「少し飲まれすぎたようですね。これ以上は玉体に障ります。お開きといたしましょう」
酒宴が終わった後、伯升のもとに舅である樊宏が駆け寄ってきた。
「危ないところであったな。玉玦を鳴らすは鴻門の会で項羽が沛公を殺めんとしたときの合図である。申屠建は帝と謀ってお前を亡き者にせんとしたのであろう」
劉伯升は高祖劉邦や翟義などの先人を意識した行動を常に取ってきた。
故に申屠建の仕草から企みも見抜いていた。
しかし、舅には心配をしてくれたことに謝意を述べるに留めてその場を辞去した。
――失敗した暗殺の故事に習うような間抜けどもに俺が易々と殺されるものか。――
伯升は独りごちた。その姿には既に王者の風格が備わりつつあった。
宮殿に戻った申屠建はしきりに暗殺の失敗を悔しがったが、独断で暗殺計画を立てて失敗した彼に朱鮪は冷ややかな目を向けて言った。
「お前が剣舞でも舞って殺そうとするならまだしも、帝に手を下させようとしてあまつさえ失敗するとは…。くだらん猿真似に范増が草葉の陰で泣いておるわ」
宮殿の広間の柱には李軼が寄りかかっている。
「まあ、帝は劉伯升に嫉妬はしていても憎むところまでは行っていないようだ。躊躇するのも無理はない」
朱鮪は眉間に皺を寄せて考えている。
「ふむ…ならば陛下が明確に憎んでいる者ならば殺すのは容易いわけだ。ここは、そうだな。陥れ易い者から順繰りに罠にかけて始末するとしよう。李季文殿、お力添えを。申屠建、お前にも挽回の機会を与える」
宛の宮殿を取り巻く黒雲はその濃さを増し、降り出した豪雨は三人の謀議の声を闇に吸い込んでいった。
◇二◇
劉稷は武勇三軍に並びなく、心剛にして忠義を重んずる烈士であった。劉伯升の右腕であった彼は、劉玄の即位直後からこれを奇怪なこととして、
「元々義兵を挙げて大事を図ったのは我が主劉伯升様と二人の弟君である。いま劉玄は何の才徳ありてか妄りに天子の号を汚すぞ」
などと諸人の聞も憚らず陣中を呟いてまわった。
更始帝は劉稷の様子を聞いて心中大いに怒りを発したが、何事にも億劫さを覚える性質であったので進んで処断するには至らなかった。
劉伯升の暗殺未遂から数週間を経たある日のこと、申屠建が劉稷の屋敷を訪ねた。
「喜ばしいことである。陛下は汝の今までの態度を水に流し、その武勲を認め抗威将軍に任ずると仰っている。謹んで拝命し、これからは忠勤に励むように」
竹簡を受け取った劉稷はしばらくそれを眺めていたが――劉伯升の他に主なし――と言うが早いか竹簡を引きちぎってバラバラにしてしまった。
申屠建は二人の従者に目配せすると大声で叫んだ。
「謀反人劉稷を引っ捕える。者どもかかれッ!」
二人の従者が飛びかかり劉稷を押さえつけようとしたがすぐに振りほどかれてしまった。
劉稷は座敷に飾ってあった剣を引っ掴むと従者の一人を斬り伏せて、もう一人を中庭まで横蹴りで突き飛ばすと屋敷の裏口に駆け出した。
しかし、扉を開いて外に出た劉稷が見たものは屋敷を取り囲む千人余りの弓兵と一斉に自身に向けて放たれる矢であった。
◇三◇
劉稷が更始帝に抗命して捕縛された。この知らせを受けた劉伯升は俄かに兵を集めて救出せんとする構えを見せた。
伯升に事の次第を伝えたのは李軼であった。
「私は陛下からの信任も厚い。私がともに陛下の説得に当たれば、兵を用いず劉稷を救うことが出来るかも知れません。私はこの通り、丸腰で参りましょう」
李軼の言に劉伯升が答える。
「そこまでしてくれるとは本当にありがたい。それに、昆陽でも我が弟を守って戦ってくれたそうだな。俺は正直、貴殿を見誤っていたようだ」
一方で、伯升の陣を訪れていた劉嘉は、伯升から協力を求められると、この救出作戦に難色を示した。
「抗命したのが事実であるならば劉稷にも落ち度がある。また、これが朱鮪らの張った罠でないとも限らない。劉稷は自分の行動が主君を窮地に追い込むかもしれぬのに、そこに考えが及ばなかった。不憫ではありますが、ここは助けに行かぬぬが上策でしょう」
劉伯升は首を振って言った。
「汝の言うことには理があるが…俺の兵は我が侠気を慕って集まった侠客ばかり。手下を見捨てるような侠客についてくる者がいるだろうか。今後、彼らを用いて天下を窺うならば奴を見捨てるという選択肢はない。無理を言って悪かったな」
伯升が出立して後、入れ違う形で劉秀からの文が伯升の陣に届いた。
伯升がその文を読むことは、遂になかった。
『…私に手を貸したという一事をもって李季文殿に気を許してはなりません。兄上があの人の従弟を手にかけたこと、お忘れなきように。』
◇四◇
刑場前に到着すると付近の家屋は不気味なほど静まり返っていた。
刑場の中心には劉稷が縛られて座らされている。
劉伯升は刑場の入口付近に兵を待機させると、処刑役人を無視してずかずかと乗り込んでいった。
伯升が劉稷の肩に手をかけると、劉稷の首はその肩から落ちて刑場の砂地を転がっていった。
李軼はその首を踏んで脚で止めると言った。
「申屠建め、ここにくるまでは生かしておけと言ったのに」
申屠建は剣を地に突いて貴賓席の前に立っている。貴賓席に座っているのは朱鮪であった。
「今までご苦労でございました。大使徒劉伯升殿、ここらでご退場願いまする」
朱鮪が佛塵――采配に似た道具――を掲げると刑場付近の家屋の二階は窓が開け放たれ、潜んでいた兵が伯升の率いてきた兵に猛烈に矢を浴びせた。
「謀ったな!」
劉伯升が李軼を睨みつけたその時には、李軼が蹴り上げた劉稷の首が伯升の眼前に迫っていた。
咄嗟にその首を右手で受け止めた伯升は、腹部に熱い衝撃を感じた。
伯升は自然に膝をついていた。
李軼が飾り帯から引き抜いた腰帯剣を血振りしているのが見える。
伯升が自身の腹部に手を当てると指には腸が絡みついた。
「なんだこれは……こんなところで俺は終わるというのか。信じられぬ」
天下を救うのは自分だと思っていた。
違うというのなら、この仕事は誰がやるのだろう。
意識が薄らいでいく。
ぼやけていく目の前に冕冠を被った男が立っている。
金刺の施された黒い袍を身に纏い、皇帝に相応しい堂々たる威容である。その顔はしかし、下の弟にそっくりだった。
劉伯升はその幻に手を伸ばそうとしたが、果たせずにそのまま息絶えた。
更始一年(23年)五月、劉伯升こと劉縯は志半ばにしてその命を失った。
劉伯升には二人の息子がおり、天下が定まって後、ともに王として封じられた。
『典略』という書物によれば、劉伯升の次男である北海靖王劉興は、蜀漢の昭列帝劉備の先祖であるという。




