第十四章 昆陽の戦い 其の四
◇一◇
轟音ととともに落下してきた瓦礫が城攻めの兵を押しつぶしていく。焼け出された工兵部隊は井守の黒焼きのようになっていて、見るに耐えない惨状だった。寄手の兵は知らず知らずの内に遠巻きになっていった。新の納言将軍荘尤は、抵抗が増したのは相手が決死の覚悟を固めてしまったからだと考え、大司空王邑に進言した。
「兵法には『城を囲むときは、闕を設けよ』とあります。包囲の一方を解いて、逃げ道を作ることで奴らの覚悟を削ぎましょう」
またしても王邑は面白くなさそうな顔をして、
「ここを踏み破るのも目前の事じゃ。城ごと屠るのに逃げ道など作らんで良い」
と言った。
「む。荘尤、きさま今、舌打ちをせなんだか?こら、待たぬか!荘尤!」
荘尤は聞こえない振りをして天幕から出て行った。
そこに陳茂が駆け寄ってきた。
「後方に突然敵の援軍が現れた。一万ほどの数だ。王尋様の命令で相手の同数程度の兵が対応に向かったが、貴殿の考えはどうか」
「うちの大将達は……言いたくはないが、言いたくはないが、どちらもうつけ者だ!この兵力ならば二倍、三倍の兵で粉砕すればいいものを。せめて、汝が直接指揮に当たれ!」
陳茂は荘尤の言を受けるとすぐさま馬を駆って向かった。
◇二◇
劉秀は精鋭ばかり千余騎を率いて敵陣の一里後方に面していた。諸軍を顧みて言う。
「今日の合戦で一足でも退いた者は、忽ち斬って両断にする。……我に続け!」
言うが早いか、馬に鞭打って駆け出すと敵陣に向かっていった。
朱祜は単騎の劉秀の戦いぶりに目を見張った。
劉秀は敵陣の前縁を、西より東、北より南へ薙いで廻り、矢庭に数十騎を斬って落とした。
それは不思議な光景だった。
疾風が敵を薙いで、通り過ぎると首が落ちている。そんな印象を見るものに与えた。
史書にある項羽の戦いなど誇張を交えたものだろうと思っていたが、これほどの武勇が現実に存在するというのか。
身体が熱くなるのを感じて、朱祜もまた鉄鞭を手に駆け出した。
朱祜が鬨の声を上げると千余騎の騎兵は一斉に呼応した。
熱が伝播していくのを感じる。
「文叔は、普段は僅かの敵でも慎重なくせして、これ程の大敵を物ともしない。不思議なこった」
豹の外套を纏った鄧奉が辟邪の大剣を抜いて言う。
鄧奉もまた腕鳴らしとばかりに忽ち数騎を両断してみせる。
陳茂は必死に彼等を囲ませたが、包み込む前に一方が斬り破られる。
朱祜は、あまりに深入りしては潰される、ここらで引き返そうと叫んだ。
千余騎は一匹の馬のように一斉に首を返すと、左右の敵百余人を斬り倒して、敵陣を抜けた。
そのとき、任光が竹簡を放っていった。
これは劉秀の策の一つであった。
◇三◇
ほうほうの体で戻った陳茂は荘尤に報告する。
「賊の将軍はまだ若造だが、化け物だ。よほどの構えで臨まねば討ち取れまい」
その時伝令兵が駆け込んできて、敵がこんなものを落としていきました、と竹簡を差し出してきた。
『我が兄、大司空劉伯升は既に宛を陥れたり。主力三十万が宛より来るまで、私が敵の注意を引き付ける。両将軍は今しばらく辛抱されるようお願いいたす。――劉文叔』
劉文叔、その名には覚えがあった。
荘尤は不当に取り立てられた年貢を下げてもらおうと自邸を訪ねてきた青年の姿を思い出した。
「あの髭と眉の美しい青年がこうも猛々しく育つとはな」
しかし、宛が落とされたとあってはいよいよ不味い事になった。
荘尤は気づかぬ間に爪を噛んでいた。その爪には血が滲んでいた。
一方、劉秀の陣営では任光が怪訝な顔をしていた。
「劉将軍、本当に宛は落ちたのですか」
「わからない。ただ、私は兄を信頼しているよ」
重要なのは敵が宛の陥落という話を聞くと動揺する、という事だと劉秀は続けた。
翌朝、鄧晨を後方に残して大勢の変化に応じ誰それをここに進めてほしいと頼むと、劉秀は精鋭三千余騎と共に出発した。
敵の大将が武張った男ならばなお都合が良いのだが、そんなことを考えながら劉秀は馬を進める。
◇四◇
王尋は陳茂の敗北を叱責すると巨無覇と猛獣軍団を中軍に加え、自ら劉文叔を討つとして迎撃の布陣を行った。その数はおよそ一万人程であった。
王邑は本陣に控え、荘尤、陳茂は城攻めを続行した。
荘尤は戦力を小出しにするのは危険だと諫言したが、慌てふためいて大軍を振り向けるは無様である、という王邑の言を聞くともはや反論する気力もなく黙ってしまった。
劉秀は昆陽の西を流れる昆水という川を一気に渡河すると王尋の陣に肉薄した。
太鼓の音が響き渡り、虎豹犀象の類がじりじりと全面に出てきた。
中心にいるのは巨像にまたがる巨人の巨無覇である。
その姿を見つけると豹の外套を靡かせて鄧奉が言った。
「あれは俺達が引き受けた。お前は先に行きな」
劉秀は礼を言うと馬に鞭打って駆け出していった。
鄧奉、李軼、傅俊、王覇が巨無覇と対峙した。
鄧奉と李軼は巨無覇の両脇をすり抜けながら戟を振るったが、巨無覇の脚をかすめるばかりで有効な一撃を加える事が出来なかった。
「俺に考えがあります。俺が奴の脚にこれを投げつけたなら俺の身体を全力で引っ張ってください」
傅俊の手には分銅付きの長い縄が握られていた。それは亭長だった頃に傅俊が愛用していた微塵と呼ばれる捕物道具だった。
傅俊は言うが早いか鄧奉の馬に乗り移った。
巨無覇の横をすり抜けざまに傅俊はその足元に微塵を投げつけると、首尾よく左足に絡まった。
鄧奉は唸り声を上げて傅俊の身体を抑えたまま馬を走らせたが、巨無覇も体勢を崩すまいと踏ん張っている。主の統制が緩まった巨象はゆっくりと勝手に歩き出した。
「王覇殿にも同じ策を授けました。もう片脚を同じようにしてくれるはずです」
傅俊の信じる王覇は李軼の馬上にあったが、緊張で汗だくになっていた。
彼は、実は物を投げる遊びが子供の頃から大の苦手であった。
「もうちょっと、もうちょっと寄せてくださればチョチョイのチョイですんで!」
「そう言って何往復させる気だ。さっさと投げつけろ!」
李軼が甲高い声で怒鳴りつけると、王覇は自棄になって巨無覇の足元に向かって微塵を投げつけた。
微塵の先端はあらぬ方向へ飛んでいき象が右脚を上げたその先にポトリと落ちた。
しまった。王覇の心臓が止まりそうになった時、象は鳴き声をあげて後ろ足だけで立ち、身体を仰け反った。
巨無覇は轟音ととともに巨象の背から落下した。
その場にいた誰もがあずかり知らぬことであったが、象は足の裏の感覚が非常に敏感で、地面以外の物を踏むことをすこぶる嫌う。
王覇の投げた微塵は図らずも象という動物の性質をついた形となった。
巨無覇はどこかへ逃走する象を恨めしげに睨んだあと、重さ百斤の戟を手に立ち上がった。
鄧奉の振るった辟邪の大剣を戟で受け止め、咆哮とともに弾き飛ばした。
李軼もすかさず馬を寄せて戟を振るったが、彼の戟は巨無覇の戟によって叩き折られてしまった。
丸腰になった李軼に向かって巨無覇は渾身の力を持って百斤の戟を振り下ろした。
土煙の中、李軼はすんでのところで巨無覇の戟を躱していた。李軼が立っているのは巨大な戟の柄の上だった。
李軼は腰の飾帯に手をかけるとその尾錠を引き抜いて一閃した。
巨無覇の大きな頭が地面に落ちてごろりと転がった。
一瞬遅れて鮮血が噴き出し、李軼を朱に染めた。
「この怪物を討ち果たしたるは宛の李氏が一人!李季文である!」
李軼が帯に隠していたものは腰帯剣と言われる暗器であった。極限まで薄く作られて、ぐにゃぐにゃと曲がるこの剣は扱える者が少なく、非常に高価でもあったので持つ者は稀であった。
◇五◇
王尋の構える本陣には悪い知らせばかりが届く。
陣幕には二匹の蝿が五月蝿く舞っている。
既に巨無覇は討たれ、野生に戻った猛獣たちは新の兵も区別なく襲い始めた。
ぶんぶんと音を立てて二匹の蝿が旋回する。
猛烈な勢いで一人の将軍が本陣を目指して進撃しており、間もなくここに到達するかもしれない。
しかし、王尋は落ち着いていた。
王尋は知らせを受けながら、上半身を露わにして精神を統一していた。
その肉体はさながら鍛え上げた鋼のようで、享楽を貪る悪しき王族の身体とは思われなかった。
「相手がこの王尋を狙ってくるならば好都合。王氏が権謀術策だけの家柄でないことをその首に教えてくれようぞ」
王尋が無言で戈を振るうと二匹の蝿が地に落ちた。二匹ともが中心から真っ二つになっていた。
◇六◇
劉秀は敵が急に手強くなったのを感じた。
敵は軽装で鉄の仮面をつけ、新王朝の貴色である黄色の戦袍を着込んでいる。
これが武衛兵という敵の精鋭部隊、ならば王尋か王邑の陣幕は近いはずなのだが。
武衛兵が馬を寄せて殴りかかってきた。
手には虎爪と呼ばれる暗器を握りこんでいる。
突いてくる腕を跳ね上げ、戟の石突きで顎を砕くとどう、と武衛兵は地に落ちた。
すでにその背後には欄門楔という名の鈎状に曲がった珍妙な武器を持った別の武衛兵が控えていて、踊りかかってきた。
が、これは任光が背後から打ち倒した。
きりがない。劉秀と朱祜と任光は敵の本陣近くまで駒を進めながら膠着状態に陥ってしまった。
「劉秀匹夫、一勝負せよ!王尋ここにあり!」
金色の戦袍を纏い、銀色に輝く明光鎧で鎧った王尋が、豪奢な戈を手に見事な胡馬に跨って現れた。
劉秀は思わず吹き出してしまった。
「探していた首が自ら現れるとはッ!格別のご厚意に感謝する!」
「忌々しい小僧め!まずは汝をここで討ち、すぐに兄も後を追わせてやる!」
電光石火の打ち合いが展開された。
力量は互角、互いに二、三十合打ち合うものの一歩も譲らない。
両軍の兵士は戦いも忘れ、二人の決闘に見入っていた。
「貴様、どこでこんな技を覚えた!どの流派のものだ!」
「我が剣は曲成候が開きし宮廷剣術だ!薄汚い簒奪者の一族が知り得ようはずもない!」
王尋は一度戟の届かぬところまで間合いを切った、はずだった。しかし、劉秀の戟は王尋の右肩を刺し貫いていた。王尋は戈を取り落とした。彼の頭の中を痛みよりも混乱が支配していた。
――戟が伸びただと――
王尋はそう錯覚していた。
劉秀は戟を振り下ろす際にその持ち手を緩め、振り下ろした瞬間にその手を握りこんだのである。
この技術は、現代の競技薙刀等では“如意”の名で広く知られているものではあるが、遥か古の人々には魔術のように映ったことであろう。
まだだ、王尋は馬から飛び降りると戈を取ろうと手を伸ばした。
背中に熱い感覚が走り、王尋の意識はそこで途切れた。
王尋の背中を躊躇なく二回斬りつけた劉秀は馬より飛び降りた。
劉秀は、
「御免!」
と呟くと、遂に王尋の首を掻いて取った。
戟の矛先にその首を高く差し上げると味方からは歓声が、敵からは悲鳴が上がった。
「舂陵候家の三兄弟が末弟劉文叔!新の大司徒王尋を討ち取ったり!」
王尋の死で彼の率いていた中軍は完全に統制を失った。
中軍の騒ぎに王邑、荘尤、陳茂は只事ではないと気づき、攻城の手を止めた。
昆陽城内で決死の抵抗を続けていた王常は、
「寄手が鳴りを鎮めて矢の一つも射出さねえ。時ならず敵陣を隔てて、遥かに鬨の声が聞こえた。こりゃあ、劉将軍が新手をもって外から攻めてきたんじゃあないか?」
王鳳もまた、
「よし。急ぎ城中よりも討ってでて、挟み撃ちにしよう!」
と言って、二人は金鼓を打ち立てて、鬨をつくって城門から駆け出した。
荘尤と陳茂は、味方の利あらずして王尋は既に討たれたと聞くと、前後に敵を受けては本陣も守り難い、と判断して城攻めはすっぱりと諦めて転進し、王邑の救援に向かった。
王邑のいる本陣は既に劉秀と追いついた鄧奉等に囲まれ危うい体となっていた。
「王邑様、ご安心めされよ!救いの勢が参りましたぞ!」
荘尤と陳茂がこう叫んで一方を斬り破ろうとした時、凄まじい突風が吹いた。
突風は沙を捲き、石を飛ばし、空は黒雲が覆って雷電が夥しく震い、雨が降りだした。
突然の豪雨は顔を振ることも出来ないほど、まさしく盆を覆すがごとく、降り注いだ。
その時背後から王鳳と王常の軍が殺到した。
荘尤と陳茂の勢は、戦いらしい戦いも出来ずに散々に乱れ、互いに踏み倒され、踏みにじられ、死する者は数知れなかった。
しかしなんとか一方を斬り破った荘尤達は、王邑を本陣から救い出し、兵を纏めると昆陽の北方に位置する滍水の渡河を図った。
そこに漢の伏兵三千が待ち受けていた。
これは鄧晨が打ち合わせ通りに進めた兵で、馬武、臧宮、宗佻、劉隆、趙憙といった勇将が率いる部隊であった。
馬武が大身槍を振るって竹串に団子でも刺すかのように軽々と、二三人を一遍に突き殺していく。
陳茂は趙憙と数十合にわたって打ち合っていたが、戟を投げつけるという奇策に出て趙憙の腿を刺し貫いた。
荘尤は王邑を連れてその機を逃さず駆け抜けた。
配下の兵たちも蜘蛛の子を散らすが如く渡河を試みたが、このとき滍水が豪雨に耐えかねて氾濫した。
河水は盛んに溢れ、波々滔々として蔓延った。
運の尽きた新軍は、敵の追ってくる恐ろしさに馬を打ち入れては波に覆され、飛び入っては底に沈み、或いは討たれ射殺されて、四十余万の軍勢は一人一騎も残さず亡びてしまった。
さしも広き滍水の大河は屍体にせき止められて淀むばかりの有様であった。
◇七◇
荘尤、陳茂、王邑の三名は身に数か所傷を蒙りながら、鞍もない馬に打ち乗って何処とも知れぬ山中を彷徨っていた。
「おい、荘尤。こっちは常安の方向じゃあないのではないか?」
素っ頓狂な声を上げて王邑が尋ねる。
「我々は戻れば陛下に処刑されます。都には戻りません」
「貴様ら、大恩ある陛下に背くと申すか!共に戻るのじゃ。陛下はそのような懐の狭いお方ではないぞ」
荘尤は馬を無言で王邑の馬に近づけると、
「寝言は寝て言え」
と言って王邑の腹に蹴りを見舞った。
王邑は悲鳴を上げて斜面を転がり落ちていった。
劉秀は王鳳と相談しながら分捕品を分配していたが、兵糧、馬、物具の数はあまりにも莫大で焼き捨てざるを得なかった。
燃え上がる火炎に紅く照らされる昆陽の城には凱歌が響き渡った。
これより劉秀の英勇は関中に震動して、天下の豪勇響きのごとくに応じ、皆が漢の年号を用いた。郡守、県令を殺して漢軍に用いられんとして馳せ参ずるものが月を超えて絶えなかった。
昆陽で奇跡的勝利を修めた劉秀、宛を陥落させ威徳を示した劉伯升、この兄弟を面白く思わない者が宛城にいた。
この後、朱鮪、申屠建等の諸大将はこの二人を脅威と認識し、更始帝を操って排除せんとの策謀を巡らすのであった。




