第九章 育陽の戦い
1
新軍の納言将軍荘尤は親指の爪を噛んでいた。
傍らには秩宗将軍陳茂がいる。
陳茂は陳茂で先程から立ったり座ったり陣幕の中をうろうろと落ち着かない。
「勝ちに乗じているとはいえ、あれほどの勢いは予想出来なかった。むしろ、奴らからは窮鼠のような必死ささえ感じる」
友軍である甄阜の軍が壊滅したとの報に接し、荘尤と陳茂は宛に向かった。
連絡が取れていなかったとはいえ、友軍を見殺しにしてしまったのは痛恨事である。
不幸中の幸いは、宛に逃げ込んだ残存兵力が予備兵力と合流して守りを固めているらしいということである。
宛の軍勢をまとめ上げているのは岑彭である。
彼は劉嘉の怒涛の斬撃によって深手を負っていたが、甄阜の首が上がったというしらせに劉嘉が動揺したその虚をついて、脱出することが出来た。皮肉なことに、命を張って逃したつもりの甄阜が結局殺された事で、岑彭は命を拾った形になる。
しかし、宛の岑彭と兵を合わせて反乱軍を迎え撃つ前に、荘尤と陳茂はこの育陽で逆に反乱軍に迎え撃たれてしまった。
育陽は新野と棘陽の中間に位置する。
戦局は明らかになりつつある。荘尤は撤退を決意した。
2
劉聖公こと劉玄は陳牧ら平林軍の陣の後方から戦局をぼんやりと眺めていた。
今回も自ら戦うつもりはさらさらない。
弟の仇を討とうとした時も、そして今も。
荒事の中に身を置いてもどこか冷めた気持ちでいる自分に気付く。
裕福な名家の跡取りとして生まれた。人は俺を羨んだ。
何が羨ましいものかと思う。
つまらぬ家につまらぬ者が生まれただけだ。
つまらない少年時代を終えて、成人した劉玄は酒と女と博打を覚えた。
博打はやたらに負けるのですぐにやめてしまった。
酒は好きになったが、酒も弱かった。
記憶をなくすのでわからないが、酒癖が悪いらしく、一緒に酒を飲んだ友人達からはやがて距離を置かれた。
ある晩抱いた商売女が、事を終えたあとに露骨に態度が冷えたので、理由を聞いた。
「おにいさん、あたしを抱いている間もちっとも楽しくなさそうなんだもの。心底つまらないって顔してたわ」
おねえちゃんよ、世の中に面白いことなんかあるのかね。
ああ、あるやつにはあるんだろうな、現にあいつなんかは楽しそうだ。
なんていうか、生きてるって顔してた。
劉玄はこの育陽での戦いに先立って演説する劉伯升を思い出した。
「黄淳水での我らの大勝は、敵が半端に輜重への未練を残したことによる。釜という釜を全て砕け!馬草は全て焼き払え!我らは勝ちに驕っている暇はないぞ。飢え死にしたくなければ、敵を滅ぼし、奪え!」
熱狂の渦、その中心にいる劉伯升を自分はただ、ぼんやりと眺めるだけだった。
あの晩、むしゃくしゃして酒を煽る自分の前に朱鮪が現れた。
「あなたに面白い話を持ってきたのですよ。おっと、酒はそのくらいでおやめください。これから、あなたの御身体はもっと大事になるのですから」
朱鮪が持ってきた“面白い話”に劉玄は少しだけ心惹かれた。
あの人生を精一杯生きている、魂を燃やしている感じの奴に一泡吹かせるというのは、たしかにいい。
少しばかりは楽しめそうだ。
3
四、五十騎を引き連れて逃走を試みた荘尤と陳茂を追っているのは李次元こと李通であった。
李通は劉伯姫のことを考えていた。
彼女は一族全てを殺され宛から落ち延びてきた自分を助け、そしてその後も何かにつけ慰めてくれた。
その伯姫が今度は兄を失って悲しみの底に突き落とされた。
小長安での敗戦の夜、いてもたってもいらず伯姫の部屋を訪ねた。
泣き腫らした彼女を抱きすくめると、彼女もまた爪を立ててしがみついてきた。
あとは熱に浮かされたようでよくは思い出せない。
夢中で唇を重ね、貪るように求め合った。
「追ってきたくせに余所見とは、無礼にも程があるわい。皇帝陛下に逆らう不埒な賊将め。剣の錆にしてくれるわ!」
気がつけば李通の馬は陳茂に肉薄していた。
李通の戟は寸でのところで陳茂の長剣を弾き返した。
「不埒なのは王莽だッ!平帝を毒害し、孤児を誑かして漢室を滅ぼした!苛法と外征で百姓を苦しめ、天災を被った民を捨て置く無道の偽皇帝だ!貴様ら佞臣とまとめて誅してくれる!」
李通は陳茂の喉元へ戟を振るったが、陳茂も長剣を立てて戟を打ち返した。
五、六合打ち合ったところで、ひょうと李通の首筋を矢が掠めた。
「相手は無用だ、陳将軍。急ぎ、戦線を離脱せよ!」
荘尤に促されるままに、陳茂は舌打ちすると馬に鞭をくれて急速に遠ざかった。
李通は大物を逃した口惜しさよりも、今日を生き延びたことに感謝していた。
生きてまた伯姫に会える。
自分にこんな方向の情熱があるとは思っても見なかった。
劉伯升の破釜沈船の計により反乱軍は育陽の戦いでも大勝利を収めた。
しかし、その裏では陰謀の歯車が急速に回りつつあるのだった。




