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第百六章 岑彭

 夷陵を放棄して逃走した田戎でんじゅうは、江州に大量の糧食を集めて籠城の構えを見せていた。


「これだけの蓄えがあれば数ヶ月、いや半年は持ち堪えられる。さぁ、来い岑彭しんほう


「報告します!岑彭軍、我々を無視して夜間の内に北上した模様!平曲へいきょくを攻撃しています」


岑彭は陥落させた平曲城の城壁に漢の旗を掲げさせた。金瓜錘きんかすいを杖のように床に突いた岑彭の姿は、朝日に照らされて輝いていた。

臧宮ぞうきゅうはこの岑彭の自信に溢れた顔を見て、我が事のように誇らしい気持ちになっていた。この将軍は今、何か時代を動かす大きな力に背中を押されている。名将が誕生し、蜀を、成の国を打ち倒す。竹帛に記されるような瞬間に自分は立ち会えるのかもしれない。


「成軍は成都の南東にある資中しちゅう、東の広漢こうかんに兵を集めている模様です」


「さすがは巴蜀の王というところか。広漢を抜いて成都に向っても資中にいる敵に挟まれる」


川沿いに進めば自ずと前進経路は限られ、対策を講じられる。しかし、兵士の飲料水を確保するためにはそうせざるを得ない。川沿いの道を使いつつ相手の虚をつく事は困難である、と臧宮は思った。


「よし、卿はこのまま一部の兵を率いて広漢に前進せよ。私は引き返し、江水こうすいに沿って成都を目指す」


「私は陽動となり、背後から閣下が主力を率いて成都を襲うというわけですか」


「ははは、卿ほどの将軍が陽動だけではもったいない。勝てるようなら、そのまま進んで成都を目指してほしい。挟撃をかけるのだ」


やはり、岑彭の軍略はここに来て冴え渡っている。亡くなった馮異や来歙が力添えをしてくれているのだろうか。

臧宮は降伏した敵兵を自軍に加え、北上していった。しかし、降兵達の士気は低く、糧食も十分とは言えなかった。周辺の豪族達もさすがに公孫述への節を曲げず、防衛あるいは攻撃の構えを見せており、支援など望めそうもない。やがて降兵が離反を企てているとの噂が耳に入るようになった。このままでは陽動すら怪しいではないか、臧宮はこめかみが痛くなってきた。

そんな折、岑彭への親書を携えた勅使が兵を引き連れて近傍まで至ったとの情報がもたらされた。

臧宮はかけつけて勅使の率いる兵を見た。普段は宮殿の衛兵を努めているような選りすぐりの兵が七百名もいる。装備はきらびやかで、容姿端麗。おまけに行き帰りのために過剰なほど糧食を積んでいた。

臧宮はその様子を見て、一計を案じた。


「勅使殿、この兵が陛下からの“援軍”というわけですね。さっそく引き渡して頂きたい」


「え?そんな話は聞いておりませんが」


「行き違いがあったようですな。征南公と陛下の間で別の書簡が交わされており、そういう話になったのですよ」


臧宮は言葉巧みに勅使を言いくるめると僅かな護衛を除いてその兵を接収してしまった。

陛下からの援軍という触れ込みで加えられた精鋭部隊の威容、そして糧食は軍中の不安を一掃した。

川を登った臧宮を待ち構えていたのは延岑えんしん王元おうげんであった。

臧宮は船団を接岸させる。船に縄をかけ引く時に、臧宮はわざと兵士達に割れんばかりの大声で号令をかけさせた。


「こんな虚仮威しが通用するものか!なあ王元殿」


快活に話しかける延岑に、王元は頭を振った。


「残念だが、俺と貴殿だけだ。震えていないのは」


成軍の兵士の顔には恐懼の表情が張り付いていた。

谷に響き渡る兵士達の凄まじい叫び声は延岑達の軍を萎縮させていた。戦う前から勝負は決していたと言える。

破られた成軍は数千人、その遺骸は川の流れを堰き止めたという。延岑は何とか敗軍をまとめて成都へ引き返した。

戦闘後、川のほとりにぽつねんと立っている男を臧宮は見つけた。男は大斧を杖のようにつき、もたれかかるようにしていた。


「貴殿は……名のある将とお見受けするが」


男は振り向くと、天を仰いで深々と溜息をついた。


「隗王よ、ここらでよろしいですか」


王元の降伏により、残党を含めて隗囂の勢力は消滅した。


 江水に沿って時計回りに成都を目指す岑彭は、黄石こうせきの地で公孫述の部将である侯丹とぶつかった。その数は二万、かなりの大勢力である。


「ほう、こちらから来ることも予測していたか……だが」


岑彭は不敵な笑みを浮かべた。

一方、成都の公孫述は岑彭が黄石に現れたという報告により、新たな策を講じていた。


「万が一あり得るかもしれんと考えて、黄石に兵を置いたのは正解であった。さて、江水周りに敵の主力が来るとして、成都近郊にいたるまでには数ヶ月かかる。その間にまず平曲の敵に大軍をぶつけて潰してしまおう」


まだ各個撃破の可能な時間も兵力もある。冷静に対処すれば問題ない。公孫述は主力に平曲への移動準備をかけさせた。

数日後、公孫述のもとに伝令兵が駆け込んできた。


「陛下、大変な事が起きました!」


「ははは、そう慌てずに落ち着いて申してみよ」


武陽ぶようが落ちました」


公孫述は杖を取り落とすと、震え始めた。

武陽は成都と目と鼻の位置にある城である。ここを落とされては、残る藩屏は広都こうとのみ。喉元に刃を突きつけられたも同然である。


「な、何かの間違いではないのか。敵は黄石にいるのではなかったのか。黄石と武陽、何千里離れていると思っているのだ」


「黄石のお味方は既に敗れたとの事です。私は武陽から脱出して来ました。天帝に誓って、嘘偽りはございません」


公孫述はよろよろと窓辺に向かって、桟につかまると呻くように言った。


神業かみわざか」


武陽に旗を立てた岑彭はさすがに得意の絶頂にあった。

敵は自分を方師かなにかだと思っているかもしれない。しかし、策は至って単純であった。黄石の敵を蹴散らしたのち、昼夜休まずに精鋭だけを引き連れて行軍した。それだけの事である。

公孫述は元は官吏の出であるという。この武陽の手薄さを見るにつけ、頭の回転は早くとも常識に囚われた考え方しか出来ない男だと岑彭は考えた。


「さらに追い討ちをかける。ここからは騎兵だけで進撃する」


岑彭は自ら騎兵を率いると広都に攻め入った。

事ここに至って、成都の公孫述へ洛陽の劉秀から書簡が届いた。降伏の勧告である。禍福を述べ、信義を守ると約束する旨が書かれていた。

これを知った群臣の中から降伏を勧める声が上がった。

公孫述は白髪を掻きむしって言った。


「興るも滅ぶも天命である。天子に降伏などあり得ようか!」


公孫述は充血した目を見開くと、玉座から立ち上がり、うろうろと朝堂を回った。


「そうだ、環安は上手くやったそうではないか」


公孫述は口を歪めて、二回手を拍った。

天井から、そして柱の裏から、音もなく仮面の男達が現れた。仮面の男達、武衛兵ぶえいへいは公孫述の前に膝をついた。


「お呼びでございますか」


「ああ、呼んだ。呼んだとも」


 広都をも陥れた岑彭は、成都に向かっていた。途中で小集落に立ち寄った岑彭軍はそこで宿営することにした。兵士達がざわめいているのを見て、岑彭は兵士の一人に理由を尋ねた。


「はあ、この辺りの地名が“彭亡ほうぼう”だってんで、将軍の身に何かあっちゃあいけねえと。陣地変換を具申しようか、なんて話してたんでさ」


「ははは、そんな事か。心配してくれるお前たちの気持ちは嬉しいが、私はそんな事に恐怖して移動するほど臆病ではない。気にせず休むのだ」


岑彭は笑いながら兵士の肩をぽんぽん叩いた。

岑彭は自身の天幕に戻ると、死んでいった来歙や馮異について思いを巡らした。

洛陽の劉秀は、来歙の死後に親征を計画した。家臣の多くから諌められて帰還したが、兄のように慕っていた来歙の仇を自分で討ちたいと考えたのだろう。亡くなった仲間や仇討ちを果たせない陛下の無念を、自分が晴らしてやらねばなるまい。

岑彭は自身が劉伯升に命を助けてもらった恩を片時も忘れたことはない。劉伯升亡き後、その弟である劉秀へと報恩の志は向けられた。自分はまだまだ命の恩を返す程の功績を立てていない、と岑彭は思うのであった。


「もし」


「誰だ」


「閣下にお命を救っていただいた、哀れな奴僕ぬぼくにございます」


跪きながら天幕をくぐってきたのは、つい前日降ってきた奴隷だった。公孫述に仕えていた家内奴隷で、虐待に耐えかねて降ってきたのだという。岑彭ははじめこの男を怪しんだが、武器も持っておらず、本人が主張するとおりに身体に鞭打ちの痕もあり、取り調べにも従順であった。有益な情報も引き出せなかったが、岑彭はこの男を哀れんで小間使いにしていた。


「お前か。こんな夜分にどうした」


「隠していてすいません。実は、公孫述様から預かっていたものがあるのです」


「なに、見せてみろ」


「は、では遠慮無く」


奴隷は陰惨な笑みを浮かべると、突如として口の中に手を突っ込んだ。呆気に取られた岑彭の前で、奴隷は口の中から長剣を引き抜いた。

あ、と声を上げる間もなく長剣は一閃された。

鮮血がほとばしり、奴隷の引き攣ったような笑顔が赤く染まった。岑彭はがっくりと膝をついた。


「こんな……ところで……私は御恩を……まだ」


視界が暗くなっていく。血が抜けたためだろうか、寒い、と思いながら、岑彭は地に斃れた。

建武十一年、征南大将軍岑彭、刺客の手によって死す。諡して壮侯となす。後に雲台二十八将の第六位に叙せられた。

呉漢ごかんは岑彭の訃報と蜀攻めの指揮権が全て自身に移譲される旨が記載された命令を受け取った。

高午コウゴが諭すような口調で言った。


「主ヨ、少し抑えテ」


「何の話だ」


高午の視線は呉漢の手に向かっている。呉漢が無表情のままその三白眼で自身の手を眺めると、甲には血管がびっちりと浮かび、竹簡は粉々に砕け散り、掌に突き刺さって血が滴っていた。

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