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第百四章 馮異 其の二

 冀県きけんに立て籠もっている隗純かいじゅんは、再び出現した馮異ふういの大軍に対して焦るような事はなかった。散発的な戦闘であれば幾度も発生し、最初の戦闘からほぼ一年が経過しようとしていたからだ。


「ふふふ、南の風が吹いている。毒風を用いても味方が巻き込まれる事はない。それに加えてあの“怪物”も完成している事だしな。のう、趙匡ちょうきょう


「左様、支度は万全でございます。今日が馮異の命日となることでしょう」


一方、馮異も今日こそが趙匡との決着をつける日であると考えていた。

彼方に見えてきた冀城の城壁前には投石機がずらりと並んでいたが、その中心には見たこともない巨大な器械が鎮座している。


「例の毒を投射するために用いるつもりか。しかし、あの野幌のっぽはなんだ」


その器械は七丈(二十米)程の高さがあり、大木で組まれた脚に囲まれる形で、六角形の構造物が浮いた状態で固定されていた。側面に怪物の描かれた六角形のその構造物を頂点に、前方には短く、後方には長い巨木が不釣り合いな天秤のように括りつけられている。後方に伸びた一方は数条の縄で固定されていて、先には革袋に包まれた巨大な岩石が見える。何人がかりで運んだのか、人よりも大きな岩石であった。

馮異軍が射程圏内に入ったのを確認すると、趙匡は陰惨な笑みを浮かべた。


「放てッ!」


兵士達が数人がかりで固定の縄を外す。すると、轟音とともに六角形の構造物は垂直に落下し、同時に巨木が跳ね上がった。

風を切り裂く高い音とともに、岩石は馮異軍の隊列に着弾した。落ちたのは蓋延がいえん将軍の真横であった。


「なんじゃあこれは……!」


岩石は蓋延の護衛十数人を押しつぶし、そのまま岩全体が見えなくなる程深く地面の中に埋没してしまっていた。通常の投石機の数倍、数十倍の威力はあろう。馮異は渋面をつくって言う。


おもりの落下する力を投げる力に変換するからくりか。やはり趙匡はあれを持っているということだ」


馮異は副官の廬生ろせい等を使って、敵の強力な器械は次弾の装塡に時間がかかる、次が来るまでに肉迫せよとの命令を流した。

近づいてくる馮異軍を見て、趙匡はますます勢いづいた。


「近づけば今度はこれの射程内に入るのさ。毒風を放て!」


通常のばねを用いた投石機から、毒薬の煙を封入した壺が投擲される。馮異軍の前衛に着弾すると、煙が立ち込める。趙匡は城壁から馮異軍の兵士達ががばたばたと倒れていくのを見た。前衛の兵士達はほぼ全滅し、それが障害となって後続が進めないようだ。


「ふふふ、これ程首尾よく事が運ぶとはな。よし、煙が去ったならば前進して駆逐せよ」


やがて歩兵がじりじりと接近を開始した。いくら時間が経過しても安全とは言いがたい。彼らの足取りは重かった。

隗純軍が弓矢の射程まで近づいたとき、地に伏していた馮異軍の前衛はがばと起き上がった。

彼らは顔の下半分を黄色い布のようなもので覆っていた。鼻と口を防護するそれは二重になっていて毒風を吸着し、かつ小さな気孔から最低限の呼吸が可能であった。岑彭しんほうから送られた南方の特産品、海綿かいめんの面布である。

海綿で不気味な風体となった馮異軍は剣を抜くと走りだし、急迫してきた。毒風の効果がなかった事に、隗純軍は激しく動揺していた。


「普通の戦いに戻っただけだッ!怯むなッ!」


王元おうげんが大斧を振り回して声を枯らして叫ぶ。馮異軍は優勢を得たが、隗純軍は何とか踏みとどまっていた。


「おい!話が違うぞ趙匡、何とかせい」


趙匡は喚く隗純を睨みつけた。


「御覧じろ」


“怪物”の次弾が装填された。縄が外されると岩石は漢軍の本陣目掛けて空を翔けた。

馮異は自身の目前にめり込んだ岩石を見た。その下には押しつぶされた部下達がいるのだ。馮異は苦々しげに言った。


「やむを得ん。炸药さくやくの使用を許可する」


前線では王元が猛攻をかけていた。手ずから次々と漢兵を屠っていく。


「お前の相手はこの俺だぁ!」


声とともに飛んできた矢を打ち払った王元だったが、腕に耐え難い衝撃が走った。

前方には黒鉄の大弓を構えた蓋延がいた。

王元の勢いが止まったのを見て、小部隊が巨大な投石機に肉迫した。

趙匡はその動きを見つけると、杖を振って叫んだ。


「殺せッ!何としても皆殺しにしろ!」


隗純の部将である行巡こうじゅんが毛人達に吹き矢で襲撃させる。

首に吹き矢を受けた漢兵の一人が手に筒状の物を持ったままその場に崩れ落ちた。すると、耳が張り裂ける程の轟音を立ててその兵士は爆発四散した。腸や頭が宙を舞い、周囲に吹き飛んだ手や足がぼとぼとと落ちる。

毛人達から悲鳴が上がり、動揺が走った。


「ち、近づけるな。続けよ!」


次々と同じ惨状が展開された。中には爆発をしない者もあった。しかし、最後の一人は全身に吹き矢を受け、血の泡を吹きながらもなおも前進してきた。だが、遂に力尽き、ゆっくりと倒れる。行巡達はほっと胸を撫で下ろし、撃ち方止めをかけた。

その時である。不意に起き上がった漢兵は走り出すと“怪物”の真下に飛び込んだ。一瞬の出来事であった。

轟音と共に爆発が起こり、怪物の脚部がへし折れた。あろうことか破壊された器械はめきめきと音を立てながら城壁側に倒れていった。城壁の一部が無残に崩落した。

これを見逃さなかったのが突騎を率いる耿弇こうえんである。

耿弇は突騎とともに瓦礫を踏破し、城内に侵入した。勝負は馮異軍の勝利に終わったのであった。


 捕縛された趙匡は馮異の前に引き出された。隗純やその部将は逃げたが追跡されている。これらの捕縛も時間の問題であった。例外は王元で、隗純等とは別の道筋を辿って逃げたらしく、これの捕縛だけは不安視されていた。土埃で汚れた趙匡の顔を焚き火が照らしていた。


「久しいな、馮異。あんなものがあるなら、何故初めから使わなかったのだ」


馮異は咳き込みながら言った。


「こんな形で再会する事になるとは……何故なんだ、趙匡」


「俺の問に先に答えろ」


馮異は静かに炸药について話した。以前、馬援ばえん上林宛じょうりんえんを訪れたとき、公共の肥溜めや厠の規模が大き過ぎると疑問を持った事があった。実は、それらには炸薬の製造工場という裏の顔があったのである。

肥溜めの周りに出来る塩の結晶のような白い物体。これを天日で数日干すと出来るのが、馮異の呼ぶところの炸药である。衝撃を与えることによって大爆発を起こす、極めて危険な代物であった。

後代、この物質はニトログリセリンと呼ばれることになるのだが、それはもちろん馮異の知るところではない。


「人の手に余る兵器だ。出来れば使いたくなかった。それに、作ったはものの不意に爆発しないように安定化させる事が出来なかった。不完全なのさ」


「犠牲に目を瞑ればなんとでもなろう」


「私にはそんな考え方は出来ない。我が主君も同じだ」


趙匡がせせら笑った。


「強力な兵器を使えば戦闘は一瞬で終わる。出し惜しみして余計に死者が増えたのではないか」


「短期的に見ればそうだ。しかし、その後は?お互いに強力な兵器が出回り、果てしなく戦いは激化するのではないか」


馮異は押収した二巻の書物を懐から出した。


「これを書いた“三墨さんぼく”の人々は、そう思って秘したのだ」


趙匡はけらけらと笑って言った。


「俺はずっと“三墨”の伝説を追っていた。遂に二つまでしか手に入らなかった。口惜しいと思っていたが、おい、勿体ぶらずに見せろよ」


馮異は懐からさらに一巻の書を出した。


墨子ぼくしの弟子達、三派に分かれた所謂“三墨”は秦の時代に姿を消した。始皇帝に抹殺されたと言われているが、実際は違う。強力な墨家の技術は、秘されながらその子孫に伝えられてきた。私もその一人だ。他の二派の子孫に、お前は何をした」


「殺したよ……どちらも素直に渡してくれなかったのでね」


馮異は深く溜息をつくと、おもむろに三巻の書物を火に投じた。趙匡は悲鳴を挙げた。


「貴様、人の叡智を、なんてことを!」


「私はその叡智が行き着く先を夢に見た。やがて人はさらに恐ろしい物を思いつく。だが、そんな恐ろしい未来はもっと先の話でいい。これはその未来の到来を早めてしまうものだ。いじましくも伝承してきたのが、そもそも間違いだったのさ。炸药の素も全て処分した」


三巻の書物は炎の中で揺らめき、やがて燃え尽きた。趙匡はがっくりと項を垂れた。


「馮異よ……俺はお前と戦いたかった。共にではなく、相対してな。蜀に奔った理由は、それだけだ」


「私は、横に並んで戦っていたかったよ」


馮異は天禄てんろくの大剣を引き抜いた。小柄な馮異には不釣り合いな大きさだ。


「おいおい、ふらふらしてるじゃないか。無理するなよ」


「私自身がやらねばならん。……友だからな」


趙匡は鼻を鳴らした。両手を広げてひらひらとさせる。


「嬉しい事を言ってくれるねぇ……さらばだ、友よ」


馮異は天禄の大剣を振りかぶると一刀のもとに趙匡を斬り伏せた。血飛沫が馮異の頰を赤く染めた。立ち尽くす馮異の姿を、炎が茜色に照らしていた。


 冀から落門らくもんに逃走した隗純を追って、馮異は北上した。兵士の疲弊を理由に一度態勢を取りなおすよう進言する部将もいたが、馮異は取り合わなかった。


「ここで取り逃がしては再び息を吹き返す、その理屈はわかるのだが……」


廬生ろせいは馮異の強硬な態度に違和感を覚えた。珍しく、焦っているように見えたのだ。

将軍に直接聞こう。長くお仕えする自分が聞けなければ、誰も真意を確かめることは出来まい。

夜分にそう思い立った廬生は馮異を探したが部屋にいない。廬生は不安に駆られた。

 廬生の心配を他所に、馮異は太樹の下で酒を飲んでいた。月の光が優しく木ノ葉に染み込んでいた。

趙匡の血がまだ頬にこびりついているようで、気が晴れなかった。宴でもないときに飲むのは初めてと言ってよかった。しかし、一杯空けただけで頭がくらくらしてきた。慣れない事はするものではないな、と馮異は思った。

 月を眺めた後に再び地に目を転じると、鎧兜の男が佇んでいた。垂れ目が印象的な細面の男で、腰にはやけに長い剣を差していた。長剣の柄には鳥の頭があしらってある。


「これまでの戦い、見事であった。全て見させてもらったぞ」


「全て、ですと」


馮異は立ち上がり、謎の人物に対して身構えた。


「そう、全てだ。あそこからな」


男は天を指差した。


「我が名は韓信かんしん、貴殿を迎えに来た」


馮異ははっとして振り返る。立ち上がったつもりだったが、自分は大樹の根本に転がっている。それでは、この身体は何なんだ。しばし考えて、馮異は自分の死を了解した。


「そう悲しそうな顔をするな。天にも仕事は待っているから、退屈はしないぞ。歴史に名だたる名将とともに、天帝に反旗を翻した凶星を討つ。破れた凶星は地に落ちていく。貴殿も流星を見た事があるだろう」


「ただただ美しいと思って眺めていましたが、賊でしたか」


「何が逆賊か、難しい話ではあるがな」


韓信はばつの悪そうな顔をした。


「今死んだのはかえって幸せだったのではないか?長く仕えても良いことばかりとは限らない。どんなに度量の広い男でも、人は変わるものだ」


「我が主は、大丈夫ですよ」


韓信はふん、と鼻を鳴らした。

馮異は自分の亡骸を再び振り返った。


「心残りがあるのか」


「いえ、参りましょう」


劉秀の天下統一を見届けたかった、という気持ちはある。しかし、横から見るつもりだったものが上から見るだけになったという話だ。寂しくないと言えば、嘘になるが。


「将軍、こんなところで休まれていてはお身体に障りますよ。将軍?将軍?馮異様?大変だ!医者だ、医者を呼んでくれ!」


廬生の悲鳴が響く。馮異は目頭を押さえて、天へのきざはしを登って行った。

 建武十年(西暦三十四年)、征西大将軍馮異、落門にて卒す。おくりなして節候となす。

後に雲台二十八将の第七位に叙せられた。

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